Friday, December 31, 2004

ひかりほのかに (1940年の神戸で)

サンタに忘れられた、クリスマスの訪れない砂漠の街エルサレム。2005年の12月ももうそろそろおしまい。このエルサレムの街はイエス・キリストゆかりの地とあってクリスマスもさぞ賑やかで盛大なものかと思ってみれば、思いきり肩透かしを食らうかのように、いつもと変らぬ非日常的な日常がある。ましてや、この国の住人の大半を占めるユダヤの人々にとって師走は、毎年9月から10月にあるユダヤ暦の新年の前で、今日も5月の青空のようなすっきりと澄んだ中東の空の下。

しかし地球儀の北に位置する国々では、クリスマスと正月ムードで街も人も忙しくウキウキ。ふわふわ真っ白な雪ですら、中東にいれば遥か遠い国のできごと。クリスマス・プレゼントを求める人々で溢れるマンハッタンのMacy'sに、凍えそうな身体を芯まで温めてくれる甘く真っ赤なホット・ワインの、吐く息も白いベルリンのクリスマス・マーケット。大好きなあの人に、大切な家族にと、贈り物が見つからずに思わず溜息のひとつも漏れても、心は弾んで楽しいもの。

そして家中の大掃除に買出しに、成長した子供たちの帰りを今か今かと心待ちにしている父や母。ヌクヌクと炬燵でごろごろ、鍋をつついてのニッポンの家族団欒、目にも味覚にも色彩豊かなお重の御節料理。新年の行事。家族と文化、ノスタルジックに想いは遠いアジアの故郷の国へと。毎年この時季になると、あの頃の神戸を思う。

時はさかのぼって1940年のこと。神戸や横浜などではユダヤの人たちの姿が見られたという。いつどこかでかは忘れたけれど、安井仲治氏が1940年ごろの神戸で撮られたというユダヤの人々の写真。その写真には、流浪のユダヤの人々にあてがわれた神戸の家の窓から、帽子の下の頬がこけたひとりの男が窓の外を不安げに眺めてた。

その、名も知れぬユダヤの男の想い。国家の都合と利益、そのために家族と祖国とを失い、それまで聞いたこともないような名のアジアの小さな島国にヨーロッパの大陸から流れ着き、なにもかもが慣れない異国の街で、その先どうなるかもわからぬ不安な滞在の日々。現代の社会に住む私には、想像はできてもその現実はわかり得ない。

世界中で戦争がはじまって1年のち、ヨーロッパのユダヤの人々はすでにイタリアからの海路での脱出の手立てはなく、追われ追われてポーランドから小国リトアニアへ辿り着いた。その一行にはポーランドの有名なオーソドックス・ユダヤの学校、ミル・イェシヴァの生徒たちの姿もあった。しかしもう時すでに遅し、リトアニアから先は八方塞で、どの国もこのユダヤの人々を受け入れようとはせず。ロシアから大陸を渡るしか残された道はなく、途方に暮れるユダヤの人々の姿。そんな中、彼らに手を差し伸べたのは当時リトアニア日本領事代理の杉原千畝(ちうね)氏だったという。

リトアニアで途方に暮れていたユダヤの人々は、杉原氏の発行した日本通過ヴィザを片手に、この先どうなるとも知れない不安とかすかな希望を抱いてシベリヤを横断し、神戸、横浜へと旅をして。着の身着のまま、わずかな荷物と共に流れ流れて日本の土を踏んだ彼らは、数ヶ月から1年ほどの滞在の後には安住の地を求めて、上海などを経由してアメリカや当時パレスチナと呼ばれていた土地へと渡って行ったのだそうだ。

「神戸での1年間と上海の生活で、日本人のもっとも良い面と悪い面を見せてもらったよ。つまりはだ、日本はアメリカとの友好関係を保つには、ややこしくなりそうだったユダヤ問題は使いようだと考えたのだろう。河豚という魚は調理次第で猛毒にもなり、また最高の美味にもなるそうだ。そこで日本政府のユダヤ人対策はユダヤを河豚を見なして「河豚計画」と名づけられたと聞いたがね。

当時、日本はアメリカとの関係を考慮して、あの時の私たちのように難民となったヨーロッパのユダヤや、アメリカのユダヤに好意的ではあった。事実、私の滞在していた神戸でも、人々は私たちユダヤにひどい仕打ちなどはしなかった。勿論、当時のヨーロッパの状況に比べれば私たちはどこでも耐えられたのかもしれないがね。でもそんな生活もアメリカとの戦争がはじまるまでだったが・・・。

日本とアメリカは戦争をはじめ、上海は日本の占領下になり、その頃上海にいた私や他のユダヤの人々はもう外交に使えない邪魔なお荷物となったのだよ。詳しい数などは知らないが、ここでも他の外国人と同じように収容所に入れられたユダヤもいた。私はうまくアメリカへ渡り、長い月日を経てからイスラエルへとまた移り住んだ。ここではもう誰も私たちを追い出したり、収容所に入れたりはしないと思ったからさ。

しかしパレスチナとの問題で、この地でも多くの人々が亡くなってゆく。この地ですら、私たちにとっては安住の地とは言い難いかもしれないのだよ。この世界中どこへ行っても、ユダヤはいのちある「人」とは思われないのかね?」

エルサレムに住む、オーソドックス・ユダヤの友人アヴィーの父君の言葉。アヴィーの父君は、ポーランドのミル・イェシヴァの生徒の1人として、あの杉原ヴィザを片手に大陸を越え神戸へ渡りのちに上海へ、ごった返す上海からアメリカのニューヨークへと渡って行ったのだそう。アヴィーの父君は当時のことはあまり語らず、現在はエルサレムのヘブライ大学の近くで静かに老後を過ごしている。

クリスマスが近づく頃、ユダヤ暦のキスレヴの月の25日。ユダヤの世界ではハヌカの祭りがやって来る。BC165年のキスレヴの月の25日のこと、マカビーと呼ばれる小数のユダヤの司祭たちは、エルサレムを治めユダヤの神殿を奪ったギリシャ軍へ戦いを挑み、勝利を収めた。そしてユダヤの司祭たちは、取り戻したユダヤの神殿に火を灯そうとしたが、一日分のオリーブ油しか残っていなかった。しかし、その1日分のオリーブ油は、次のオリーブ油が神殿に届けられるまで奇跡的に8日間も燃え続けたのだそう。

それからは、毎年、キスレヴの月の25日からの8日の間、奇跡を起こした神の存在を忘れないようにと、ユダヤの家庭では日没と共に、ハヌキヤと呼ばれる蝋燭立てのようなものにオリーブ油に芯を入れ火を灯してゆく。その火の光りを通り行く人々が見られるようにと、通りに面した窓や玄関先にハヌキヤが置かれる。

エルサレムの街の夕暮れ時、家路を急ぐ男たちの姿。夫の帰宅を待つ妻は窓際でハヌキヤにオリーブ油を入れながら、その傍で子供たちは母の手作りの揚げたての穴のない美味しいドーナツ、スフガニヤを頬張る。楽しそうなハヌカの歌があちこちの窓から響きはじめ、今年もエルサレムにまた、ハヌカの火が灯りはじめる。

あの年、神戸や横浜でハヌカの光は灯ったのだろうか。もしも、あの年の神戸や横浜の街角でハヌカの光が灯ったのならば、もはや失われた遠くの故郷を、そして別れ別れになった行方の知れぬ家族や友人を想い、みなでそっと静かに寄り添って、神はどこにいるのか、また奇跡を起こしてくれるのだろうかと、そして生きて行く上での大切な何かを思いながら、その光を静かに見つめていたのではないだろうか。

そんなことを思いながら
よい年越しを

Wednesday, December 29, 2004

それは手の中にあるもの

七日間のハヌカの祭りも終わり、エルサレムもすっかり寒くなってきて、昼間はそれでも、すかーんと雲ひとつないイスラエル・ブルーな空が広がることもまだ多い。日が暮れてからは星がキラキラと輝き、冷えた夜空が高くとても美しく、どれだけ文明が発達してエルサレムが街らしくなったといっても、やはり中東と呼ばれる土地の、砂漠の真ん中にいることには変わりはないのだなぁと思わずにはいられない。この中東の夜空は日本の夜空とも、ヨーロッパでもニューヨークのボーロパークで見る夜空ともまたちがう。高く遠く透き通り、どこかなぜか人の力を超えたものを感じさせる空、とでもいおうか。この夜空に輝いたハヌカの祭りはユダヤのマカビヤの人々とギリシャ軍との戦いと、そして神の奇跡を忘れないための祭り。

先週の水曜日の晩に見た「Fiddler on the roof―屋根の上のバイオリン弾き」でこんな場面があった。ユダヤ村のミルク屋のテヴィエの長女は、父テヴィエが突然に決めた金持ちの婚約者の他に、誰にも打ち明けずにすでに将来を誓った幼馴染のさえない村の仕立屋がいた。父テヴィエにしてみれば、こんな貧乏でダメ男の仕立屋には同じ村人という以外は一切の関心を持っていなかった。それまではどうしてもテヴィエが恐ろしくまともに彼と口さえも利けなかった仕立屋は長女を他の金持ちの男と婚約させたと聞きつけ、初めてありったけの勇気を振り絞り長女との結婚を認めてほしいと熊のようなテヴィエに訴える。それを聞いたテヴィエはいつもの通りにうるさいハエでも追い払うように、このみじめな男のわたごとには耳を貸さず、しかしそれでも仕立屋は全身の力を込めて彼の想いをテヴィエに伝える。

「こんなちっぽけなさえない仕立て屋だって、し、し、しあわせになる権利はあ、あ、あ、あるんだ!」

「ほー!こんなひ弱なダメ男で、何のとりえもない貧乏な仕立屋のお前でさえも、一丁前の男のような口を聞くことがあるのかね!」

ついにテヴィエも空を見上げて考える。そして結局は仕立屋のありったけのその勇気と熱意を買い、そこまでの想いがあるのならと大切に育ててきた長女との結婚を認めてしまう。

そして場面は森のなか。人生の意外な展開への驚きとうれしさのあまりに歌い踊る仕立屋とテヴィエの長女。

「神は奇跡を起こしたんだ!」

仕立屋は森の木々のあいだを駆け回りながら全身で喜び歌い踊る。

このシーンを見ながら、現在のオーソドックス・ユダヤに見られる問題を思い出した。オーソドックス・ユダヤの世界の多くの住人は、いつの日にか神が使わすこの世を救うメシアの到来を待ち望み、イェシヴァと呼ばれるユダヤの宗教学校で学びながら日々を暮らしている。神の奇跡とは自分たちは何もしなくても神が起こしてくれるもの、人生の決断は神がしてくれるもので自分はそれにただ従えばよい。

神の奇跡、ハヌカではそれを忘れないようにと祝う。はるか昔、ギリシャ軍によって攻め寄せ落とされ大切な神殿を奪われたのち、ギリシャの宗教と異文化を押し付けられたユダヤの人々も、今さらギリシャのような大軍にかなうはずがないがそれでもと、ほんの少数が立ち上がって勝ち目のないギリシャ軍に立ち向かった。その結果としてユダヤの人々は最終的には神殿を取り返し勝利を得たが、取り返した神殿を清めるためのオリーブ油はたったの1日分しかなく、新しいオリーブ油がエルサレムに運び込まれるまでは、それから8日間も待たなくてはならなかったという。リスクを犯さずに8日のちに新しいオリーブ油が届いてから神殿を清めるために火を焚けばよいところを、あえて1日分しかないオリーブ油を焚き、その結果としてその炎は8日目に新しいオリーブ油が到着するまで燃え続けた。ハヌカの奇跡として語り継がれているこの1日分の少量のオリーブ油が8日間も燃え続けたという話は、きっと現実には起らなかったかもしれない。

「Fiddler on the roof」の仕立屋の捨て身の告白。それまでは恐ろしいクマのようなテヴィエ、しかし勇気を振り絞り声を発したことでダメ男の仕立屋が手にした幸せ。じっと座って誰が何かをしてくれるまで待つのではなく、立ち上がり挑戦したことの結果が、ここで言われる神の奇跡なのだろう。

何も行動をしなければ何も起こらない。手に入るものさえも、そのままするりと手から抜けて滑り落ちてしまう。だめでも、それでも懸命に立ち向かったということが大切なのじゃないのかと。できるだけを尽しても、それでだめならばそれはそれでしょうがない。でも何もしないでいては、もっとしょうがない。人生には、大きなこと小さなこと、いろんな場面に出会ってゆく。その時に思い切って立ち上がるか立ち上がらないか、そこで得るものと得られないものが分かれていく。それが大きなものであればあるほど、全身で立ち上がらなければならない。こんなあたりまえのことなのだけど、人はすぐにちょっとすると楽なほうへと流されやすく、いや、それが人というものなのだろう。いったい何が本当に大切かを忘れてしまう。もし神の奇跡というものがあって、それが起るか起らないかはきっと本当は自分たちの手の中にあると、そんなことなのじゃあないかなと思いつつ、今年のハヌカを終えよう。

Sunday, December 12, 2004

かざみどり fiddler on the roof



「Sun rise, sun set...sun rise, sun set...日は昇りまた沈む・・・そして日は昇りまた沈む」

「Tradition!!.....But on the other hand...伝統を守れ!・・・でもまあ、ちょっと待てよ・・・」

エルサレムのシネマテックで行われている「Jewish Movie Festival」で上演された「屋根の上のバイオリン弾き」を、昨夜観に行って来た。予定ではこの映画監督と主演のイスラエル出身の俳優ハイム・トポル(Chaim Topol)氏が、舞台挨拶をするということだったので、往年の名優を一目みたいと少々ミーハー的な気持ちもあって、デジタル・カメラを片手にいそいそと出かけて行った。しかし、ああ、やっぱりここは中東の街エルサレム。

会場の入り口では、上演30分ほど前からすでに押すな押すなの大騒ぎ。それもこれも、今回の映画がシネマテック内の大きな劇場での上映なのにもかかわらず、座席指定がされていないこと。そして、ああ、やっぱりさすがはエルサレム人!「オラッチが一番だぎゃ」と、ロビーではもう他の人のことなどはお構いなしの押し合いへし合い。ようやく劇場の入り口のドアが開いたと思ったら、おりゃー、とオラッチたちは狭い入り口へ突進し、もう見苦しさいっぱいの座席取り合戦がはじまった。いやはや、他国民といえども、こんな大人の行動は見ていて恥ずかしい・・・、というよりも、これじゃあ、とっても大人じゃないか。

と、私もそんなに悠長にお利口さんぶっている場合ではない。会場の隅の席でデコボコしたアタマにスクリーンをさえぎられて、上映の3時間をムズムズしながら過ごすのはゴメンである。ガイジンサンだって、日本に住めば日本のマナーを身につけるご時世。昔から人は「When in Rome, do as the Roman do」そう、郷に入れば郷に従えというではないか。なにを隠そう、私ももちろん、オラッチよろしく潔くセキトリ合戦に参戦して、しかも、カヨワキ、ヤマトナデシコ、ちゃっかり劇場の中央を陣取ってみる。

ふぅー、もうすでに体力の半分ほどを費やしてしまった感じがするのは気のせいだろうか。そうしてやっと他の観客たちがそれぞれの席に着いても、いつまでたってもザワザワと相変わらずやかましい館内。これから3時間の長い映画、頼むから静かにしてちょうだいエルサレム人たちよ、などと思っていると、司会のオネエサンが舞台際でヘブライ語でなにか話しはじめた。それでもさすがはエルサレム人、ザワザワと静まらないおしゃべりに、「しーっ!しーっ!」と、あちこちでやりはじめたから、またまたそれがなんとも騒がしくてアタマが痛くなる。

「・・・監督さんは奥さまが二日前に亡くなられ、残念ながら急遽アメリカへ帰国なさいましたので、今夜はこちらへはいらっしゃいません。では皆さま、映画をお楽しみくださいませ」

とオネエサン。出だしから思いっきりの肩透かしを食らう。まあね、そんなものですよエルサレム。でもそれじゃあ、もう一人のゲスト、トポル氏はどうなさったのだ?と尋ねる暇もなく、お待ちかねの「Fiddler on the roof」の幕は開けた。

それにしてもこの映画、しょっぱなから最後まで強烈なくらいにユダヤ・ワールド全開なのである。一つ一つの会話の運び、ボケとツッコミ、爪の先からアタマのてっぺん、身体の動きから何から何まで、これ以上は描けまいというくらいにユダヤの世界が見事に描かれている。まさに「ユダヤ映画の傑作」といっても過言ではないほどの勢いで。

この映画の原作「Tevye's Daughters」では、テヴィエは日常の悲しみにおいて常に神と対話をしているが、映画では全身体的におもしろおかしく描かれ、トポル氏の迫力の歌を名演技で楽観的。しかし、映画後半から徐々に影を現す、幸せと悲しみがいつも紙一重で隣り合わせのユダヤの運命への苦悩。何世紀にも渡り、ヨーロッパでそしてロシアで繰り返されたユダヤのポグロムと流浪の歴史。「Tevye's Daughters」の著者で、ロシアのウクライナ出身のイディッシュ文学の文豪シャロム・アレイヘム(1859―1916)彼自身も、1905年のポグロムを経験し、この物語の主人公ユダヤの中年男テヴィエと同様に、住み慣れた家と土地と、街と、友と、家族と離れて、アメリカへと悲しい移住をしたという。

そして、この映画のテヴィエといえば、やはりこの台詞「Tradition!」なのだ。テヴィエの3人のトシゴロの娘たちは、ユダヤの伝統を重んじて生きてきた父とは別に、ユダヤの伝統的な結婚をせず、そんな時代の流れにテヴィエはアタマを抱え込む。しかし時代は変わりゆくもの。自分とは異なる世代を生きる娘たちを通して目の当たりにする世界の刻々たる変化と、これまで自分たちが生き残るために守ってきたユダヤの伝統としきたりの狭間で、テヴィエはこの先、なにが一番大切なのかを選択をしてゆかねばならない。テヴィエは娘たちの非伝統的な結婚に、怒りを込めて人差し指を立てた両手を空へ掲げる。

「Tradition!」

守らねばならぬのはユダヤの伝統だと、テヴィエは野太い声で叫ぶと、ふっと空を見あげて、いたずらっ子のような大きな眼をして、少し考えてみる。

「・・・いや、ちょっと待てよ。伝統も大切だが、今や時代は変りつつあるんだ。伝統と娘の幸せを天秤にかけるのならば、少しのことは大目に見て許してやろう。近所のヤツラにはなんとかうまく言っとくか。愛しい娘の幸せには変えられんよなぁ・・・よし!娘よ、わかったぞ、好きにするがいい!」

そう掲げた手を下ろし、妥協してゆくのだった。ユダヤのコミュニティーの中で生きていくには、曲げることなど許されない伝統。しかし、それだけではもうどうにもならない時代の流れに、守らねばならない伝統と妥協との狭間を行ったり来たりする父テヴィエ。娘たちの幸せを何よりもプライオリティーとし、人差し指を下ろす父としてのテヴィエをスクリーンに見ながら、なぜか日本にいる無口で頑固な父の姿を重ね合わせていたような気がしてならない。

Fiddler on the Roof。いつ落下するとも知れない危なっかしい屋根の上で、風が吹くたび、よろよろふらふらら。まるでクルクルまわる屋根の上の風見鶏のように。守るべき伝統と文化と、それらを必要としない文明と物質重視の二つの両極端のベクトル。そんな新たな時代の風に吹かれながら、伝統だけにガンジガラメになっていては、その他の本質的な大切なものを見失うこともある。しかし、そうかといって伝統をそっくり投げ出してしまっては、新しい風が吹くたびにあっちへ方向転換こっちへ方向転換と、軸が無くなってしまえばこれまたどうにもならない。

価値観の異なってしまった時代で、それまで受け継がれてきた伝統と、自己のアイデンティティを保つことの難しさ。そして伝統を持たない人々はアイデンティティを取り違え、軸もなくくるくるまわり方向を見失い、価値を見失う。しっかりと大地に足を下ろさなければ、バイオリンはうまくは弾けない。

日は昇り、そしてまた沈む。テヴィエの苦悩は、まさしく現代の苦悩。あっという間に時代は流れ、変化し、伝統なんぞは古めかしい時代遅れのガラクタよと、笑われる。ならば私もここいらでテヴィエのように、そして父のように「Tradition!」と、声高々に両手の人差し指を空へ掲げてみようか。それとも、彼らのようにウインクして、やっぱり片手ぐらいにしておこうか。そんなことを考えながら家路についた、澄んだ砂漠の星の夜だった。

Thursday, December 02, 2004

パン職人のけっこん the most beautiful moment

男と女。出会って別れて。いくつもの出会いと別れの中で、一体いつになれば夢にみたあの人に出会えるのだろう、なんて、ふと思う。そのたったひとりに出会うまで、いつまでも人は彷徨い続けるのだろうか。

バシェレット。運命、またはソウル・メイトというイディッシュ語の言葉。ユダヤの教えの中でも神秘主義と呼ばれているカバラでは、人がこの世に生まれて来る40日ほど前にそれぞれの「バシェレット」が決められるという。むかしむかし、エデンの園のアダムとイブがひとりの人だったように、この世界に生きるすべての人にはどこかにその欠片が存在し、そしてその欠片と出会い、共に生きることで二人は完全なひとりの人となるのだそう。


בראשית ברא א-להים את השמים ואת הארץ

はじめに神は天地を創り、そこにはまず闇があった


והארץ היתה תהו ובהו וחשך על פני תהום ורוח א-להים מרחפת על פני המים
ויאמר א-להים יהי אור ויהי אור
וירא א-להים את האור כי טוב ויבדל א-להים בין האור ובין החשך
ויקרא א-להים לאור יום ולחשך קרא לילה ויהי ערב ויהי בקר יום אחד

そして神は「光りあれ」というとその通りに光りが生まれた
神は光りを見て良しとされ、光りと闇を分けて
光りを昼、闇を夜と呼び、夕べがあり朝があった
こうして一日は創られた


ボーロ・パークの夕暮れ。新たな一日のはじまり。橋向こうの遠くに立ち並ぶ高層ビルの隙間に見え隠れしながら、マンハッタンの西に落ちてゆく陽の光りを、空に満ちる排気ガスのスモックが朧に包みこむ。コンクリート・ジャングルの上に柔らかく朱色に染まった空とともに、ユダヤの新しい一日がゆっくりとはじまろうとしている。

深いボルドー色の美しいビロードのフパ(家の象徴である天蓋)の下で、ハシディックの正装を身につけたメナシェが、それまでにたった一度だけ会った彼の新しい花嫁を待っていた。透き通るように青白い肌、ブルー・グレーの瞳のメナシェ。金色の髪の頭の上には茶色の光沢の毛並みが美しい毛皮のシュトライマレ帽がすっぽりと落ち着き、左右のこめかみからはクルクルと丁寧に巻きこまれたペオスが揺れている。膝下までの黒い絹のカフタンと呼ばれるロング・ローブ、コサックの衣装のようにすぼまった黒いズボンに細い飾りリボンが結わえられ、そこから白いタイツがすーっと伸びやかに細い足を包む。その気品はまるでずっと遠い昔のポーランドかどこかの貴族のように、静かに高貴さを含んでいる。フパの下に凛と立つメナシェの隣には、同じようないでたちの、しかし少々くたびれたような黒い服にシュトライマレ帽を被ったラビや結婚の証人の男たちが並び、花嫁が母親に連れられてホールの扉を開けフパへとやって来るのを、今か今かと、祈りの時のように静かに身体を前後に揺らし、リズムを取りながら待ちわびていた。

天井の高い、ヨーロッパ調の広いホールの中央に建てられたフパ。それを囲むようにして、静かな黒い一塊。おしゃれとは程遠い古風なスタイルの黒い上着に、おなじように黒いスカートとシーム入りのタイツを穿いた女たち。頭部をかつらや雪帽子のようにまあるくスカーフで包んだ小さな黒い女たちが集まり、小声のイディッシュ語でなにやらヒソヒソと囁いている。黒い女たちの塊のあちら側には、彼女たちの髭の長い黒い服の夫たちが先ほどから身体を揺らしている。マンハッタンとおなじニューヨークでありながらも、オーソドックス・ユダヤのしきたりによって生きているボーロ・パークでは、女たちと男たちの姿と声が公で無防備に混ざり合うことはない。

静かに音もなくホールのドアが開いて、フパの下のメナシェはまわりの誰も気がつかないほど小さく息を飲むと、ほんの一瞬、ちらりと不安にその視線が左右に泳いだ。花嫁が母親らしき黒い服の小さな女と、もうひとり、おなじように黒い服で無口そうな中年の女に支えられながら、一歩一歩ゆっくりと踏みしめるようにメナシェの立つフパへと近づいて来る。世俗の華やかなウェディングではもう古めかしく、ブライダル・ブティックのショー・ウインドウにすら飾られることもないような、つま先から首まで肌を隠した古風で、清楚な光沢の絹が白く流れるAラインのロング・スリーブのウェディング・ドレス。

ちょうど花嫁の細い肩に触れるほどの長さの厚い絹のヴェールは、これまで見たハシディックの花嫁のどれよりも厚く、しっかりと首から上部を覆っている。その厚いヴェールに包まれた花嫁の思いは、一歩一歩、ゆっくりとフパに近づくほどに神秘性を増してゆく。フパのまわりを囲む黒い服の青白く小さな女たちは少しうつむき加減で、すでに囁きを止め言葉なく、じっと食い入るかのようにその顔のない花嫁を見つめていた。ヴェールに包まれた花嫁は、母親と付き人の女に導かれて、フパの下でどこか遠くをじっと見つめているような新郎のまわりを、伝統に従い7回ゆっくりと回り、そうして静かに厳かに、ユダヤの婚礼の儀ははじまった。


ボーロ・パークの片隅の、パン焼き職人のメナシェ。両耳の横に巻かれた金色のペオス。黒いヴェルベットのキパを頭に乗せ、口下手で、年の頃は30の少し手前だろうか。白いワイシャツに黒いベストと黒いズボン、昔の紳士のような典型的なハシディックないでたちに、エプロンを小麦で真っ白にしながらボーロ・パークの端の小さな工房でパンを焼く。メナシェは、まだ右も左もわからない若い頃に親が決めた、おない年の妻との折り合いがどうしてもうまくいかず、お互いに本当のバシェレットを見つけようと、一年ほど前に妻と夫としてではなく別々の人生を歩むことにした。それからというもの、妻の望みによって、メナシェは愛する二人の息子たちの前に姿を見せることは許されず。オーソドックス・ユダヤの世界では、離婚した後、それほど時間をおかずに次の結婚の相手を探すことが多く、まわりの世話焼きな黒い服の男たちは、メナシェとおなじような年頃でおなじように離婚したての女性との見合いを、当たり前のように彼に勧めた。メナシェもそのしきたりに従い、何度目かの見合いをしてから半年後、ふたたびフパの下に立つこととなった。

フパの下に立つ日が決まった頃、メナシェはその日のパン焼きの仕事を終えると、パン工房から幾ブロックか先の友人イツホックのオフィス・Cに度々顔を出すようになった。この次こそ本当のバシェレットと共に生きることとなり、再び人として一人前になる喜びに満ちているはずのメナシェなのに、少しも浮かれた様子など見あたらず、それどころかとても気が重そうで、ブルー・グレーの瞳は少し悲しげに潤んでいた。

「メナシェ、どうしたんだい?!結婚前の君がそんなに落ち込んでいるなんて、なにかあったのかい?」

イツホックは思わずそう尋ねずにはいられなかった。

「ああ、イツホック・・・。よく聞いてくれましたね。・・・実は今度の再婚のことなんだ・・・。正直な話、僕はまだ心が定まらずにいるんだ。現実的にはまだ結婚などできないと思うんだ。今でもふたりの息子たちのことを思っている。片時も忘れずにね、彼らはずっとずっと僕の心にいるんだよ。できることならば、どうにかして息子たちと一緒に生きてゆきたいんだ。・・・でも、わかっているさ、そんなことは別れた妻が許しはしないって。僕はしがないパン焼き職人で、だめな男の見本らしいからね。息子たちには悪い影響なんだそうだ・・・」

「なにをいっているんだい、メナシェ。君がダメな男であるはずがないじゃないか。・・・すると君は離婚以来、子供たちにまったく会わせてもらえないのかい?」

「そうなんだよ・・・。すでに前の妻には新しい家庭があるし、幼い息子たちには新しい父がいる。妻の今の夫と僕の宗教観が微妙に異なるからさ、息子たちが神への理解を混乱するといけないってね。息子たちの本当の父親は僕なのに、息子たちには会わせてもらえないんだよ。この苦しさを一体どうしたらいいのか、毎日、胸が痛むんだ。まだとても両手を上げて次の結婚を喜ぶなんてできない気がするんだ」

「ああ、そうだったのか・・・。いくらこの街じゃあ珍しくもない話だといえども、それじゃあ君はつらいだろう。ということは、メナシェ、ひょっとして君はこの結婚をやめるのかい?!」

背もたれにもたれて椅子を前後に揺らしながら、イツホックは、悲しそうに背中を丸めたような姿勢のメナシェに尋ねた。

「いや、イツホック、そんなことをしたら、それこそ僕は変わり者扱いさ。そうなったらとてもじゃないけど、もうこの街には住めないよ。息子たちとも永遠にお別れだ。ここはボーロ・パークだからね。離婚したらまたすぐに見合いで相手を見つけて結婚だろう?まわりは僕にとって良かれと思って、見合いだの結婚だのバシェレットだのというけどね、そんなことは今の僕には自信がないんだよ」

見合いと結婚、離婚と子供との別離、そしてまた結婚。出会いと別れというトランジション。まだ一度たりとも結婚をしたことのないイツホックですらも、現実がすべて甘い綿菓子でできていないことはわかっているつもりだった。メナシェは続けた。

「離婚してからまだ一年にも満たなくて、心の整理ができていないんだ・・・。人の心はそんなに簡単なものじゃない。いくらすべては神の手にゆだねるべきこと、すべては成るようになっているといっても・・・。それに、わかってはいるけどね、新しく僕の妻になる女性には僕と同じようにすでに子供がふたりいるんだよ・・・。僕の子供たちには他の父がいて、僕は他の子供たちの父となる。どうしてこうなったのか、どうしても今は理解できないんだ。家族ってこんなものかい?結婚って、バシェレットって?神は・・・一体・・・ああ、ハス・ヴェ・ハリラ!僕はとんでもないことを口にしようとしている。忘れてくれ、イツホック・・・」

メナシェは丸めた肩で大きな溜息をつくと、耳の横の金色のペオスを人差し指でクルリと不安げに巻き直し、ブルー・グレーの瞳を伏せた。オフィス・Cの常連で家庭を持つ男たちは、そんなメナシェの思いなどナイーヴな戯言と軽く聞き流す。

「なあに、メナシェ、再婚すればあっという間に気も晴れるさ!また子供が何人もできればそれでいいじゃないか。しばらくもすればまた家族になれるし、くよくよ考えている暇なんてなくなるさ!時計はチクタク、人生は短く、時は待ってはくれない。君はそんなことに悩んでいる暇があったら、もう少しトーラーの勉強をした方がよくないか?」

やけに白々しい男たちの声は、メナシェの気持ちをさらに不安にさせるだけだった。イツホックはいつも話を聞く時にするように、少ししかめっ面をして、長く伸びた顎髭を何度も上から下へと静かに撫でていた。ボーロ・パークの片隅で、もうすぐ彼は30代を終えようとしているのに、いまだにバシェレットに出会ってはいない。イツホックのバシェレット、神の計画は誰にもわからない。イツホックは椅子の背もたれを前後に動かしながら、メナシェを見つめた。

「なあ、メナシェ、憶えているかい?ラビ・ヤコブ・ウェインバーグの言葉を。ラビ・ウェインバーグは、“人生で起こったことの10%が事実で、残りの90%は自分の受け取り方である”と、仰った。君が離婚したことも、子供に会えないことも、そしてこれから再婚することも、それはすべて事実だろう。しかし、これからもそうやって否定的に受け留めてゆくのか、それともそこから何かポジティヴなことを見つけてプラスにしてゆくのか、それは君次第なのじゃないだろうか。コップに半分入っている水、これを半分しかないと嘆くのか、または、まだ半分も入っていると感謝するのか。それはその人の選択だ。コップに水が半分入っているということだけは、誰にも同じ事実だよ。私はできることならば、水はまだ半分も入っていると思いたいんだ」


新郎のまわりを花嫁はゆっくりと左回りに7回まわって、静かにふたりは隣に並んで立った。フパの下のバシェレット。その時、花嫁の心情はその言葉どおりに厚いヴェールに包まれて、その神秘は神と顔のない花嫁のものとなる。ユダヤの婚礼の儀は厳かに運ばれてゆく。結婚の契約書が読まれ、2000年も変らぬ祈りの声が響く。


אם אשכחך ירושלים
תשכח ימיני
תדבק לשוני לחכי
אם לא אזכרכי
אם לא אעלה את ירושלים
על ראש שמחתי


エルサレムよ
もしあなたを忘れなければならないのならば
私の右手を動かぬようにし
私の舌を口蓋につけましょう
至福の時において
エルサレムは私の心にあるのだから


「バン!」

メナシェはエルサレムのユダヤの神殿の破壊とディアスポラの悲しみの記憶をその胸に、力を込めてガラスのワイン・グラスを強く踏みつけた。その音がホールに低く響き、一瞬の沈黙の後、フパのまわりの黒い服にシュトライマレ帽の男たちが両手を大きく広げ肩を抱き合う。

「マザル・トーヴ!マザル・トーヴ!」

互いの背中を摩るように、喜びをこめて「マザル・トーヴ(おめでとう)!」と大きな声で繰り返す。ユダヤの人々は、幸せの中にでも、決してエルサレムとユダヤの悲しみを忘れはしない。メナシェは黒い男たちに囲まれながら、まだ顔を覚えきれぬ花嫁を探す。ヴェールを脱ぎ、既婚の印にかつらで頭部を覆った花嫁はすでにフパの外。ホールの向こうから、静かにフパを見つめていた黒い服の囁き女たち連れ出され、女たちは互いにそっとほほにキスをしあい、少し憂いを含んだ小さな声でまるでその意味を噛みしめるように、確かめあう。

「マザル・トーヴ・・・、マザル・トーヴ・・・」

悲しみも喜びもすべては神の計画、なるようになる。黒い女たちは、コップに半分の水を否定も喜びもせずに、そのまま事実だけを受け入れるかのように囁きあう。

パン屋のメナシェの結婚。フパの下ではまるでポーランドの貴族ように気高く美しく。どこか悲しみの色のブルー・グレーの瞳には、至福の時でも悲しみを忘れないユダヤの知と美と歴史が、そしてメナシェの過去と未来、喜びと悲しみのすべてが映る。イツホックはフパのそばで「マザル・トーヴ!きっとこの次は君の婚礼だ!」と黒い服の男たちに背中を叩かれ、「マザル・トーヴ!」と不安な思いを悟られないように大げさにすら言い返す。髭を下に引っぱるようにして撫でながら、新たな人生の一歩を踏み出したメナシェの姿を追った。



Friday, November 19, 2004

kafkaな一日 kafka fkafkaf ka

チクタクチクタク・・・

「アンタの書類を失くしたから、今はどこにあるかわからんからね。見つかったら連絡するから。私は知らない。はい、サイナラ。次の人!」

質問も答えも理由も、そこには一切存在しない。ただただ混乱した一方的な時間と空間。ギョウセイ、ぎょうせい、行政、bureaucracy、・・・ああ、アタマが痛い。異邦人の女はエルサレムでこれまでに、幾度こんなカフカ的体験をして来たのだろうか。先日、ヴィザの関係で、異邦人の女は朝からまたまたいつもの新市街の役所へと足を運ぶこととなった。


チクタクチクタク・・・


中東の太陽がすでに厳しく照りつけている朝8時、入国管理局ミスラダ・ハプニムのドアが神々しく開く。すでに2時間ほどもその前で、この瞬間を待ちわびていた老若男女にベビーカー。ロシア、ウクライナ、セルビアにボスニア、フランス、イタリア、ブルガリア、チリ、メキシコ、ブラジル、フィリピン、タイ、イランにイラク、エチオピアに南アフリカに、世界中の隅々からこの国へと生活を移してきた人々。ユダヤ教、ギリシャ正教、ロシア正教、エチオピア正教、カトリックにプロテスタント、仏教、イスラーム教。多国籍、多宗教、ナンビトでもござれと、トライアスロンのスタートよろしく、押しあいへしあいワンサカワンサカ揃って、開け放たれたミスラダ・ハプニムのドアの中へと吸い込まれてゆく。ニッポン代表、異邦人の女もそれに混ざって、飾り気もなにもないビルの中の細い廊下を形振りかまわずまずは短距離走。そしてレースは一挙に心臓破りの階段へと続く。階段をハー、ハー、と息を切らせながら3階まで一段抜かしで駆け上がり、ようやくたどり着いたオフィスへの狭い入り口のドア。またまた、ムギュッ、ムギュッ、と汗だくでオシクラまんじゅう。無理やりそこに身体をねじり込むと、やっとのことで受付カウンターのお姉さんに番号札と申請書を受け渡されて、レースはおしまい。しかし、新たなる勝負はここが正念場。油断は禁物。ここでの横入り、順番抜かしは当たり前。しっかりと自分の足場を固め、弱肉強食、誰にも先を越させてはならない。

ここでなんとか足元を固めた異邦人の女は、それから冷房のガンガン効いた待合室での長ーい我慢大会へと突入。日本の暦の上では秋といっても、こちらはまだまだ夏日の続くスカーンッとイスラエル・ブルーの青空のエルサレム。暑い外気とは対照的に、毛布の一枚でも担いで来るべき冷え切ったオフィスの寒さの中、早くて10時ごろ、いや、うっかりすると11時にならなければ異邦人の女の番号が呼び出されることはなく、時間を潰すための本を忘れるとこりゃ大変。これまでも冷房の寒気に振るえながら、カウンターの壁に自分の手元の番号が点滅し、やっと呼び出されてみれば、

「アンタの書類を失くしたから、今はどこにあるかわからんからね。見つかったら連絡するから。私は知らない。はい、サイナラ。次の人!」

と、有無を言わさずに押しつけられるか、

「足りない書類を次回一緒に持って、また出直し!」

と素っ気無く、こちらの口を開くまもなくいい渡されて、まるで耳の垂れ下がった見捨てられた路地裏の子犬のように、きゅーんと情けない気持ちになる。この間、たったの2分ぐらいだろうか。まるで日本の大病院の待合室のようにして、そしてすぐに「はい、さようなら」となすべくもなくお払い箱。しぶしぶまた改めて他の朝に「前回までは要らなかった」はずの書類を持参して、このトライアスロンを走りきらなければならなかった。

この毎日のあまりの混雑さに、やっとミスラダ・ハプニムがそれらしい解決策を出してくれたのは去年のことだった。今まで誰もが考えつかなかったこの「予約制」という前代未聞、ハイテクな21世紀を代表するかのような画期的ですばらしいアイデアのおかげで、もう二度と早朝から全速力で階段を駆け上がらなくても済むようになった。しかしこの予約制、果たしてよいのか悪いのか、予約が取れるまでほぼ一ヶ月待ちは当たり前、緊急の場合でさえも融通は利かずまったくなんの役に立たない。


その日の朝、時間に几帳面なニッポンジンらしく、予約の時間通りにミスラダ・ハプニムに向かう異邦人の女。そして前回紛失されたはずのファイルは、オフィスのファイルの密林のどこかからか運よくも発掘され、しかし案の定、お決まりの言葉が異邦人の女を待っていた。

「この書類が一枚足りない。これからすぐにKG通り22番地の役所でその書類を発行してもらって、もう一度お昼までに帰って来い!」

これまでにも何度もあれが足りないこれが足りない、といわれ続けて早や二年が過ぎた。ならばどうして申請時に「あなたの場合は書類AとBとCが必要だから、それらを揃えて提出しろ」といわないのだ!と、まるで普通の国で通用するような、真っ当な意見をいってみたところで、この中東の国では埒が明かず、時間とエネルギーの無駄となって余計な疲労感を肩にどかーんっと落とすことになる。そこでわかりきった無意味なことは避けて、新たなるトライアスロンのはじまりはじまり、ヨーイ、ドン!

チクタクチクタク、タッタッタッタッ。

それーっ、と異邦人の女は急いでミスラダ・ハプニムを飛び出して、KG通り22番地をめがけて緩やかな坂道をひたすら走ってゆく。日中のエルサレムの日差しはアジア人特有の濃い黒髪を照らし、お陰で頭上の温度はかなり高くなる。「目玉焼きができそうだなあ」と、走りながらもまだ異邦人の女は余裕があるらしかったが、中東のカラカラに乾いた陽の下でも、やはり走れば当たり前に汗も出るし、鼻の頭だって光ってくる。しかしファンデーションを下地から丁寧に塗ったこざっぱりとした女性などは、砂漠のエルサレム村ではほぼ見かけられない存在。日焼け止めさえも塗らずに、素肌にアイラインと口紅でさささっ、行って来まーす。そんなエルサレム村にローカライズしはじめている異邦人の女も、ポケットのハンカチでポンポンと鼻の汗を拭きながら、KG通りへと22番地を探し走った。

「おっ、ここにちがいない!」

入り口に立っているのは、ブルーの制服の半袖シャツ、無表情なサングラスのガードマン。

「シャローム!ここはKG通りの22番地ですか?」

無愛想にポツリと答えるガードマン。

「ここは22番地じゃなくて24番地だけど。22番地はあっち~」

「あれ?おかしいなあ。役所はこのビルの中にあるように記憶していたんだけどなあ。勘違いかしらん?」

首をかしげる異邦人の女。しかしここで悠長に考えている時間はない。チクタクチクタク、時間は待ってはくれない。「トダ!」お礼を述べると、異邦人の女はくるりと向きを変え、彼の指す方向へと。横断歩道の信号が青になるのを待たずに駆け足で通りを渡り、公園を横切って、今度こそ正真正銘22番地へと。息を切らせながら、ビルを見上げてみる・・・。しかし、どう見てもこんなスーパーのような外観のビルの中には役所はありえない。しかもこの22番地にはなぜか入り口が何ヵ所もあるらしい。

「ここっ、あのっ、ここは、・・・22番地っ?」

肩で息をしながら、異邦人の女はコーヒー豆のようなガードマンを見つめた。

「そうですよ。このビルのドチラへ?」

警備会社のマークの入ったグレーの制服、30歳に少し手前らしい、風でさえも倒れそうなほどに細身のエチオピアンのガードマンは、面倒くさそうにちらりとその視線を異邦人の女に投げかかる。

「書類を受け取りにヤクショへ」

「ここにはヤクショなんてのはないですよ」

「はいっ?でもココ、KG通り22番地デスよね?」

「はい、ソノトーリ、KG通り22番地です」

1990年あたりにエチオピアからの移住が盛んだったころに、このガードマンの彼もイスラエルへと移り住んだのだろうか。少しだけエチオピア訛りの残るような、おとなしいヘブライ語と、異邦人の女の日本語訛りの控えめなヘブライ語が言葉少なげに不安に交差する。


それにしても、おかしいなあ、変だなあ。ミスラダ・ハプニムではKG通り22番地だといわれたのになあ・・・。


「トダ・・・」

それならば、と異邦人の女は裏にあるもうひとつの入り口へとまわってみた。チクタクチクタク・・・時間はなにもお構いなしにすぎてゆく。すでに時計の細い針は正午まであと40分ほど。異邦人の女の頬に、冷めたい汗がすーっと流れ、切れる息の合間に言葉が飛び出す。

「ヤ、ヤ・・・ヤクショは、ここでしょう?」

「ここはKG通り22番チーニャ」

金色の髪にピンク色の頬でにこやかに、強靭な白クマのような若い大きなロシア人のガードマン。

「そう、KG通り22番地でしょう?だ、か、ら、ハァー、ヤクショはここ、ここでしょう?あ、いや、私はロシア人じゃないからロシア語はわかりませんよ。え?じゃあカザフスタン人じゃないのかって?・・・ちがいますって・・・!」

「ソウナノニャ、あなた、ロシア人かカザフスタン系の人みたいニャ。ダ。エーっと、KG通り22番チ、ヤクーショ、ニャんてーの、ニャーよ。・・・ン?ダ。ダ。そのヤクーショニャーら、トニャリーの24番チーニャ。通りを渡ったあニャ公園のミュこうでーニャ。そうそう、ナホン、That’s rightニャ」

ロシア語に所々ヘブライ語が混入したかのような言葉で、彼はおよそこの中東には似つかない爽やかなグレーでブルー色の瞳で、ロシア人から見るとカザフスタン人らしい風貌の異邦人の女に、先ほどのビルを指差すのだった。

ああ、いわれたとおりにKG通り22番地に行けば、そこには役所はない。役所のあるはずのKG通り24番地へ行けばKG通り22番地はあっちだという。なんだかとてもワケがわからない。


「スパシーバ」

「ア、やっぱりロシアジーン、ダニャっ?!」

チクタクチクタク、時間を気にしながらまたまたKG通り24番地まで書類を抱えて、異邦人の女はパタパタと革のサンダルで走る。ちなみにこれまでの人生、エルサレムほど坂の多い街には住んだことがない、と異邦人の女。

「ハァー、ハァー、こ、こ、ここ、ハァー、は、KG通り、24番地ですか?」


これではまるで怪しすぎるが、走れば息が荒くなるのは仕方がないではないか。


「ケン、ナホン」

はい、そうですよ、と、先ほどとはちがう、鷲鼻の浅黒い肌のいかにも何代にも渡ってこの街に住んでいるような、中東男らしい小柄なガードマンの訛りの感じられないヘブライ語。


「ハァー、この、この書類のヤクショは、ハァー、ここですか?(お願い、そうだといって!)」 


鷲鼻はまるで「当たり前だ、おかしなやつだ」といわんばかりに、濃い黒色のサングラス越しにフンっと冷たく一言。

「ケン、ナホン。で、あんた、タイランディーか?フィリピーニか?」

「だから、ちがいますって!ニホンジーンですよ、ヤパニット!」

「あは~、ヤパニット!」

さまざまな国の訛りのヘブライ語と文化が雑多に混ざりあうイスラエルという国で、街なかにあふれるアジアの人々の姿は、料理店で働くタイの若い人たちや、路地を車椅子を押しながら老人介護にやって来たフィリピンの若い人たち。建設現場では、中国からの男たちが、日に焼けた細い体に重い角材を運ぶ。500人ほどもいるという日本の人の姿は、路上ではあまり見かけない。

やっとのことで異邦人の女は、ハァーハァーとよたつきながら目指す役所に到着すると、そこはなんとも素っ気無く、まるで社会主義国の名残りのような古臭さが漂っていた。エルサレム村の役所にしては珍しく5つもある窓口には、いかにもこの役所でしか働けないような個性的な人たち顔ぶれ。奥の部屋には書類の山、山、山。異邦人の女は案内係にいわれたように3番の窓口で待ちながら、ふと、なに気なく異邦人の女の視界に入ってきたのは、隣の2番窓口に座っている係りの男。その男の動作に、異邦人の女は異次元に落ちこんでゆく。その小さな男の、70年代にでも流行ったような大きなトンボ眼鏡の奥に細い目、薄くなりかけた脂ぎったアタマのパラパラと額に落ちてくるその薄い前髪を、くり返し、くり返し、直している神経質そうな指使い。そして薄茶色の、これまた何十年と着込んだかと思われるような、色の剥げてくたびれ切ったシャツ。そのすべてが、21世紀のハイテクな現実から遠くタイムスリップしていた。


その70年代男は、異邦人の女が瞬きもせずにじっと見ていることにも気がつきもせず、無造作に山と積まれた少し黄ばんだような書類の間から紙を一枚その短い指で抜き取ると、さっ、と着古した薄茶色のシャツの胸ポケットからペンを取り出して、クルクルと丸いヘブライ文字を右からひとつ書き込んだ。じっと視線を動かさずに神経質そうに、いま書き込んだばかりのその一文字を見つめる。それから大きく頷いて文字の確認がすむと、握っていたペンに蓋をして、また着古したシャツの胸ポケットにしまい込む。そうかと思ったら、またすぐに薄茶色のシャツの胸ポケットからもう一度ペンを取り出して、一文字書いては頷き、ひたすらそれを何度でも、同じ手順で同じ姿勢で同じように、書いては眺めて頷いて、ペンをポケットにしまっては取り出して。それをぽかあんっと、まるで動物園の檻の中の珍しい動物をはじめて見た時のように、異邦人の女はひそかな驚きと興味で見入りながら、クラクラと気が遠くなるような感覚に襲われた。

そうしてしばらく異邦人の女は、列に並んだままその男を見つめていると、男はようやくのことで一枚目の書類を書き終えたらしく、この男のお茶の時間とあいなったのか、机の上の書類の合間で、注意深く透明のガラスのカップに一定のラインまでピッタリと、小棚の上にあるポットのお湯を注いで、引き出しからティーパックを取り出した。カチャカチャとスプーンで派手な音を立てながら、ティーパックをそのガラスのカップの中でかき混ぜて、それからティーパックの細い糸を小指を立ててペタペタと引き上げた。そしてそれまでペンを開けたり閉じたりしていた、さも不潔で神経質な、でも決して器用ではない短い指で、それをギューっとネチッコク絞ったのだ。そう、それを見ているこちらがじっとりと心地悪く汗ばむほどに・・・。茶色い汁がいかにも不味そうに、男のガラスのカップの中にポタッ、ポタッ、と数滴落ちる。男はそれを鼻の先までずり落ちた大きなトンボ眼鏡越しに、じっと、ピリピリと小さな卑屈な目で見つめる。そして一気に「ズズズズーッ!」、その茶色い液体を、まるで宇宙生物、エイリアンの如く口を尖らしてすすった。ああ・・・!真夏の怪談話のように背筋にぞっと寒気が走り、異邦人の女はその男から目を背けた。異邦人の女は、これほど悪寒のする紅茶を、生まれてから一度たりとも見たことがなかった。

すると、70年代男はおもむろにその茶色い汁の入ったカップを机の上に置いて、思いのほか素早くサッと立ち上がった。立ち上がった男のズボンは、ベルトもなくダラーンと腰の辺りまでずり下がり、だらしなく薄汚れた茶色のシャツがはみ出している。男はそのまま奥への続き部屋に入ってゆくと、書類を顎で押さえながら両手いっぱいに抱え込んで戻って来た。そして椅子に腰掛けると、また先ほどと同じように書類を一枚引き抜いては一文字書いて眺めて頷いて、ポケットからペンを入れては出してを繰り返す。そのうちにその男の周りはすっかり色を失って、その空間だけが茶色がかったモノトーンに、時間の流れさえも異質に、まるで気が遠くなるほど永遠に続いているかのように、異邦人の女はクラクラとそのぽっかりと開いた異次元の、薄茶色の穴に落ちて行きそうだった。

チクタクチクタク・・・


そこで突然番号を呼ばれて、異邦人の女は「はっ」と我に返り現実の世界に戻ると、急いで1番の窓口へと向かった。

「この書類がいるのですが」

役所には珍しく笑顔で太った男は「僕ではその証明書は発行できないから隣の部屋の窓口へ行っておくれ」と、自己防衛の中東では珍しくやさしい物腰だった。笑顔の太った男にいわれるように急いでドアのない隣の部屋へ行くと、そこには今度は髭の生えた痩せたねずみのような、オーソドックス・ユダヤの中年男が座っていた。イライラしながら早口のヘブライ語で、まるでなにか異邦人の女が悪い事をしたかのように、ねずみ男はまくし立てはじめた。

「わからないな、わからないな、どうしてここへやって来たんだ?どうしてだ?」

苛ただしく、やせっぽっちのねずみ男はおなじ言葉をくり返す。

「この書類が必要なだけなのです。発行して頂けませんか」

「わからないよ、わからないよ、なんだってんだ、なんだってんだ、まったく、」

「いえ、だから書類を一枚お願いしているだけなのですけど・・・」

「書類だって?書類だって?なんだよ、なんだよ、だからどうしてここなんだ!えっ?!」

「いえ、ここへ来るように1番窓口でいわれましたから・・・。とにかく私はこの書類がいるのですよ。そして発行するのはあなたなのでしょう?だったら発行していただけますか?」

「まったく、なんだって、書類だって、書類だって?どうしてここでその書類なんだ?わからないな、わからないな、俺じゃないんだよ、書類はダメだ、ダメだってんだ、手紙だよ、手紙、手紙を書け、書類だろ?ダメだよ、手紙なんだ、手紙を書くんだ、わかったか、わかったか、」

ポリポリと痩せた指で髭の顎を掻くねずみ男が妙に惨めったらしく、異邦人の女はなんだか知らないが無性にアタマの中をイライラさせられた。このねずみ男は一体なにを喚いているのだろうか。


チクタクチクタク・・・


「なんですか、手紙って?なぜ私が、一体誰に手紙を書くのです?だからね、この書類がほしいだけなんですってば。あなたが発行する書類なのでしょう?それを坂の下のミスラダ・ハプニムに持って行かなくっちゃ。お昼までに行かなくっちゃならないのですよ。ほら、もう時間がないんですよ」

「だから手紙なんだよ、手紙なんだよ、わからないのかい、わからないのかい!手紙を書いて持って来いといっているんだ、こんな書類は出せないね、出せないね!さあ手紙だよ!」

「ん、もう!だから誰に宛てた手紙になんと書くんですか?!ヘブライ語ですか?!」


「なんだと、なんだと!なんがわからないんだっていうんだい、さっきから何度もいってるじゃないか、手紙だよ、手紙、手紙がいるんだよ、いいな、いいな、ロシアだってアフリカだって、ここではみんなヘブライ語に決まってるだろう、いいな、いいな、そうさ、ヘブライ語さ!」

ねずみ男はさらにヒステリックに、甲高い声でくり返すだけ。チクタクチクタク・・・


「よくありませんよ。ワケがわからないじゃないですか。ちゃんとわかるように説明してくださいよ。そうじゃないと手紙を書くにも書けないでしょう!」

「なんだと!なにがわからないんだ!だから手紙だと何度もいってるじゃないか、まったく、なんてこった、手紙だよ、ほら、書類は出せないよ、出せないんだってさっきからいってるだろう、まったくまったく、なんだってんだ、なんだってんだ、書類だと、書類だと・・・」

「・・・・はぁ、とにかくなんでもいいから誰かに手紙を一枚、ヘブライ語で書くんですね?そしたらすぐに書類は出してくれるのですね?さっきからいっているように、お昼までにミスラダ・ハプニムに持って行かなくちゃいけないのですよ」

「なんだって?なんだって?今からすぐに出せるかだって?すぐにか・・・だって?知らないよ、知らないよ、なんで俺にそれがわかるんだい、いつになるかなんて誰も知らないよ、ミスラダ・ハムニム?ミスラダ・ハプニム?はっ!関係ないね、関係ないね俺には!ほら、とっとと手紙を書きな、手紙だってば、俺は時間がないんだ、ないんだってば、俺は知らないんだよ、いつかなんて、いつかだなんて・・・・、」

異邦人の女の顔も見ずに、まるで独り言のようにねずみ男はブツブツとまくし立てると、イライラしながら髭のもだかった顎をポリポリと掻き、またおなじことを口ごもりながら埃っぽい書類の山の奥へと消えて行ったしまった。書類を一枚取りに来ただけの異邦人の女は窓口に一人、なぜだかポツンと取り残されて・・・。またまた異邦人の女のまわりの色が失せてゆく。

チクタクチクタク・・・


壁の大きな時計はすでに12時を過ぎていた。ドアのない部屋からは、2番の窓口のあの指の短い薄茶色の70年代男が見える。男は相変わらず一文字書いては眺めて頷き、シャツのポケットにペンをしまっては取り出し、それでも壁の丸い大きな時計はただ知らん顔をしてチクタクチクタク・・・。時計はすべてがいつもとおなじかのようになにも関係なく、勝手にいつまでもチクタクチクタク、グルグルとまわり続ける。ああ、ギョウセイ、ぎょうせい、行政、bureaucracy。そこには意味もなく理由もなく、ただただアタマが痛い。チクタクチクタク・・・チクタクチクタク・・・チクタクチクタク。

Thursday, November 18, 2004

ディアスポラの街角 diaspora around the corner

エルサレムの新市街から城壁で囲まれた旧市街へと続く一本の道、ヤッフォ通り。テル・アヴィヴの南、いにしえの地中海の小さな港町ヤッフォ。ギリシャ神話の悲恋物語の言われが残る岩が青く静かな地中海から顔を出し、魚のにおいと古い港と大きな蚤の市。どんどんと近代化されていくイスラエルの中でも、古風でエキゾチックにアラブの香りの漂う町。そのヤッフォの港町から砂漠の聖なる都エルサレムへと伸びた一本の旅の道。今日はその旅の道、エルサレムの中心街のヤッフォ通りで出逢った人々の話。

ホテル・シュテルン。エルサレムの中心街を旧市街へと伸びるヤッフォ通りとツィオン広場の一角にある、10室ほどのいたって小さなこのホテル。オーナーのヴァッサーマンさんは、昔のイタリア映画にでも出てきそうなひょうきんな小太りのちょび髭オヤジ。その日、異邦人の女は、ニューヨークの片隅のオーソドックス・ユダヤの街ボーロ・パークからエルサレムへ、親類の結婚式にやって来る友人の部屋を探して、このホテルを訪ねた。たまたま休憩時間だったオーナーのヴァッサーマンさん、異邦人の女に部屋を見せたあと、「まあまあ、座んなさいよ。カフェ?」 と、気さくにちょび髭で透明のガラスのカップにネスカフェをすすめる。

それから数日後の朝のこと。異邦人の女は、ニューヨークから海を越えて旅をして来た友人のイツホックを、自宅から歩いて20分ほどのこのホテル・シュテルンまで迎えに行った。時差ぼけもあってか、イツホックはまだベッドから起きたばかり。陽がすでに高く昇っている中東の街へと出てゆくには、まだ目が覚め切っていないよう。オーソドックス・ユダヤの朝の仕度。眠りの世界からこちらの世界に戻ると同時に祈りの言葉を口にし、ベッド際の水がめで丁寧に手を清め、着替えをすませると、決められた方の足から靴を履く。身支度が整うと、額に乗せたマッチ箱のような小さな黒い聖句箱を革ひもで落ちないように固定し、揃いの革紐を左腕に巻き、嘆きの壁の方向に向かって立つと、静かに朝の祈りがはじまる。

「ちょび髭おじさん、ボケル・トーヴ、おはようさん。いま忙しい?」

「おー、異邦人かい、ボケル・トーヴ!入って入って!なんだい、イツホックはまだ朝の仕度中?それじゃあ、しばらくは時間がかかるねえ。ってことは、カフェ?!」

イツホックがゆっくりとユダヤの朝の仕度を終えるまで、ちょび髭のヴァッサーマンさんのフロント・オフィス兼寝室で朝のお茶のひと時。コーヒー・テーブルの上のクムクムのスイッチを入れると、あっという間にこの小さなポットのお湯は湯気を吐いて怒り出す。ヴァッサーマンさんは、この国のどこの家庭にもある透明なガラスのコップを戸棚から取り出すと、ネスカフェ、クムクムのお湯とミルクを注ぎ、スプーン3杯、たっぷりの砂糖を入れたミルク・コーヒーを。そして異邦人の女には、ヒョイっとベランダへから鉢植えのミントをプチッと捥いだ。それにお湯を注げば、ガラスのカップに彼女の好きなミントの緑葉が泳ぐ、おいしいミントティー。

「砂糖はいくつ?」

「あ、いらない、いらない」

「砂糖なしのティー?!」

まるで宇宙人の異邦人の女。カッと暑い中東の太陽の下では甘いか辛いか、白か黒か、舌は味も言葉もおなじよう。そんな土地では、コーヒーも紅茶も砂糖なしだなんて、とっても曖昧でインパクトにかける。

「ところでちょび髭おじさん、いつからこのホテルを経営しているの?」

「そうだねえ、軍を退職してから両親がやっていたこのホテルを受け継いだんだから、15年ほど前かな?」

ヴァッサーマンさんは、20年間勤めたイスラエル国防軍を定年退職して、ポーランド系移民のご両親の残したこのエルサレムでも一等地のホテルを受け継いだのだそうだ。

「ポーランドかあ。あれ?じゃあもしかして、ちょび髭おじさんもイディッシュ語を話すの?」

「イディッシュ?もちろんさ!」

ちょび髭がちょびっとうれしそうに跳ねると、ヴァッサーマンさんはにっこりと自慢げで。そこで異邦人の女は、大黒和恵さんの主催するウェブ・プレス「葉っぱの抗夫」に載せていただいている、イツホックとの共同和訳した「失われたポーランドの歌 スーラレ」を早速インターネットで見てもらった。


א מאל געווען א שרהלע
א שרהלע א שיינס
געהאט האט זי א ברודערל
א ברודערל א קליינס

א מאל איז די מאמע אוועק אין וואלד
און נישט געקומען באלד
נעמט שרהלע איר ברודערל
און גייט מיט אים אין וואלדע

זיי קומען אריין אין וואלדעלע
און בלאנדזע אהין אהער
קומט אן צו זיי פון וואלדעלע
א גרויסער ברוינער בער

אך בערעלע דו גוטינקע
זיי און ריר אונז נישט אן
די מאמע וועט באצאל
דיר וויפל זי נאר קען

אוועק איז בער אין וואלדעלע
די קינדער בלייבן שטיין
קומט אן צו זיי א וועלוועלע
און סקריפשעט מיט די ציין

אך וועלוועלע דו גוטינקע
זיי און ריר אונז נישט אן
די מאמע וועט באצאלן
דיר וויפל זי נאר קען

אוועק איז וואלף אין וואלדעלע
די קינדער בלייבן שטיין
פינסטער וועט אין וואלדעלע
עס הערט זיך א געוויין


ああ むかしむかし ひとりのスーラレという
ああ それはそれは かわいいおんなのこがいました
スーラレにはおとうとがひとり
ああ ちいさなおとうとがいました

あるとき スーラレのママは 森へでかけてゆきました
でもママは ながいあいだ かえってきませんでした
スーラレは ちいさなおとうとをつれて ママのいる森にいきました

スーラレとおとうとは 森のなかをママをさがして
あちらこちら さまよいあるいていると
いっぴきの おおきな ちゃいろのくまにであいました

「ああ まあ! くまさん
なんてやさしそうなのでしょう
わたしたちに なにもしないでちょうだいね
もし いじわるをすると ママがあなたにしかえしにくるんだから」

くまは 森のなかにきえてゆきました
スーラレとおとうとは まだ森のなかにいます
こんどは いっぴきのおおかみが
キバをギリギリならして こちらにやってきます

「ああ まあ! おおかみさん
なんてやさしそうなんでしょう
わたしたちに なにもしないでちょうだいね
もし いじわるをすると ママがあなたにしかえしにくるんだから」

おおかみは 森のなかにきえてゆきました
スーラレとおとうとは まだ森のなかにいます
くらやみが 森におとずれはじめました
そして 森は スーラレとおとうとが
くすんくすんと泣いているのをききました...


「ああ、イディッシュ語らしい歌だね。こんなふうにイディッシュの歌も色々な人たちに知られるとは、本当にすばらしいよ。イディッシュ文化も、いずれは消えてしまうのかもしれないからね。チカ、これからもどんどん日本語に訳しておくれよ。

僕のポーランド人の両親はね、ホロコーストを生きてぬいて、その後、二度とポーランドには戻らずに、イスラエルへと移り住んできたのだよ。それからもヘブライ語は祈りのための言葉、生活はユダヤの言葉イディッシュ語、そんなふうだった。おかげで僕もイディッシュ語もヘブライ語とおなじほどに話せるけれどね。でも、日常の生活の中で使わなければ、それは生きたイディッシュ語ではないし、僕の子供たちはそんな言葉には興味もない。僕も、両親のようにイディッシュ語だけを話し、古めかしいしきたりに縛られたオーソドックス・ユダヤの世界に住むのもゴメンだしね。僕はこの国で世俗の世界に生きてヘブライ語を話し、軍隊に行った。だって、ここはどこでもない、イスラエル、だからね」

ヴァッサーマンさんの亡くなられたご両親は、オーソドックス・ユダヤのハシディック派の中でも、ユダヤの戒律を最も厳しく守るサトマー派だったのだそう。多くのオーソドックス・ユダヤの人々がそうであるように、サトマー派の人々にとっても、今でも日常はイディッシュ語を話し、ヘブライ語は聖なる祈りの言葉。ヴァッサーマンさんは、ホテル・シュテルンと目と鼻の先にあるオーソドックス・ユダヤの街メア・シェアリムの街角でイディッシュ語を耳にすると、今でもそれはどこか懐かしく、心がほっとするのだそう。しかし「オーソドックス・ユダヤの世界の住人になるつもりはない」と、ヴァッサーマンさんはその世界観を否定する。ヴァッサーマンさんのご両親は本当に幸運にもホロコーストを生きのびたけど、息子である彼自身も、生き残ったが故の彼らの苦しみを目の当たりにした。そして600万人というユダヤの人々がヨーロッパのホロコーストでいのちを失ったことに、どう神を信じろというのだと、宗教世界へ住むことへの否定へ、甘いミルク・コーヒーの入ったガラスのカップを持つちょび髭が、ちょびっと悲しそうに垂れ下がった。

そうしてしばらくふたりでお茶をすすりながら話しをしていると、長身で白髪の紳士が「ひょいっ」と、ヴァッサーマンさんのオフィスに顔を出した。コーヒーを沸かしに、ホテルの廊下を共同キッチンへとゆく途中らしい。白髪の紳士の手には、なにやら書き物が握られている。

「シャローム!」

「シャローム、シャローム!」

ゆっくりとほほ笑みを返してくれたこの老人アブラモは、この2ヶ月間、ひとりでホテル・シュテルンで生活しているのだそう。アブラモはずっと昔、若いころにハンガリーに住み、イディッシュ語の生活があった。やがて戦争がはじまり、そこでおなじように暮らしていた多くのユダヤの人々と共に、ナチによって生まれ育ったハンガリーを追われた。アブラモは、あのアウシュヴッツに向かう列車から、ナチの警備員の一瞬の隙を見て線路へと飛び降りると、決して後ろを振り向くことなく、ただただ夢中で走り続け、生き長らえた。そして愛する人すべてをホロコーストで失った戦後、イスラエルへとさらにひとりで走り続け、それからの40年間、アブラモはずっとずっと、「あること」を書き続けているのだそうだ。毎日、丁寧にヘブライ語でしたためられている、その文書。この日もそれからタイプで清書をしてから投函しに行く、とアブラモは少年のような笑顔だった。異邦人の女は彼が手にしているその日の文を拝見させてもらう。しかし、それまでの40年ものストーリーに目を通していない異邦人の女には、原稿に3枚、丁寧に書かれていたその日の文書が一体なにを指しているのかはよく理解できなかった。

「それをどこに送るのですか?」

「政府にだよ」

投函先は、なんとイスラエル政府だと少年の目をした白髪の老人は続けた。

「近い将来に、世界中のユダヤの人々に何か大変なことが起きるのだよ。だからこの40年間、私は一日も欠かすことなく、やがて訪れるであろうそのユダヤの危機についてしたためて来たし、これまでの原稿はすべてイスラエル政府に郵送しているのだよ」

しかし、政府からの返答は一度も届いたことがないという。

老人アブラモの長い人生の時間の、ほんの小さな欠片のこのホテル・シュテルンで、ここでひとり、ホロコーストを再び起こさせまいとユダヤの危機を書きとめている。2ヶ月前のある日、ふとこの砂色の街のホテル・シュテルンに現れたこの老人がなぜこのホテルに住み続けているのか、そしてこの老人がこれからどこにゆくのかは、ヴァッサーマンさんも誰もわからなかった。アウシュヴィッツにゆく列車から飛び降りた若きアブラモの魂は、ひょっとするとあの時、二度と帰ることのなかった人々と鞄とともにあの列車に置き忘れられて、アウシュヴィッツへと向ったのかもしれない。あの時、魂を失しなったアブラモ。その後この世でひとり生き続けるためには、こうして書かなくてはならなかったのかもしれない。アブラモの人生の半分も生きていない異邦人の女にその答えを知ることはできないが、アブラモ自身、果たしてその答えを知っているのだろうか。

白髪の老人紳士アブラモが文書を手にキッチンへと向かうと、ようやく身仕度を終えて部屋から出てきたイツホックと異邦人の女は、エルサレムの外れにあるタエレットの丘の展望台からエルサレムの街を眺めようと、ホテル・シュテルンとヴァッサーマンさんを後にした。太陽が熱くコンクリートを焼くホテル・シュテルンの外、異邦人の女とイツホックがタクシーを探すヤッフォ通りを、異邦人の女の近所に住む定年した数学教師のジュリアが向こうの角から歩い来るのが見えた。

「あら、ハーイ、チカじゃない。あんた、こんなことでなにやってんのよ、え?タエレットに行く?そんなの、エルサレムを外から器だけ見ても意味ないわよ!眺めは確かにいいけどね。その後でホロコースト博物館にも行くの?まあ、それはいいけどさ。そんなことよりも、あんた、ヘブライ語の勉強しなくていいの?あたしですら、ここに移住してから2年で話せるようになったんだから、あんたもやんなさいよね。あたしの場合は読みはここに来る前からできたんだけど、あんたの場合は読みも今ひとつでしょ?会話も大切だけど読めるようにならなきゃだめよ!神への言葉、ヘ、ブ、ラ、イ、語、なんだから」

そこまで息もつかずにいい切ると、ジュリアは異邦人の女の隣、黒い髭の男に気がついたらしい。

「あら、あなた誰?えらく髭もじゃじゃない?あたし、ジュリア」

「はじめまして、イツホックと申します」

妻と夫または家族でない限り、異性と握手などしないオーソドックス・ユダヤの男と女。

「あたし?どこの出身かってそんなこと、この英語のアクセントを聞けば一目瞭然!そういうあんたもブルックリンね、そうでしょう?あら、イディッシュの訛りね?えへん、あたしだってイディッシュ語くらい話せるわよ」

ジュリアは元ブルックリン人で、なんせひとたび話し出したら壊れたラジオ、スイッチの切りようがない。数年前にラビだった夫を亡くしたのち、暮らし慣れたブルックリンの家を売り払うと、全財産と九十歳をすぎた高齢の母君とふたりで2年前にユダヤの人々の心の故郷であるエルサレムへと移り住んだ。足腰が弱くなり車椅子に乗ってエルサレムへとやって来た母君と、ずっと昔に亡くなったジュリアの父君は、もともと生まれ育ったポーランドのガリチアから戦争の前にニューヨークへと移り、ホロコーストを免れたのだった。

「あら、あんた、ああ、誤解しないでよね、もちろんあたしもイディッシュ語は大好きだわ。家の中ではそれで育ったんだからね。でもエルサレムに来てからはすっかり英語とめちゃくちゃのヘブライ語よ。イディッシュ語はあまり話してないわね。でもやっぱりユダヤなんだから、イディッシュ語で話すべきかしらねえ。イスラエルにいるからさ、ヘブライ語をがんばって話すようにはしてるけどね、でもやっぱりヘブライ語はどうしたって祈りの言葉、聖書の言葉なのよね。あたしの親もその前の世代もそうやしていたんだから、やたらにヘブライ語を日常の会話に用いるのはまだ少々の抵抗があるわね。しかもイスラエル人ったらさあ、本当によくヘブライ語で相手を罵倒なんてするんだもんねぇ、信じられないわ。あらヤダ、あたし、もう行かなくっちゃ!忙しいのよね、いろいろと。授業について行けない高校生の女の子にボランティアで数学を教えてるのよ。

ああ、そうそう忘れるところだった。チカ、母のシヴァに来てくれてどうもありがとうね。あんたったらさあ、シヴァの最終日に来るんだもんねー。もう来ないのかと思ってたわよ、まったくさ」

つい先日のこと、ジュリアの母君は、言葉通り、すーっと眠りにつくようにこの世を旅立ってゆかれた。母君はいつもの日課だった午後の日光浴を終えて、住み込み介護士の若いフィリピン女性が母君のお風呂の仕度をしている間、少しそっと横になって瞼を閉じると、静かにそのままなんの苦もない世界へと、旅立たれた。ユダヤの葬式のあとには、シヴァという7日間の忌中がはじまる。シヴァの間には親類や友人、訪れる人たちは共に遺族を慰め故人を偲び、悲しみを分かちあい、忌中の悲しみを表すユダヤの習慣としてジュリアは靴を履かずに、床に座り衣服の端を少し破いて、訪問客を待っていた。

「あ、あんたイツホックっていったけ?そうなのよ、母がついこの前に亡くなってねえ。この子、シヴァに来てくれたのよ。ええ、そうなのよ、夫も数年前に亡くなったし、息子や孫たちがベイト・シェメシュにいるけどね、あら?ベイト・シェメシュ知らないの?テル・アヴィヴとエルサレムの間にある大きなアングロサクソン移民の街よ。

でね、あたしもエルサレムでひとりっきりで寂しいけどね、でもそんなことはいってらんないじゃない!まだまだ人生は続くんだから!あら、やあだ、すっかり話し込んじゃったじゃない。じゃね、ヘブライ語の勉強しなさいよ、あんたたち!レヒットラオット!」

ジュリアはほとんどをひとりで話し終えると、どこか漫才師の宮川大介花子の花ちゃんを思わせる、大きなトンボ眼鏡をきゅっと鼻の上に押し上げ、ヤッフォ通りを旧市街に向かって歩きはじめた。

」המקום ינחם אתכם בתוך שאר אבלי ציון וירושלים「

主がシオンとエルサレムの喪する人たちとあなたを慰められますように、とイツホックは喪の言葉をジュリアの肩越しに伝えた。ジュリアはその言葉を耳にすると、ピタリと立ち止まりクルリと振り向くと、少し悲しげにイツホックにほほ笑んだ。

「・・・とうとう母も亡くなったけどさ、夢にまで見たあたしたちユダヤの故郷エルサレムに眠っているなんて、これほどの幸せはないよね。バルフ・ハシェム。彼女もきっと喜んでいるはずなのよね・・・。あたしもさ、辛いけどね、エルサレムにいるんだもん。がんばるわよお。あんた、いい人だね。ありがとう。ブルックリンに置いておくにゃもったいないよ。エルサレムに引っ越していらっしゃい。じゃね。シャローム、シャローム!ザイ・ゲズント!」

60代半ばにして住みなれたブルックリンを後にし、念願のイスラエルへとやって来たジュリアは、母君亡きのちも息子たちとたくさんの友に支えられ、母君の眠っている心の故郷であるエルサレムでこれからも生きてゆくのだろう。

ジュリアの少し寂しそうなうしろ姿が人ごみに紛れて消えて、異邦人の女とイツホックが捕まえたタクシーの運転手はジュリアに負けず劣らず、なかなかの話し好きだった。短髪に眼鏡をかけた中年男の運転手のたどたどしい英語と、異邦人の女らしくたどたどしいまちがいだらけのヘブライ語。でも助かることにイツホックは言葉に巧み、英語やイディッシュ語はもちろんのこと、ヘブライ語もスペイン語もあやつる。

「シャロム、シャロム~。あんたたち~、どこから来たの?エルサレムははじめてかい~?」

「いいえ、はじめてではありません。僕はニューヨークから。こちらの友はエルサレムに住んでるんですよ。もともとは日本だけれどね」

「ほ~!ヌーヨークにヤパンかね。お嬢ちゃん、この街どう~?いいだろう?ここは世界の臍だよ、へそ~。そうさ、世界の中心だよ~!だってさ、ここから世界の歴史ははじまったんだからなあ。それにいつの時代だって世界中の人間が集まってくる街さ。これが臍じゃなきゃなんだい~?」

お嬢ちゃん、エルサレムに来てからどうもそう思われることが多いなあと異邦人の女。中東の人が実年齢よりも、外見がどうも老け過ぎなのだけど。やはり中東のカラカラの陽と水のない街は人を早く老けさすのだろうか。

「うん、オヘソってのはなんだか納得!この小さな街にほんとうに世界中の人がいるもんね。ところで運転手さんはもともとはどこの人?エルサレムの人なの?」

「あ~、オレ?オレはね、チャキッチャキのエルサレム人よ~!驚くなよ、うちはね、この激動の街エルサレムに400年も追い出されずに生き続けているユダヤの家系なんだよ。そう、よ・ん・ひゃ・く・ね・ん~!」

「へえ、400年かあ。すごいね。生粋のエルサレム人っていってもいいくらいかもね。・・・じゃあ、運転手さん、もしかするとその前、400年以前にあなたの祖先がどこに住んでいたのか知ってるの?」

「ケン、ケーン、もちろんさ~!オレの祖先はね、ずっと昔はスペインに住んでたんだよ~。ずっとずっと昔のことだけどな。だから~、こう見えてもオレもラディーノ語は話せるんだよ~。オレの子供たちはもちろん無理だけどね~。あははっ」

中世のドイツに住むユダヤの人々の間では、イディッシュ語がユダヤの言葉として話されていたように、スファラディーと呼ばれるスペイン系のユダヤの人々の間では、今はラディーノ語と呼ばれているジュデオ・エスパニョール語がユダヤの言葉だった。14世紀のスペインでは、ユダヤの人々への強制的なキリスト教への改宗が迫られるようになり、そこで多くのユダヤの人々はキリスト教に改宗し、しかしその中には公ではキリストに誓いを立てても、かのコロンブスがそうであったらしいという話もあるように、密かに誰にも知られないように安息日を守り続けた「隠れユダヤ」、スペイン語で豚を意味するマラノと呼ばれるの人たちもいた。そして今から500年ほど昔の1492年のこと。コロンブスによるアメリカ発見のその年。反ユダヤの感情の吹き荒れるスペインで、この年すべてのユダヤの人々はスペインを追われることになり、住み慣れたスペインに留まるにはキリスト教への改宗を迫られた。しかしほとんどのユダヤの人々は、キリスト教への改宗を拒み、ユダヤのまま裸同然でスペインを去り、ポルトガルへ、フランスへ、モロッコへ、エジプトへ、そしてトルコへ、サラエヴォへ、と流れて行った。その後、それぞれが流れ着いた土地で、追われたスペインを懐かしみ、スペイン語とヘブライ語の混合した言葉ラディーノ語を話すようになったという。中年男の運転手エリの祖先もそのようにしてスペインを追われトルコへ流れ、ラディーノ語を話し、そしてその旅の果てにエルサレムへとたどり着いたのだそう。

「それにね~、オレの家にはもうひとつ鍵があるんだよ~」

「鍵?」

「ああ、スペインの家の鍵ですか?」

運転手エリの家では、おそらくはもうそこには跡形もなく、ふたたび帰ることのない遠い昔の故郷であるスペインの家の鍵が、今でも大切に保管してあるのだそう。感情豊かなスファラディーと呼ばれるユダヤの人々は、その昔に住んでいたスペインの家の鍵を何百年という時と世代をへて、今でもとても大切にノスタルジックに持ち続けている。そんな彼らのスペインを思う言葉であるラディーノ語は、いまではその話し手の多くが年老いて、もうその継承者は絶えつつあり、このラディーノという言葉は、もうすぐ失われてしまう。そこに生きて、そして追われたスペインのユダヤの歴史、その記憶の証人であるラディーノ語。しかしこの言葉が失われても、決してスファラディー・ユダヤの人々はかつてのスペインの家を忘れることはない。ユダヤの人々の故郷であるエルサレムに生きながらも。

このエルサレムの街で異邦人の女の出逢うディアスポラは、そのほんの断片。テル・アヴィヴに建つディアスポラ博物館には、ポグロムやホロコーストによってこの世から失われてしまった世界中のユダヤの街や人々の記憶が、静かに言葉なく保管されている。しかし今でも世界中のあちこちに、まだそのユダヤの離散と流浪の記憶とともに生きている多くの人々がいる。ホテル・シュテルンやエルサレムの街角のディアスポラは、博物館に保管され横たわる過去の記憶ではなく、今もまだ色あせずに生き続けている記憶の印。そしてこの国に住むひとりひとりが、このようにユダヤの歴史の旅のストーリーをきっとその胸の引き出しにしまっているのだろう。

Monday, November 15, 2004

2004年のメア・シェアリム

時間が止まったメア・シェアリムの一角で
おじいさんが一人、おじいさんと同じ年頃のミシンの番をしていた
見たこともない小さな映写機を構えた
どこからか現れた東洋の人影に
そしてそのおじいさんと時間の止まった店とに
「あっ!宇宙人!」・・・と二人、ビックリしたよ

Thursday, November 04, 2004

テレビがうちにやって来た!

またまた「逃げ」なるものが近所でありました。イマドキの日本ではほとんど聞かないこの言葉。でもエルサレムでは 「ふーん。じゃ、なんか置いていったかも。見てこよう。」 というごく普通の反応。以前住んでいたアパートの隣りの住人も5ヶ月家賃を滞納したのち、大家に「即日立ち退き宣言」を受け渡されて、その日の夕暮れ過ぎには大家は彼の荷物はすべて路上に放り出して、はい、おしまい。 

そう。今回の夜逃げのおかげで、そこの住人の置いていった家財道具の中からテレビが貰えることになり、さっそくちゃっかり家に持って帰ってきた。エルサレムに来てから早や5年。今まではテレビのない生活でまったくよかったのだけど、こうも続くストやあちこちで起こる一般市民を狙った自爆事件が相次ぐのでは、やはりニュースはいつも見れるほうがよい。

5年ぶり、のテレビとあって、なんだかやたらドキドキワクワク。テレビをリビングの真ん中にドンっと置いてコンセントを差し込んでみると・・・うーん、テレビ君。なにか一生懸命に映し出そうとしてはいるみたい。・・・あれ?まさか・・・・・。白黒?と、ぼーっとした映像が2、3分続いて、お、よかった。なんだか色が付いてるよ。カラーだ。うん、とりあえずはきれいな映像。まあ一応、現代のテレビだからそれで普通なのだけど。

画像がクリアになったところで、急いで12個並んでいるチャンネルのボタンを押してみる、が・・・・。ん?なんだ、これ?最初の1と2のチャンネル以外は全部砂の嵐。3にはかすかな反応。どこかのアラブのチャンネルのよう。ああ、そうか。国営放送がチャンネル1で、2が民営ということか。あらら、たったの2局?とガッカリ。でも四国ほどの大きさの国ゆえに、これにはすぐに納得。そしてチャンネル1のゴールデンタイムのほとんどはニュース、ニュース、またニュース。民営のチャンネル2でも、映画のど真ん中、なんの前触れもなくいきなりニュースが5分ほど入って来る。そうか、なるほど。やはりそんなに国民はよくニュースを見るのかとちょっと政治への関心の高さに感心。が、しかし、それもつかの間のこと。英字新聞『 The Jerusalem Post 』のテレビ番組表をよくよく見てみると気がついた。そうです。番組が日本のように時間の枠にキッチリとはまっていないことに。だからおかしなことに映画のど真ん中でニュースなんてことになって、シンデレラの魔法が切れる12時になると番組が何であろうとニュースのお時間がやってくる。そしてなんと、番組表と実際の放送番組や放送時間がちがっていることは日常茶飯事で先週放送のはずだった映画が今週放送されたり、またその反対だったり。じゃあ一体これって何のための番組表?そりゃあ単なる目安でしかない。なんじゃそりゃ、と思わず自分で突っ込んでしまってテレビは家にやって来た。

Monday, November 01, 2004

オトウトヨ

Wednesday, October 27, 2004

10月のエルサレムの空の下、茶封筒の君とスキップと。

お昼過ぎに郵便ポストを見ると、不在配達表なるものを発見。ん?うちにいましたがな、ずっと。そして受取人の名前は、配達物にローマ字で書いてあった私の名を何とかヘブライ語で書いてみたらしく、「Sik Oku (シク オク)」と書かれている。なんとなく配達人の言わんとすることはわからないでもないような・・・。でもこれって私の名ではないぞっ。だけどそんな変てこな名前の住人はこの建物にはいないからやっぱりこれって私宛?

パスポートと不在配達表を持って近所の郵便局へ。エルサレムも10月の半ば、ちょっと太陽は秋らしい。郵便局の入り口には一目でエチオピア人とわかる小柄なガードマンが座っていて、カバンの中を見せてから局内へ入った。

やっぱりこの郵便局、相変わらず一歩一歩が昼寝の牛の歩みである。列に並んで待つ事、約10分。私の番が回ってきた。パスポートと不在表を見せると、係員のおっちゃんはその二つをじっと見比べる。あら、もしかしたら名前がちがうよって言われて荷物は受け取れないかも?とさっと不安もよぎったりした。

おっちゃんはじっとパスポートの名を見つめ、「よっしゃ。」とうなずく。この「Sik Oku」なる国籍不明の人物と私のパスポートの名はめでたく何の疑いもなく一致したらしい。なんといい加減な・・・。そして奥の棚から茶封筒を渡してくれた。やったー!っと、局内のベンチに腰掛けて、ビリビリと封筒を破る。ああ、この快感。日本からの贈り物は何度手にしてもうれしいものです。

開けた封筒からは、東京の彼女から葉書と金魚の付いたランチョンマットがいきなりかの地のニッポンで。メールが主流のイマドキ、手書きの葉書はとても新鮮で、しかもそれが遠い遠いニッポンの東京からとなれば、ビューンっと時も何もかも越えていってしまいそうな、不思議な気分になる。

ささっ、と誰にも見せないよっと、大切にまた封筒に戻してから郵便局を出る。ドアを開けると先ほどのエチオピア青年がぼんやり暇そうに空を眺めている。遠いエチオピアの空でも夢見ているのだろうか。私はこの国の共通語のヘブライ語で「トッダァ!」と言うとニッコリほほ笑んで、スキップしながら青い空の下をウキウキと。お買い物をしにバスに乗ろうと大通りへと。バス停でバスを待つ間、通り過ぎる車の補助席から「イヒヒヒヒヒッ」と大笑いしている太っちょのおばちゃん、「Almost Just Married!」と書いた車に乗ってウェディングドレスを着て笑っているお嫁さん、鼻歌交じりの警官、いろんな人たちが通り過ぎる。なんだかみんな楽しそう。ああそうか、それは私がうれしいからなのね。それじゃあ私だって負けずにちょとフフフンッと歌ってみる。たまにはいいな、こんな楽しい気持ち。遠いニッポンから運ばれてきた茶封筒の君、どうもありがとう。

Wednesday, October 13, 2004

「Jap! 」 jewish american princess

太陽の燦々と輝くワイキキ・ビーチにダイヤモンド・ヘッド。世界中のサーファーの憧れ、ノース・ショアー。黒い溶岩と白いくちなしの鮮やかな芳香。どこまでも青く澄んだ海でイルカと波と戯れる。そんな太平洋の常夏の楽園から、中東の水のない砂の街へと住み移った、娘のティナを訪ねてきた母ジャッキー。

 ティナとジャッキーを旧市街へと案内をするために、乾いた朝の日差しの中、ヒレル通りのオープン・カフェへと、いつものように早足で向かう。ガラス張りのカフェの外に並んだ小さなテーブルに腰かけたその娘と母の姿は、この街には少し珍しく映った。

「お待たせしてごめんなさい!」
「あら、いいのよ。私たちも来たばかりだから」

 その外見からは想像しがたいほど訛りのないきれいな英語で、ジャッキーがほほ笑む。六十代のはじめだろうか。ふっくらとやさしい笑い顔にどこかキリリとした表情に、私はしばらく会っていない日本の母を思い出した。日系三世のジャッキーは、アメリカ人としてしっかりとハワイに根を下ろし、日本語はまったく話さず、祖父母の祖国、日本を訪れたことも一度もない。同じホノルル日系三世の夫との間に生まれた娘のティナも、一見、とても日本の若い女性らしい。とはいっても、しぐさひとつひとつはとてもイマドキのアメリカンな娘ふうで、古風な日本的な外見とのそのギャップがおもしろい。

 同じような日系アメリカンの多いホノルルの街で、両親や姉と同じように生きてゆくはずだったティナは、高校を卒業すると、ハワイの人たちがメイン・ランドと呼ぶアメリカ本土のロスへ、そしてさらなるチャンスを求めてニューヨークへと、ダンスの世界へとステップを踏みはじめた。しかし、太平洋の南の島ハワイからメイン・ランドのダンスの世界へ迷い込んだティナが耳にするようになったのは、こんな言葉。

「Jap! Go home!」

「ジャップめ、日本へ帰ってしまえ!」。ハワイを離れ、メイン・ランドに住みはじめてから、数え切れないほど耳にした悲しいその言葉。遠い祖先が日本という国の人だったといえども、それまでは肌や髪の色など関係なく、自分もひとりのアメリカ人だと疑いもしなかったティナ。思いもよらぬ「ジャップ」という蔑みを含んだ言葉を投げつけられても、彼女は遠い祖先の故郷「Japan」という島の土を踏んだこともなければ、その言葉を話したことすらない。「ジャップ」、その言葉のおかげで、自分は「アメリカン」になりきれない「ジャパニーズ」なのだと、「アメリカン」というアイデンティティは崩されていった。そしてもはや「アメリカン」ではないティナは、自分の「ジャパニーズ」としてのルーツはこのアメリカにではなくアジアのあの片隅にあるのだと、未知の国「Japan」へと旅立つことに。きっとそこに彼女の心の故郷があるはずだと信じて。

 まだ見知らぬ故郷の国「Japan」は、期待にあふれ飛行機を降り立ったティナの思いとは裏腹。どこもかしこも奇妙で馴染みのない「日本」。言葉も風習も食すらも、なにもかもがなんとも不思議な「日本人」の国だった。そんな「日本」という国で、「日本人」ではないアメリカの「ジャパニーズ」は大きな戸惑いを感じ、帰るべき故郷「Japan」は幻でしかなく、目の前の「日本」は、アメリカよりも遥かに遠い和の国。「日本人」にもなれず、ましてや「アメリカン」にもなりきれない「ジャップ」のティナは、いったい自分が何者なのか、その答えが出ないままに、アメリカのメイン・ランドへと、アジアの片隅の空港をあとにした。

 ふたたびメイン・ランドのダンス世界でステップを踏み続けてから、どれくらいの時が流れたのだろう。ある時、ティナはとあるアジア系女性ダンサーに偶然に出会った。そのダンサーの、アジア人の外見であることすらも自信とした、美しさに満ちあふれた姿に心を打たれ、一歩一歩、「アメリカのジャパニーズ」としての自分の姿を受け入れようとする。そして、同じようなアジア系アメリカ男性と生きてゆくのが自分の属する世界だろう、と思っていた矢先のこと。本当に人生一寸先はわからない。ある日、友人ダンサーと訪れたニューヨークの広告会社のユダヤ青年と、一目で恋に落ちて、そして結婚。そして結婚後、ユダヤの伝統もなにも知らない世俗ユダヤの夫とともに、少しずつユダヤの世界に迷い込み、いつの間にか夫よりもはるかにその精神世界へと惹かれてゆく。夫に出会うまでは名ばかりのクリスチャンだったティナは、やがて生まれた幼い息子とともに、段階を経てオーソドックス・ユダヤに改宗し、名もティナからラヘルへと改名。ユダヤの宗教世界に生きることに。そして、ティナの改宗によって、自分のルーツであるユダヤのアイデンティティを探しはじめた夫。そんな心の旅を続けるラヘルを、エルサレムのアメリカ・ユダヤの人々は暖かく、まるで懐かしい我が家に帰ったかのように迎え入れた。

「私は誰なの?
帰るべき家はどこかしら?
私が属するのはどこなの?」

 ラヘルの小麦色の笑い顔と歌声。ラヘルとジャッキーをまだ暑い日の続くエルサレムを旧市街へと案内したその夜、ラヘルのステージ「One Woman Show ~JAP*(ジャップ)」をふたりに誘われ、エルサレムのとあるアメリカから移住してきたユダヤのお宅へと、ちょっぴり夜風の涼しい路地をゆく。

「あら、あなたがラヘルね?とってもすてきなショーだと聞いて、楽しみにしていたのよ!オーソドックス・ユダヤの世界じゃ、あまりダンス・ショーを見られる機会なんてないものね。そしてお母様、ようこそエルサレムへ!」
「いえいえ、ちがうんですよ。ティナ、あ、いいえ、ラヘルはあちらでショーの準備を。このお嬢さんはお友達なんですよ」
「あ・・・あら、いやだわ、私ったら」

 アジアを知らない人には、ティナも私も、誰でもが同じような黒い髪に黒い瞳のアジア人。しかしその夜のラヘルのショーは、煌びやかなブロードウェイ時代とはうって変わり、男が女の歌声を直接耳にしたり、踊る姿を目にしてはいけないというユダヤの戒律に則り、観客はひざ下が隠れるほどのロング・スカートに、肌が露出しない長いシャツ。かつらやスカーフで髪を隠した30人ほどの、既婚のオーソドックス・ユダヤの女たちと、ポニーテールに結わえた髪が若い未婚の娘たち。ブロードウェーなどの派手なショーや映画を見ることはないその家の、リビングに用意されたステージ空間には、椅子がひとつ。そして、ティナではなく、かつらに踝までの黒いロングスカートのラヘルという、オーソドックス・ユダヤの女。ティナがラヘルを見つけるまでの自分探しの半生を、「アメリカのジャパニーズ・ユダヤの私は本物のJap*よ!」とおもしろおかしく、ラヘルの作曲作詞の歌とダンスとで語られた。

 人は常に誰かに受け入れてもらいたい、と願うものなのだろう。どこかに帰属したいという切望。だから人は故郷を忘れられず、また探しもとめるのだろうか。

 アメリカ人なのに、そうなれなかったアメリカ人ティナ。メイン・ランドでは、ヨーロッパ系の彼らと同じアメリカンとして受け入れられることはなく、日本ではそこには属せないアメリカのジャパニーズ。それならば、どこならば自分は受け入れられ、誰になら属することができるのか。彼女がそんな壁にぶつかった時に、ユダヤという世界がそこにあった。ユダヤの人々の、そしてアメリカ・ユダヤ社会でラヘルとして生きることで、それまでの人生の中で、はじめて誰かに受け入れられたと感じたのかもしれない。そしてその世界の服を身にまとい、既婚女性らしく髪を被いながらラヘルとして踊ることで、ようやく彼女を認めてくれるアメリカを見つけ、ひとりのアメリカ人になることができたのだろう。

 はたしてティナは、彼女の本当のアイデンティティを見つけたのだろうか。ショーのあと、なぜか少し、寂しい気持ちが残った。

    *「JAP」―Jewish American Princes(アメリカ・ユダヤ     の気位の高いわがまま娘)と、日本人を見下した意味のJapという俗語の掛け合わせ。

Friday, October 01, 2004

egypt の夜 ~ロイ&マルヴィーナ

日本のナーヴァスな着信音よりもゆっくりと、「プルルー・・・、ふー、プルルー・・・ふー、」とため息をつくように、エルサレムの自宅の電話が鳴り響いた。その週の安息日がはじまろうとしていた九月終わりの夕暮れ。安息日間近のすべりこみセーフの電話は、大抵ろくなものじゃない。その例外にもれず、受話器を置いたあとで、くやしさと、一体どこに持っていけばよいのかよいかわからない怒りとで、涙が止まらなかった。一瞬にして消えてしまったいのち。友を、家族を失うこと。この国ではいつまでこんな悲しみが続くのだろう。

 数年前にヨーロッパからこの国へと移り住んできた恋人のマルヴィーナと、ユダヤの新年休暇を利用して小旅行へ出かけたロイ。イスラエル最南の街エイラットからエジプトのシナイ半島へと。世界中のダイバーの憧れブルー・ホール。紺碧の紅海の背後にそびえ立つ赤い砂の山々。赤い砂の山々のあいだを駱駝に揺られ、ナツメヤシの木々を照らすオレンジ色の月。焦げるような砂漠の暑さとは対照的に、深い谷間の紅海は雪解け水のように冷たく澄み渡り、カラフルな熱帯魚がフリルをヒラヒラさせながら群れを成して泳いでゆく。

 経済的にも政治的にも厳しい現実を離れ、このシナイ半島で水煙草でくつろぐのが、イスラエルの若者に人気のバカンスの過ごし方。あの夜も、ロイとマルヴィーナは紅海のビーチで、静かなひと時を過ごしていた。

「今回の休暇はシナイ半島は危ないからよせよ。なんだかエイラットあたりも危ないらしいぞ。ハマスの爆弾なんかに吹っ飛ばされたらどうするんだ・・・」

 ロイの父は、息子たちが出発する前の晩に、心配して電話を入れた。イスラエル政府はその休暇の時期、テロの可能性があるイスラエルとエジプトの国境の町エイラットや、そこから南、エジプトのシナイ半島のリゾート地周辺には、できるだけ行かないようにと、国民に警告を出していた。しかし、そんな事態を心配する父の気持ちもよそに、ロイはそれを軽く笑い飛ばした。

「そんなの、いつものことだよ。それに僕は兵役も終えたし、いざって時には戦い方も知っているよ。憶えてるだろう、父さん?僕がレバノンに駐屯していた時のこと。激戦で何人もの戦友を失ったけど、僕は大丈夫だったじゃないか。それに今度は戦いに行くんじゃないよ、遊びに行くんだからさ。そんなに心配しなくてもなにも起こらないって。それにテロにあうのは交通事故にあうのと同じくらいの確立さ。しかもこれまで何度も行ってるシナイだよ。大丈夫だって!しかも僕たちが泊まるのは小さなバンガローだから、テロなんかに狙われないって。大丈夫、大丈夫。じゃ、数日で帰るからね。母さんによろしく!戻ったら電話するよ」

 そして若いふたりは昼過ぎに車に乗り込むと、地中海の街からカラカラに乾いたユダの砂漠を渡り、赤い砂の山々に囲まれた紅海のバンガローへと。ロイの思ったとおり、そこはエイラットとは比べ物にならないほど宿泊客の姿も少なく、まるでテロなどとは程遠い、オアシスのバンガロー。迎えてくれたエジプト人のオーナーも気さくで、ユダヤだのムスリムだのなんだの、そんなことはまるで遠い世界でのできごとのよう。砂と塵にまみれたカラフルなカーペットが敷き詰められたビーチ・ハウス。日に焼けたヨーロッパからの若い旅人たちが、上半身裸のままで水煙草を楽しみ、レゲイ音楽にあわせてどこかから陽気にタブラの音が響いてくる。香ばしく炭で焼かれた獲れたての魚の、オリーブオイルとガーリックの香りが食欲をそそう。朝の紅海で魚と泳ぎ、午後には土産屋のオヤジも猫も旅人たちも、風に吹かれてシエスタ。
 
 そうしてイスラエルの日常から離れた紅海での楽しい時は過ぎ、何日目かの夜のこと。

「マルヴィーナ、今朝、オーナーに頼んでおいた新しい部屋の鍵を受け取りに、フロントに行って来るよ。部屋に荷物を移したら、すぐ戻ってくるから」

 静かな夜の紅海の海風に、ゆったりとビーチウェアーでカーペットの上で横になっていたマルヴィーナにそう告げると、ロイはバンガローのフロントへと。それからほんの少しの時が流れて、マルヴィーナの背中に、静けさを破るようにして激しい爆発音が響いた。突如としてバンガロー一帯は停電し、きな臭い匂いが立ち込める。

「・・・・ロイ!」

 夢中でバンガローのフロントへと、マルヴィーナは裸足で、昼間の熱がクールダウンしはじめた砂に足をとられながら、暗闇を走った。

「ロイ!ロイ!どこにいるの?!・・・ロイ!!」

 暗闇のどこからもロイの声は聞こえてこない。
 暗闇のどこにもロイの姿は見つからない。

 それからどれくらいの時が過ぎたのだろう。テロを予期して、エイラットの町に待機していたイスラエルの救急車が、ようやくこの小さなバンガローに到着した。マルヴィーナは車内に運ばれるすでに心拍のない人の姿に見覚えがあったが、咄嗟にそれを否定した。混乱の一夜が明けて、政府が用意した飛行機。まるで昨晩は何もなかったかのようなテル・アヴィヴ。マルヴィーナはアパートへと急いだ。もしかしたら、ロイは先に戻っているのかも知れない……。しかしアパートの中は数日前に出かけた時のまま、がらんと静かで、そこにもロイの姿はなかった。

 葬儀では、大勢の友人や親戚、そして家族がロイに別れを告げた。マルヴィーナは服用していた精神安定剤のために涙も出ず、ヨーロッパの母国から駆けつけた両親に支えられながら、ただ映画のように、すべてが非現実的にひとりでにぐるぐると回り、なぜかロイひとりだけが忽然と消えてしまった。葬儀も終わってしばらくのち、マルヴィーナは「ここにひとりいてどうするんだ、帰って来い」と懇願する両親への答えを出した。祖国をはたちで去ってからの四年間、これまで移民としてゼロからはじめ、がんばって生きて来たこのイスラエルという国。ロイとの思い出とともにこのもうひとつの祖国で、これからも生きていこうという、娘の意志を尊重し、後ろ髪を引かれながら帰国の途に着く両親を、ベン・グリオン空港からひとり見送った。

 ロイ、享年二十八歳。眼鏡の似あう、やさしくおおらかな青年だった。ふたりはフパの下で結婚を誓い、妻と夫となる日を心待ちにしていた矢先の出来事だった。しかし人生はままならない。ロイはあの夜、シナイ半島の星空の下で「さよなら」も告げずに、それまでの彼の存在がまるで幻だったかのように、マルヴィーナとそして私たちの前から、闇夜に消えてしまった。

 あれから一年という時が流れ、テル・アヴィヴの北、ヘルツェリアという街で、地中海の海辺のホテルで久しぶりに再会したマルヴィーナ。思いのほかにマルヴィーナは、まさにサナギから美しい蝶へと。あの夜のことはもう遠い思い出のようにさえ感じさせられた。

「あら、マルヴィーナ、ちょっと大人っぽくなったのね。背も少し伸びたかも?」

 少し、からかってみた。

「あはは~!人生は山あり谷ありだからねえ!」

 彼女のほうが一枚うわて、女は強い。ロイを失ってからのマルヴィーナ。これからも強く生き続けてゆくのだろう。きっと、もう大丈夫。彼女はイスラエルで見つけたのだろう、今までの、そしてこれからの自分自身を。さようなら、ロイ。心配しないで、そちらで安らかでいてください。あなたのマルヴィーナは、美しく強くこの土地で生きているから。

Saturday, September 18, 2004

エルサレムに海を作ろう - ためいき



いろんなことがあって、
なんだか溜息の出る日々が続いて。

イスラエルに生きる。

いつもどこかに悲しみがひょいと顔を見せて、
私たちをあざ笑う。

そしてその悲しみが薄らいで、
また笑顔に戻るころ、
また新たな次の悲しみがやってくる。

それでも毎日は何も変らずに過ぎてゆく。
だからイスラエルは海に面しているのだろうか。

地中海の暖かな母なる海がなければ、
きっとこの国はカラカラに渇いてしまう。
渇いて渇いて人は水を求めて彷徨い
豊かな土地を、いのちを奪いあう。

海の中では政治も何も関係ない。
子供たちは無邪気に遊んで、
大人たちもあの頃のように魚と波と戯れて。

だからやっぱりこのエルサレムにも
海を持って来るべきだったよね。
そしたらみんなケンカなんかしないだろうにね。

豊かな水のある街は
そこに生きる人の心をも潤し、
いのちの大切さを受け継いでゆく。

Friday, September 17, 2004

monochromeな記憶 - 電車のホーム



Fラインの電車に乗ってしばらくすると
空中遊泳のような電車内の前方に
広い空とともにマンハッタンが見えてくる

もう少し遠くの高いビルたちを眺めていたいのに
電車はそんな気持ちを知ってか知らずか
すすすすっと地下へ潜ってイーストリバーを越えて
マンハッタンへと滑ってゆく

6番街の14丁目で電車を降りて
長い地下通路をひたすら歩いて乗り換えて
次の電車はアッパー・ウェストへと私を運んでゆく

ブルックリンとマンハッタンの電車の旅
顔 顔 顔 かぞえきれない偶然
駅 駅 駅 かぞえきれないストーリー

同じ駅のプラットホームで
毎日ギターを弾(はじ)いていた
痩せた長髪の歯の欠けた中年男

彼が全身で弾きだすディランは最高だった
ちょっとナザレのかの人に似ていた

ある昼下がりBoro Parkへの旅の途中
その日は立ち止まって聴いてみたかった

いつものように「ちょっと電車を待つ間」
なんてことじゃなくて「ちゃんと好きなだけ」 

ディランが打ちつけられる

彼とギターとがひとつになり
プラットホームの床にリズムを刻む
迷いsoulのまっすぐなpower
プラットホームの柱に寄りかかり
踏みしめる足のリズムの響きを感じていた


ポール

そんな名前だと言った


この駅で弾(ひ)きはじめたのはいつだったかなあ
もうずいぶん昔からいるんだな、昔さあ
子供の時にね、もらわれたんだ
実の両親も、ユダヤ人だったけどさ
育ての親はね、これまた立派なユダヤ人の医者でね
そこんちで大切に育ててくれたんだけどさ
感謝してるよ

だけどよ、俺はね、
ほら、歯も欠けちまってさ
ある時、ジーザスを見出したんだよ
それでさ、それからここにいるのさ


そしてまたその男
ポールはギターを弾(はじ)いた

4本目のFラインが滑りこんで来て
ざわめきがギターと私に割り込んだ

右へ左へと沢山の色の頭は無表情で早足で歩き出す
薄くなったポールの長い金色の髪が見え隠れして
「えいっ」と流れとともに電車に乗り込んだ

ドアが閉まりかけ頭たちが慌てて駆け込んでくる
途切れ途切れにプラットホームの床をディランが走る

「ガシャン」とドアが閉まり車内一杯に響く
ケタタマシイニューヨーク訛りのアナウンス

ポールとギターと踏みしめた足のリズムが
モノクロのモノトーンに
音のないテレビのように
何も誰も関係なく
電車の窓ガラスから勝手に流れ続ける

今も流れ続けるあの日の記憶

Wednesday, September 15, 2004

あれから・・・ sorekara



2003年。あの日から2年が過ぎ、マンハッタンとおなじく、この砂漠の街エルサレムにも9月11日が訪れて、テレビの画面では去年よりも大げさな感をぬぐえないアメリカの特集番組が、繰り返しセプテンバー・イレヴンを語っている。

あの年の9月11日の午後、私は自宅から5分ほどのエルサレムの中心街へと、背の高いくすんだ色の街路樹以外には陽射しをさえぎられないベツァレル通りの坂を、歩いていた。9月はじめの砂漠の街の太陽は厳しく、額がうっすらと汗ばみながら、ちょうど坂を上がりきったところで、右の肩から斜めにかけたベージュ色のアメリカ製バッグのポケットが踊った。ポケットの携帯電話のスキップするような、軽やかな呼び出し音が鳴った。

「アロー?」

「ヘイッ!チカ!大変だ!ニューヨークのツイン・タワーが攻撃された!!攻撃されたんだよ!」

早口のニューヨーク訛りの英語で、友人の興奮した声が、耳の奥へ刺すようにして飛び込んできた。ジャーナリストの卵で、エルサレムの新聞社に勤める彼の握る受話器の向こうから、緊張と混乱が伝わってきた。カラカラと太陽の照りつけるベツァレル通りの坂の上で、なにがなんだかわからず、「どこのツイン・タワー?・・・」と、ピント外れな私。それから一瞬の間をおいて、ツイン・タワーのそびえるウォール・ストリートあたりのマンハッタンが脳裏に浮かび上がった。

それとおなじ頃のエルサレムでは、街のあちこちで次から次へと、政治に利用されたパレスチナの人による自爆攻撃が起こっていた。テレビにたびたび映し出される無残な爆発現場。骨組みのあらわになった黒く焦げた車の残骸や、アスファルトの路上に転がる体の一部が欠けた、赤い液体に染められた人々を運ぶ救急隊員たち。ユダヤの墓地での葬儀に悲しみ泣き崩れる人々の涙と静かな叫び。それとは裏腹に、あちら側では自爆の成功に銃を掲げ喜び踊る人たちの姿と、そして無残にも自爆してしまった失った子への母の嘆き、またはジハードのために殉死者となった子への喜び。またはその双方への政治批判や支持のデモ。

できることならば目を背け耳をふさぎたいような現実のすべてがそこにあるようで、しかし、それでも不可解なことに、すべてはまるでまったく遠い別の世界での出来事のように、この砂漠の街の日々の生活は、淡々と暮れては明けるだけだった。そんな砂漠の街エルサレムの日々。肩から銃を提げ、空港で見かけるような細長い金属探知機を、若いカップルや買い物客の身体に当てるセキュリティー・ガードマンの姿が、街なかの流行のカフェやレストラン、さらにはスーパーの入り口に「必須アイテム」として見かけられるようになった。

「なにか武器は持っていますか?」

目を血走らせ、爆弾をお腹にくくり付けた人間魚雷のような狂気には、かなりマの抜けたようなこの質問。街のいたるところで見るようになったセキュリティ・ガードの多くは、この土地へ移り住んできた人のよさそうなコーヒー豆のような光沢の小柄なエチオピア男や、ここ何年かで急速にエルサレムの通りに溢れはじめたロシア語の金髪に青い目の若者たち。命との引き換えのシェケルは、ゼロからの出発をやむを得なくされた移民の人々を惹きつけるのだろうか。それとも、守るべき家族も職もあるエルサレム人は就くべき職ではないのだろうか。カフェの前で、レストランの前で、Barの前で、スーパーの前で、心なしか不安げに椅子に腰掛けた彼らセキュリティ・ガードの姿に、なんだかとてもやるせない思いが行ったり来たり。しかしセキュリティ・ガードがそこにいようがいまいが、よほどの用事がないかぎりは、私は街のカフェなどにうかうかと足を運ぶことはなかった。

「いつ爆破するかわからない」異常な緊迫した空気の中では、カップを持つ手が震えそうで、心臓に毛でも生えていなければとても甘ったるいミント・ティーやアラブ・コーヒーの味など楽しめるわけがない。おなじお茶をするのなら、武装していない紳士とロマンチックにデートで楽しいほうがいい。この砂漠の街でロマンチックなお茶といえば、あの当時、エルサレムの中心街のキング・ジョージ通りとヤッフォ通りとの交差点に、スバロというファースト・フードの店があったことを思い出す。アメリカ出資のそのイタリアン・ファースト・フードの店は、場所柄もよく、連日お昼時にはアメリカからの観光客やアメリカ・ナイズドされたい地元の買い物客、そしてデートやお見合いの最中だとすぐにわかる、ウレシハズカシな若い人たちの姿でいつも賑わっていた。しかし、安さとサービスとそこそこの味が売り物の、日本やアメリカのファースト・フードに慣れている私には、この街ではマクドナルドなどアメリカ系のファースト・フードはバカ高いだけでさほどおいしくもなく、何度か友人に誘われて足を向けてみたスバロもその例に漏れずだった。もしそれがロマンチックなデートだったら、不味いものでも芳香豊かで美しいバラ色の味なのだったのかもしれなけど、もう箸が転がってもぜんぜんおかしくもない齢の女同士じゃ、不味いものはどうしたって不味いからしょうがない。

そして2001年のあの日、世界中がまだ9月11日の驚愕から覚めやらないころ、いつものように昼食を摂る客たちで、溢れんばかりのスバロの午後2時過ぎ。通りから店内がよく見える大きなガラスの壁は、あっと飛び込んできた若い男と共に粉々に吹き飛ばされて、通行人を含む100人を超す死傷者が出た。当然、その若い男はお腹に巻きつけていたらしい爆発物で幾千の欠片となって飛び散り、スバロの入り口があった往来の激しい埃っぽいキング・ジョージ通りは、キラキラと粉々になったガラスの破片と、血に赤く染まりバタバタと倒れた人々で埋めつくされた。街路樹と雲ひとつないイスラエル・ブルーな空を割るように、救急車の赤いサイレンがけたたましく叫び、ついほんの一分前までは賑やかなで幸せの象徴のようなスバロは、もうその原形を微塵もとどめてはいなかった。

あの日、それとほぼおなじ時間に、爆破前のスバロから100メートルほどのバス停にいた私。午後の砂漠の強い日差しに喉が渇いて、近くのスバロに飛び込むと、カウンターで紙コップにイスラエル風のミルク入りの甘ったるいアイス・コーヒーを受け取り、またバス停へと戻ると、ちょうど知人のアロンが、私とはちがう行き先のバスを待っていた。

「今日も暑いね」

なんて、いつものようにたわいもない砂漠の街での会話。するとバス停を通りかかった車の窓から、別の友人が私を見つけて「おーい!乗ってくー?」と手を振った。目的方向のちがうアロンと「じゃあね」とそのまま別れて、私はほんの10分ほどの差であの大惨事に巻き込まれずに。夕方になって仕事を終え、帰路に着いた時には、まだスバロの惨事はまったく知らず、やけに渋滞した通りが物々しいなあ、どこかで交通事故でもあったのかな、なんて、帰宅後に留守電に入っていたニューヨークからの「生きてるかい?」のメッセージで、はじめてその惨事を知ったというノンキさ。爆発の恐ろしさとほんの10分ほどのミアミスにぞっとして、この街で生きることへの緊張感と脱力感の両方が体中に走った。それから私は急いで受話器を取ると、エルサレムに住む近しい友人たちの番号を押し、みな無事だったことにほっと胸を撫で下ろし、そしてはっとして、あの時刻にバス停で別れたアロンへ、電話番号を押す。・・・プルルルルー、・・・プルルルルー。

「・・・アロー?」

あ、繋がった!

私とバス停で別れた後、しばらくしてアロンは右の耳にすさまじい爆発音が響き、その次の瞬間には路上に突っ伏していたという。幸いなことに、さほど大した怪我もなく、しかし身体に重い痛みを感じながらも起き上がってみると、あたりは地獄のように赤く血に染まった人たちが倒れ、すでに息絶えたとわかる転がった人の身体もあった、とアロンの声は途切れ途切れに震えていた。それからしばらく彼は耳鳴りに悩まされ、カウンセリングへ通っていた。それから後日に、そのスバロの惨事に巻き込まれた人々の体験談が、新聞やニュースで伝えられ、あるニューヨークのユダヤの男性の話がとても印象に残った。

この男性は9月11日にマンハッタンで崩れ落ちたツイン・タワーで一命を取り留め、その恐るべき体験をきっかけに、命と家族への感謝をしっかりと痛感し、かけがえのない家族とともにユダヤの人々の心の故郷であるエルサレムに訪れていた。そしてその矢先、彼はエルサレムの街角でスバロの爆破に遭遇し、そして幸いなことにまたもや一命を取り留めたという。マンハッタンとエルサレムでそんな体験をするなんて、本当に人の命はどこでどうなるのかはわからない不思議なもの。

マンハッタンとエルサレムの悲劇からしばらくして、2001年10月の半ば。私は混沌から混沌へと、セプテンバー・イレヴンの爪跡もやっと少しばかり片付きはじめたばかりのマンハッタンにいた。

「まさか君はモサドで働いてるのかい?エルサレムにマンハッタン、まったく君の行くところはテロに爆発ばかりだね!あははは」

イタリアのフランチェスコがそう冗談で笑うほど、好んで爆発の起きる街を渡りゆくわけではなく、いつもイスラエル出国時にベン・グリオン空港で不審がられるような、秘密結社のスパイでもなければ爆弾魔でもなく、「コーゾー・オカモト」とイスラエルのその世代には知られた名と関係があるわけでもない。ただ、今にもプチンッと音を立てて切れそうな、憎しみと悲しみと恐怖、ずる賢い政治の駆け引き、気の休まることのないエルサレムでの生活に疲れて、どこかで少し息をつきたくて。

しかし疲れきった私には、文化もなにもかもが異なる中東から数年ぶりで土を踏む日本では、日本を訪れるたびに例外なく対面する強烈なカルチャー・ショックに対応できる余裕があるかどうかさえもわからず、母国で実家に長居をすればついつい余計な里心も芽生えてしまう。そこで親に甘えるのが極端にヘタな私は、その時ローカリゼーションの仕事でかかわっていたテル・アヴィヴのオフィスの小さなマンハッタンの共同オフィスへと、1ヶ月ほどそちらに羽をやすめにゆくことにした。久しぶりにニューヨークの友人たちにも会えると思うと、それだけでも少し心がうれしく軽くなるように思えた。

3ヶ月のヴィザと鞄ひとつで降り立ったJFKから、何年かぶりのマンハッタンへと。馴染みのあるアッパー・ウェストのコロンビア大学近くにアパートを借りてみるものの、そのころのマンハッタンは、ツイン・タワー跡の近辺はまだ地下鉄も開通できず、地上では焼け跡からの灰色の煙が鼻の奥で気味が悪く哀れだった。そんなマンハッタンの住人たちはそれまでの「君は他人だ、僕には関係ないよ」といったマンハッタン気質を少し思い直して、どことなく少しだけ人らしくやさしくなったように感じられたが、それでもやはりマンハッタンはマンハッタンだった。そこで私ははじめに予定していたマンハッタンの、その見知らぬオフィスではなく、橋を越えたブルックリンのユダヤの街ボーロ・パークの友人イツホックを訪ねた。そして彼の好意で、彼が経営するオフィス・Cの片隅に机をひとつ貸りて、そこからテル・アヴィヴへと仕事を送ることになった。

つくづく持つべきものは星の数ほどの顔見知りではなく、一人でも真の友。そしてインターネットと鞄にコンピュータひとつ、世界中どこからでも可能な仕事に、誰にか知らないけれどとにかく感謝する。それからの毎日、お昼近くに、マンハッタンのアッパー・ウェストから地下鉄に乗ってブルックリンのボーロ・パークへと、そして深夜近くにブルックリンからまたマンハッタンへと、なぜだか私は群れる魚の中を一匹だけ逆流する奇妙な癖があるらしく、物価の安いブルックリンに住みながらマンハッタンの高層ビルのオフィスへ通う人の多いニューヨークで、ひとり、いつもその波を逆行していた。

そんなニューヨークでの新しい生活で、深夜おそくにオフィス・Cで仕事のを終えて、ボーロ・パークからマンハッタンへ帰る途中。毎夜のように眺めたマンハッタンの夜景は心に悲しく焼きついて、三百六十五夜、休むことなくキラキラと耀き続けるその光がとても寂しく、どこか止め処もなく空しくて。人の奢りと愚かさが凝縮されたようなその大きな街の灯りをいく夜もひとり、タクシーの窓から、またはがらんとした夜のFラインの電車の窓から、ただただ、非現実的で幻想的な夢の中のワンシーンのように放心したように眺めていた。あの文明のパワーと愚かさの両方を感じさせる心の冷え切った光景は、おそらくこれからもずっと心の片隅で忘れられないだろう。

そしてそれから1ヶ月近くが過ぎ、オフィス・Cでいつのもように、イツホックや他のオーソドックス・ユダヤな顔ぶれたちと無駄話をしていた時のこと。イツホックが少し怒ったように、不意に切り出した。

「以前からこのことを聞いてみようと思っていたんだけど、君はこのニューヨークに来る前に、あの状況のエルサレムにいたんだよね。そして今も、向こうではあちこちで毎日のように爆発が起きているんだろう。なのに僕がその話を持ち出しても、いつも君はそんな話にはまったく興味がないかのように振舞うのはどうしてなんだ?仮にも君はあの街に住んでいたのだろう?今もあちらにいる人たちにシンパシーは感じないの?少し君は冷たいんじゃないかと思うよ!」

いきなりの問いに、戸惑いを感じた私。そして少し、考えた。

「・・・それは・・・話したくないのじゃなくて、話せないだけ。そのことを客観的に話すには、まだつらすぎるから・・・」

まるで自分自身に語りかけるようにうつむくと、その時、つまり、「エルサレムに帰れない」自分がいるということに気がついた。エルサレムを離れてから、ボーロ・パークのオフィス・Cでイツホックに尋ねられ、はじめていかにエルサレムの現実の歯車が狂い出していたかを、実感として掴みはじめることができ、ふたたびその奇妙な現実の中に身を置くことを拒んでいる自分を、ようやく少しだけアナライズできるようになっていた。帰りたくもあり、帰りたくない。そんな宙ぶらりんの「エルサレムへ帰れない私」は、すっかりベッドで眠るためだけになっていたマンハッタンのアパートを引き上げることにした。

悲しいマンハッタンよりも、エルサレムに帰れない心に傷を負った私に声をかけてくれたボーロ・パークのハシディックの友人、ブックスバウム家でしばらくお世話になることにした。ブックスバウム夫妻と9人のティーンズの子供たちとのオーソドックス・ユダヤの家庭での生活は、まるで女子高の寮のようなにぎやかさで、家庭という温かい懐に包まれたボーロ・パークでの日々がすぎていった。そして3ヶ月のヴィザも切れかけたころ、イツホックと私、そしてもう一人の友人と車でモントリオールとへ、結婚式に出かけることになった。

冬のニューヨーク州を北上しモントリオールでの一泊の短い旅を終えて、カナダからアメリカへふたたび入国しようとしたアメリカ側の国境で、意外にも背の高い入管のオニイサンは、私のテル・アヴィヴの日本大使館発行のパスポートに不振を感じたらしかった。しかしそれ以上に、筋金入りのオーソドックス・ユダヤの風貌の黒い服の男二人と、日本人の若い娘、というコンビネーションが、どうにも納得行かなさそうな怪訝な眉間のしわ。入管のオニイサンは私のアメリカへの再入国を認めず、思わぬ足止めを食らうことになりそうな険悪さにさて困ったなと、顔を見合すアヤシゲなボーロ・パーク三人組。

「なぜあなたは現在の居住国であるイスラエル、または母国の日本に帰らないのですか?アメリカへの再入国の理由は何ですか?」

そう早口に神経質な眉間で睨まれて、顔が熱くなるのを感じながら口ごもる。イスラエルに戻らない理由を、この見知らぬ眉間のしわの若い男性に順序だてて話すことは難しく思われた。

「それじゃあ、カナダに戻ってもらいましょう。アメリカへの入国は認めません」

「・・・そんな!カナダに戻れだなんて!今私が滞在しているのはニューヨークなんですよ。カナダに戻っても・・・」

「それは僕の関与することではありません」

ごもっともな言い分ですが、どうしたらいいのだろう・・・・。思わぬ事態に困惑し顔を赤くしてイツホックの顔を覗き込むと、彼はあご髭をすっと撫でた。

「入管係りさん、あなたはセプテンバー・イレヴンを覚えていますか?ほら、あのツイン・タワーが崩れ落ちた日のことを」

「もちろん!私はアメリカ国民だ!どうやったらあの惨事を忘れることができるのですか!たくさんの人が亡くなって、悲しい悲しいことだった。今でもみんな悲しんでいるさ!」

そう興奮したように、オニイサンは肩を持ち上げるジェスチャーをした。

「そうですね。あのような惨事を忘れることはできない。しばらくアメリカ国民はあの日の痛みを忘れることもできないでしょう。あなたもそうおっしゃるように。だったらこんなことはどうでしょう。もしあなたがあのマンハッタンに住んでいて、あんなに恐ろしいことを経験したら?またすぐにマンハッタンに戻って、何事もなかったように生活できますか?私にはできないかもしれない。私の住んでいるブルックリンから、歯の抜けたようなマンハッタンを見るとつらくてね・・・心が痛むよ。この私の友人も、あのテロの起こっているエルサレムに戻るにはもう少し心のリセットが必要なように思えるんですよ・・・」

入管のオニイサンは、黙って私のパスポートに新しい3ヶ月のヴィザを押した。

そうして無事に戻ったボーロ・パークでの生活の中で、心に少し健康を取り戻しはじめた春の日。ユダヤの暦では過ぎ越しの祭りも近い3月の終わり。ボーロ・パークの温かさに甘えていつまでも心の整理をしないわけには行かず、かつてユダヤの民がエジプトを出発しイスラエルを目指したように、過ぎ越しの祭りの前までにエルサレムへ戻ろうと決心した私は、ニューヨークに降り立ったときよりもひとつ増えた鞄とともに、まだ少し不安な心情ながらも、JFK空港の搭乗口をテル・アヴィヴへとくぐった。

数ヶ月ものあいだ、なんの見返りも望まずに迷い子の私を居候させてくれたブックスバウム一家とイツホック、そのほかの何人かの友人たちに、本当に有り難いと心から感謝しながらふたたび帰ってきたエルサレムの街は、想像をはるかに超えて、マンハッタンへ旅立った半年前よりにも増してひどいものだった。どこもかしこもザラザラと粗く埃っぽい砂色で、街の中はどこもかしこもゴースト・タウンのような、死んだ風が吹きぬけて舞う埃と塵と砂に、潤いをとり戻しつつあった私の心は、途端にまた砂漠色に乾いてゆくようだった。新市街の目抜き通りのヤッフォ通りで偶然にすれちがった友人Aは、「ここはまるで戦場だよ!」と一言、吐き捨てるように嘆き、目の下の大きな隈のやつれた表情で首を左右に振った。

その言葉のとおり、カフェやレストラン、服屋の並ぶヤッフォ通りのビルの屋上には、オリーブ・グリーン色の軍服を身にまとったイスラエル軍の若い兵士が自動小銃を構え、通りの不審者に目を光らせて、それはまるで道行く人々を狙っているようにさえ感じられた。以前あふれかえっていた若いアメリカからの移民や学生たちは、すでにそんな悲しい色のエルサレムの街を去り、それは職を失ったり、あるいは不意にいのちが終わらされたことによって、またそれを避けるために、だった。恐れと悲しみだけがグルグルとこの街を粗く取り囲んで、キリスト教の巡礼者や、旅人、街角で白い布をまとい十字架を掲げ、凡人の私にはまったく理解できないことを一人で熱演していた典型的なエルサレム・シンドロームの、あの白髪の混ざった長い髪の男すらもその姿を隠し、旅人目あてのみやげ屋やレストランのショーウインドーは、長いあいだきれいに拭かれた様子もなく汚れて曇っていた。

窓やドアには「閉店」と貼られた紙がポッカリとカラッポの砂漠の街エルサレム。それでもこの街に残るしか術のないエルサレムの人々は、なんとか希望を持って生きようとしていた。希望、それなしでは途端に呆気なく崩れてしまうような、そんな張り詰めたもろい細い糸のような空気が、エルサレムには流れていたから。絶望の中でも希望を持って生きるということ、ここではただそれしかほかに生きのびる道はないように思われた。

それから何度目か9月が過ぎて。キング・ジョージとヤッフォ通りの交差点で、たくさんの人の夢と希望と未来とともに、数え切れないほどの細かな欠片となって飛び散ったスバロは、同じヤッフォ通りの旧市街に近い場所に移転して、新しいスタートを切った。ゆっくりであっても、ふたたびロマンチックな若い人たちの笑い声が、この砂漠の街に新しい未来の夢を運ぶ。レストランやカフェの入り口に腰掛けていたセキュリティ・ガードの姿は、少しずつその姿を消しはじめ、歩行者天国のベン・イェフダ通りには、また以前のように賑やかに夏祭りの夜店の電灯が揺れはじめた。人々はもうあの重苦しい日々を忘れたかのように、目先のことに気をとらわれ、日常は流れてゆく。

あの時、ブルックリンから眺めたマンハッタンの煌々たる夜景は今も空しく存在してるのだろうか。それともそんな空しさなどは幻想でしかなく、いつもと変わらずにキラキラと輝いているのだろうか。テレビでは今年もセプテンバー・イレヴンがまるで現代を象徴するなにかのように語られる。あの日、たくさんの命と未来がまったく無意味に失われてしまった。そして今でもこの国でもたくさんの命が失われ続けている。あの日の灰色の空と涙と叫び声に、あれから世界はどう変わったのだろう。世界はどこへ行くのだろうか。そして私はあれからなにか変ったのだろうか。

Sunday, August 15, 2004

カピシュ!( マフィアな かんけい)

「グラァンデ!グラァンデ!」

受話器の向こうは、真夏のオレンジ色の陽の降り注ぐ南イタリアのリパリ島。元気いっぱいのフランチェスコの懐かしい声が響いた。

青い地中海に浮かんだシシリア島のメシーナの港から船に乗って。火山のエオリアン諸島の島々のひとつ、リパリの島。シシリア島で塀の向こうの住人になるはずだったマフィアのドンが、塀の向こうの代わりにこの島でこっそりと軟禁生活を送ったり、昔から罪人の島流しに使われてきたリパリの島。そんなちょっとワケありのリパリの島も、今では夏になればヨーロッパの国々からたくさんの旅人たちが訪れ、太陽がいっぱい、ロマンチックな夏のバカンスがきらきらと水しぶきを上げて輝く。

彼、フランチェスコとの出会は10年と少し昔。そんなヨーロッパの片隅の小さな島暮らしとはなにもかもが異なる、コンクリート・ジャングルの巨大なエネルギーの渦巻くマンハッタン。そのアッパー・ウェスト地区にある大学での授業で、だった。毎日その大学の教室で彼のバタ臭い顔を見るたびに「真綿色した~シクラメンほど~」と思わず喉まで出かかるほどに、イタリア青年なのに若き日の布施明さんの面影のフランチェスコ。ひょっとすると私が布施さんの大ファンだったからだろうか、お互いヨーロッパとアジアの端くれの小さな島からやって来たという以外には、文化も言葉も交差するものはなにもなかったのにもかかわらず、どこか意外とお互いに気のあうところがあったらしい。放課後や休みの日などにはあちこちへ連れ立って遊びに行ったものだった。

そんな生粋のイタリアンな布施君とは、なぜかいつも気がつけば「God」について語ることが多かった。フランチェスコはその名の通りカトリックで、イタリア的なカトリックのモラルな観念は彼の細胞の隅々に埋め込まれ、ついついどうしても会話が神や教会、はたまたはジーザスだのに向かってしまうということだったのだろうか。当時、マンハッタン生活を充実させたかった私は、アッパー・ウェスト地区の大学には地下鉄で通うようにして、ワシントン・スクエアに近いローワー・イースト地区のウェヴァリー・プレイス通りに、「New Yorkers」などの雑誌の挿絵で有名なとあるユダヤの風刺画家のアトリエの留守番として住んでいた。

その小さなアトリエで、いく夜もフランチェスコやその他のヨーロッパからの学友たちと「Godとはなんぞや」と話しあったものだった。当時、彼はマンハッタンのどこかのカトリックが主宰する勉強会などへ熱心に通っていた。そのお陰で私も何度か誘われたことがあったのだが、それがイタリア語でだったこと、そして少々面倒くささを感じて行かずじまいだった。あの時、若干二十ン歳、単なる「長い黒髪のきれいなニッポンの若い女の子」以上でも以下でもなかった私には、日本のヤオヨロズ的な神ではない、とりわけ西洋の偉大な「God」なるものはなかなか理解できなかったし、それにもれなくついて来るジーザスやマリアというものにも、偶像芸術品的にはおもしろいとは思っても、そこに取り立てて宗教的な興味合いは見出せなかった。

「これがGodだよ、チカ、カピーシュッ?!」

「ノーカピーシュッ!わからない!」

そのころ私がぼんやりと脳裏に描いていた「God」なるもの、そして宗教とは、人として生きる正しい道を理解するための道具であり、しかし若いヨーロッパのカトリックの彼らとの宗教観と「God」についての話には、いまだに受け継がれているヨーロッパの反ユダヤ的な影をどことなく感じられることが幾度もあった。そして時にはどこかエゴイスティックだとさえ感じられ、なかなか彼らの語る宗教の理想と現実をしっくりと納得できなかったのを憶えている。

そんな私の青春時代ともいえるようなマンハッタンの日々から、あっという間に一昔という年月が過ぎても、やはりシシリアの熱い血は一度「カピーシュッ?」と肩をたたき、杯を交わせばその友情は一生ものなのだろうか。互いがマンハッタンを離れても手紙やメールなどを通してこうして「カピーシュな関係」が続いてきた。そして数年前のこと、マンハッタンから本国イタリアに戻り、ボローニャの大学で法を学んでいたフランチェスコの毎年の誘いについに陥落し、クリスマス休暇のリパリの島での再会となった。まだ起き出す前の朝早いシシリアの街から島の北の方へと海沿いにのんびりと列車の旅をして、メシーナの町の港から船に乗りかえ、ようやくその日の夕方近くになって小さなリパリの港に着いた。

懐かしいのフランチェスコは相変わらず元気で、相変わらず限りなく「シクラメンのかほり」だった。ブーゲンビリアの花咲く島と海と空と風の織り成す自然の芸術。クリスマス近くの島は空気は冷たいものの、ところどころの庭先にレモンとオレンジがたわわに実る。次の日の朝早く、まだあたりが薄暗く明け切っていない時刻、フランチェスコの経営する地中海の見えるコッテージの部屋で目覚めると、海へ降りる裏庭をガザゴソと誰かが通り抜けるような音がした。コッテージのバルコニーの開き扉を開けて少しおっかなびっくりにはだしで外へ出ると、音のする裏庭の方から薄明かりの中を痩せた素朴な風貌の少年たちが「フィッシュ!フィッシュ!」と、自分たちのぶら下げている籠に入った捕れたての魚を指差した。

「あら、たった今海から捕ってきた魚なのね。おいしそうだね~」

なんとものんびりとした、リパリの島の生活を垣間見たような気がした。

そしてそれからのクリスマスと年が明けるまで、イタリア人の、いや、デ・ニーロかパチーノか、マフィア映画さながらのシシリア地方の固い友情と家族の絆と、そしてまさに頬の落ちそうなホームメイドのイタリア料理に囲まれて。フランチェスコの知り合いの、山添の農家の大きな焼き釜から出てきたばかりのアツアツのシシリア風ピッツァ、バラエティーに富んだおいしいトマトソースのパスタにマカロニ、チーズのとろけるラザニア、小魚のマリネ、オーブンから出てきたばかりでとろけるように煮込まれた肉料理。そしてシンプルなガラスの瓶に入った自家製の赤ワイン。デザートにはドライ・フルーツの入ったパネトーネや、クリームたっぷりのケーキにティラミス、とろりとチョコレートのかかったシュークリーム。まるで誰もが夢見るようなすばらしいイタリアの食卓。

そして大晦日には、港を見下ろす崖の上に建つ、島で一番のホテルでのディナーに陽気な歌とダンス。ああ、小さなリパリ島の夜は眠らない。音楽と笑い声とダンスの躍動は爽やかな心地よいエオリアの風に乗り、夜が白々と明けはじめるまで続いた。しかし当然のことながら、舌鼓とダンスだけではすまされないフランチェスコ。日本の大晦日には神社へ初詣に行くように、クリスマス・イヴにはしっかりと町一番のカトリック教会のミサにも駆け足で顔を出し、ついでに私も覗いて見た。そんな一週間の気持ちも胃袋も幸せでパンパンなリパリの日々。通りを歩けば、町の人たちとはもうすっかりカピーシュな関係で、あちこちから「チィーカ!チィーカ!」と、クスクスといたずらっ子のように私の名前が響く。彼らの言語で「チカ」は「ちいさな女の子」という意味で、実際にそんな名前の女の子がいることがもうどうにもこうにもおかしい。

大晦日のパーティーが終わったある昼下がり。フランチェスコの幼馴染で、崖に建つホテルのオーナーの息子ルカと、そして私でのんびりと港近くの広場のカフェでまどろんでいた時のこと。いかにも細い路地裏を走り抜けられそうなイタリアらしい小さな車が、傍をトコトコと走りすぎた。

「あ、そうそう、あの車に何人のユダヤ人が乗れるか知ってる?」

ルカはいたずらっぽくウインクをして、私に尋ねた。

「何人って・・・?ふつうは2、3人でしょう?」

どうしてここでユダヤと限定されているのだろう?そう思いながら「ふつうは」と答えた。

「違うよお。まあ、500人ぐらいは入るだろう?な、フランチェスコ?!」

そういって、アハハハハと軽く笑い飛ばしたルカ。

「まあ、怒るなよ。ジョークだよ、ジョーク!カピーシュッ?!」

私よりも年が若く、あの時ハタチそこそこだった彼らの若気の至りの冗談。「灰になったユダヤ」といいたかったらしい。それにしても趣味の悪い笑えない冗談で、こんなジョークが気軽なヨーロッパの彼らの感覚には、マンハッタン時代にもなかなか馴染めなかったのを、その時また思い出してしまった。

そしてリパリの島を去る日が近づいたある日の夕暮れ。祭りの後の静けさの中で、フランチェスコの愛車の赤い「Suzuki Samurai」ことスズキ・ジムニーに乗って、彼の幼年時代からの「とっておきの夕日」を見に行くことにした。そしてその前に、夕日が沈む前に一ヶ所、どうしても私を連れて行きたい場所があるとフランチェスコ。「カピーシュ?」早速、ふたりでその真赤なサムライに乗り込んだ。フランチェスコの家から、リパリの島の山の上へと真赤なサムライは軽快に走り出す。5分も登っただろうか。カーブを曲がると、小さなリパリの町が下のほうにさらに小さく、まるで小さな城下町のように海辺にまぶしく輝いていた。エオリアの風が静かに地中海を騒がせる。波が細かく音を立てる。真赤なサムライは島の高台で停まった。

そこには、ぽつんと一軒、青い海に映えるギリシャの建物に似た白い壁の飾りも何もない小さな教会。青い海と白い壁、たったそれだけなのになんという美しさだろう。都会の教会の豪華絢爛な装飾もすばらしいけれど、この小さな素朴な美しさにはかなわない。

「いつの日にか僕が結婚する時には、この教会で結婚式を挙げようと決めているんだよ。どう、すばらしいだろう?」

「うん」

コクン、と私はうなずいて、それからまたふたりは真赤なサムライに乗り込むと、ガタガタと島の道なき道を登り、そこからは先は歩いて乾いた砂埃を巻き上げながら岩や石のゴロゴロとした坂を崖っぷちめがけて、どんどん降りてゆく。すると突然、力つよい風が顔面に向かって前方からぶわぁーっと吹きつけ、髪もシャツもまるでスカイ・ダイビング。まるでエオリアの風に乗って大空をパタパタと浮遊しているかのように、全身が後方へと飛ばされるように泳いだ。そしてその次の瞬間には、一面の視界がぱーっと広いオレンジ色に染まる地中海に向かって開け、断崖絶壁、目の前に現れたのは、まさに今、燃え尽きる寸前の線香花火のように「ぽとんっ」と地中海に落ちそうな太陽。

そしてそんな太陽を背にした、いくつもの島々の、ぽつん、ぽつん、と黒い影。足元の遥か下から響き伝わる岩に砕けた強く激しい波の音。紺色から紫へとグラデーションが変化する空模様に、サーッと音もなく流れる黄金色の雲。それはそれは、まるで神か天使が息を吹きかけたかのように。フランチェスコとふたり、この壮大なる自然を前にして、崖のふちに座り込む。海の彼方に落ちてゆく朱色の夕日に吸い寄せられるかのように、ただただ、パノラマにそのシーンを見つめるふたりになにも言葉はいらない。そして、ついにここでふたりは手を取り、ロマンチックにクリスマス休暇のリパリの島で、長年の思いを込めて愛の告白か。彼、フランチェスコは、今まさに水平線に落ちんとする燃える線香花火をまっすぐに見つめながら、こう切り出した。

「チカ、どうしても君にこの美しい夕日を見せたかったんだよ・・・」

ほら、クリスチャンの彼にとってとても大切な行事のクリスマスに家族へ紹介をして、しかも結婚式の教会も、そしてとっておきの夕日を見せたい女性に恋心を抱いていないなどとはロマンチシズムに反する。でもね、フランチェスコ、「God」とジーザスをすっかり信じきっているあなたと、そうでない私が教会で永遠の愛を誓い夫婦となることなどはありえない・・・。ああ、これぞイタリア男とニッポン女の禁断の愛!なんて、私は密かにロマンチックな恋愛映画のヒロインよろしく、ちょっとふらりと酔ってみる。

「僕はずっと子供のころから、この美しい自然を見て育ったんだ。いいかい、チカ。僕にはこれほどにもすばらしい夕日が、ちっぽけな人間の産物とは到底思えないんだよ。それをはるかに超えたものだ。この島や海、太陽、空、人、そして地球上のすべてはね、たった一人、そう、僕が誰よりも愛する・・・」

ああ・・・!ついにその瞬間はやって来たのか。

「・・・そう、僕が誰よりも愛する、あの偉大なる「God」にしか創れないんだ!」

ああ・・・!そう、現実とは、そんなものです。彼の愛の告白は、目の前に座っている私にではなく、きっとどこかでこの一部始終を見ているのであろうそのお方、「God」にだった。

「僕は本当にそう思うんだ。この宇宙と自然とは人の力で創られたものじゃないってね。そして何て言ったって、「God」だけは絶対に僕を裏切らない。愛する人たちはみな、いつかはこの世を、そして僕たちのもとを去ってゆくだろう?でもね、「God」だけは一生、どんな時でもいつも僕の心と共にいるんだよ!彼の愛は限りないんだよ!そして僕の「God」に対する愛もまた無限なんだ。カピーッシュ?!」

やはり異邦人の私をロマンチックなイタリア恋愛映画のヒロインにしてくれるほど、人生も「God」も甘くはなかったらしい。フランチェスコのいたって真剣な、しかし私にではなく「God」に対する真剣な愛の告白を聞いて、私は迂闊にも納得してしまったのだった。フランチェスコがこうも頑なに「God」という存在とその無限の力を信じているそのわけを。でもそれが、どこそこの教会のお偉い神父様がこう仰ったからなどという盲目的なものではなく、目も前の息を呑むほどに美しいこの自然が自ずと彼に教えたこと、という意味においてなのだけど。そこには言葉では表現不可能な壮大なる美しさの調合と、それを成しとげた目には見えない誰かのパワーが確かにあった。

「・・・カピーシュッ」

そして一月のはじめのある朝、まだ眠りから醒めずひっそりと静まり返る美しい神の産物であるリパリの島から、もぎたてのレモンをポケットに入れると、私はまたひとり小さな港からシシリアのメシーナの港に向けて船に乗った。エオリアの風が星の散りばめられた夜の幕をふーっと一吹きすると、空は柔らかな橙色に染まりはじめた。

それからまた何年かが過ぎ、フランチェスコはボローニャ大学を卒業して今では若手弁護士となった。そう、シシリア島とリパリ島のマフィアの結びつきは濃く、なんとフランチェスコの母君は前リパリ市長というツワモノだったため、シシリアから送られて来る秘密生活者たちにも一目置かれている。そんなフランチェスコ一家に弁護士は必需品というわけ、カピーシュッ?そしてそのフランチェスコが、ロマンチックにイタリア娘さんと結婚することになった。もちろん「God」もジーザスをも信じる娘さんと。ふたりの結婚式は「未来の僕の結婚式は絶対ここでなんだ」と、うれしそうにあの日私を連れて行ってくれた島のあの小さな白い教会で盛大に挙げられ、残念ながら私はスケジュールがうまく調整できずに、エルサレムからの電話での祝いとなった。

もう一度、あの壮大なるエオリアの空と海と夕日を見にゆくチャンスだったかなと少し後悔。この次にリパリの島を訪れる時には「God」にではなく、私に愛の告白してくれそうな人を連れてゆこう。そうだ、どこかのオーソドックス・ユダヤの男性でも連れて行ってみようか。それでもルカとフランチェスコはあの冗談をいうのだろうか。

エルサレムとリパリ島を繋いだ受話器の向こうで、忙しそうに興奮したフランチェスコの声が聞こえる。これから結婚のパーティーがはじまる。心からのおめでとうを告げながら、この10年の間のフランチェスコと私の会話は、いつものお決まりの台詞で終わる。

「結婚式は来られなかったんだから、“絶対に今年の夏はリパリにおいでよ!カピーシュッ?”」

「“カピーシュッ!”きっと8月のリパリで会いましょう!」

Wednesday, July 21, 2004

遠い祖国 far away home

ある国の独立記念パーティにひょんな理由で顔を出すことになった。パーティの行われるヘルツェリア・ピトゥアという町はイスラエルのビバリーヒルズか神戸の芦屋か。エルサレムのどこを探しても決して出逢うことのないモダンな白亜の豪邸や各国の大使官邸が静かな地中海に向かって建ち並び、とても中東の小国とは思えないリッチな町並み。

太陽がちょうど地中海を真っ赤に染めて沈んでいく「7時30分よりレセプション」と先日送られてきた招待状には記されていたので、それに間に合うように宗教色の濃いエルサレムでは着られないようなノースリーブのドレスで、ちょっとだけおめかしをして、太陽が少しだけ西に傾きかけた6時頃にエルサレムを出た。

エルサレムから地中海へと西に向かって10分ほど高速を走ると、車の窓に映る景色は驚くほどに、途端にヨーロッパかどこかの長閑な田園風へと変ってゆく。エルサレムのカラカラに乾いた砂漠の空気も地中海独特の湿気を含んだ熱くベタベタした風となってすでに車内に舞い込み、首のまわりにじっとりと絡まりはじめて、思わず急いで窓を閉めてエアコンのスイッチを入れた。

カーッと焼けるような西日が海岸沿いの左の窓から車内に差し込み、ヘルツェリア・ピトゥアの海沿いのホテルに着いたのはちょうど7時。夕焼けがほど好い具合に穏やかな色に海を染め出した頃。ホテルの駐車場に車を停めると、久しぶりに眺める目の前に広がる海と潮の香り。パーティがはじまるまでまだ少し時間があった。すーっと少し軽く海風を一つ吸い込んで、そのまま崖下のビーチへと降りて行くことに。

ゆるい坂道のペーブメントをビーチに向かって下って歩いてゆくと、ちょうど一日の終わりを海で過ごし、濡れたままの水着でペーブメントをゆっくりと上ってくる楽しそうな子供づれの家族たちとすれちがう。もう一度、今度は思いっきり海風を深呼吸してみると、なんだか体も心も生き返ったような心地よさ。そしてほんのりとピンクに染まったビーチの砂の上には、夕日に照らされた裸の小さな子供たちが大人の世界とは無関係にキャッキャッとうれしそうに走り回る。日中の熱い太陽で温められたほっこりと母の胎内の羊水ような海に包まれるように浮かぶ人々。夕日と波の輝きの合間に見え隠れするカヤックの上の黄金の人影。

ああ、地中海の町での生活とはこんなに穏やかで平和なものなのだと、たった一時間ほどしか離れていないのに、こんなにも遠い遠いエルサレムの息の詰まりそうな緊張した日常が、まるで異国のことのようにさえ思えはじめてくる。



朱色のメノウのような夕日はまだ波の上にかろうじて浮かんでいる。海風もまだ少しだけ、地中海のムッとした熱さを含みながら。ビーチのオープンカフェでは数人の若い女性客が夕日に照らされながら、イスラエル人特有の全身を使った身ぶりの大きな楽しそうなおしゃべりがはずんでいる。そんなまったく何の変哲もない日常の光景が、いかにもエルサレムの日々とは全く無関係で、どこか・・・そう、映画にでも出てくるような安穏とした非現実的な世界がそこには広がってる。

もうホテルへ行こうかな。それともこの映画の中に飛び込んで、カフェの白い椅子に座ってミントの効いたアイスティーでも飲んで行こうか。そう思いながら手にしている蒼い絹の中国刺繍のバッグの中の時計をチラッと覗くと、ちょうど7時半をまわったところだった。さあ、どうしようか。少し迷っていると、ちょうどこのカフェの上が今夜のパーティ会場のテラスらしく、あの国の民俗音楽団の演奏が静かに波音の合間に流れてきた。それでは映画出演はまたこの次の機会にと、ペーブメントをホテルのエントランスへと歩いてゆくと、一挙にエルサレムの現実に引き戻されたかのようにグレーの警備服に腰には銃を下げたタフそうな三人のイスラエル人がそこに立っていた。

 「Shalom! Where are you going?」

そのうちの髪の長いいかにも中東らしいパッチリとした、薄い茶色の大きな瞳の若く女性が独特のヘブライ語訛りの「エー」という音が耳に残る英語で尋ねてきた。

「ホエアー エーユー ゴーイング?」

彼女の後ろには、上質の珈琲豆のように艶々と輝く肌のエチオピア男性が金属探知機を片手に構え、しかしニコニコとして私の答えを待っている。イスラエルではエチオピアの人々とごくごく日常的に出逢うのだが、彼らはいつもとても優しくて、どこか草食動物のようにゆっくりとおだやかで、しかも女性は小さな整った艶のある顔立ちに、カリッと引き締まった見事なS字の身体のラインが丹精に作られた芸術品のように本当にため息が出るほど美しい。

 「Shalom, Shalom!」

中国刺繍のバッグをちょっと開け、招待状を取り出すふりをすると、

 「Ok. I see! You can go in, have a great time!」

「have “a” great time!」と言った”a” がやっぱり「エー」と聞こえて、大きな瞳はニッコリ笑ってそう言うと、彼女の後ろに立つ三人目がドアを押して開けてくれた。

パーティ会場の入り口には、遠目にもイスラエル人風ではない、背がすかんと高く日に焼けた数人の男性が、これまたイスラエルでは珍しくヨーロッパ風にスーツにネクタイをビシッと着こんで立っているのが目に飛び込んできた。「あ、どうしよう。何か言わなきゃいけないのかな?」と思うまもなく

 「ヘェッピー・ホリデー!」

おかげですっかり「エ」のうつった発音で、にっこりとほほ笑んで、一人ずつとしっかり握手をし、地中海に面したテラスへと。あまりにも気さくな紳士たちだったのですぐにはピンと来なかったのだけど、どうやらこの男性陣は今夜のパーティのホストであるX国の大使たちのようだった。ホテルのテラスには手入れの行き届いたグリーンの芝生がエルサレムのガタガタの石畳になじんだ足には絨毯のようにふかふかと心地よかった。

一筋の白い光が水平線の彼方から放たれて、太陽は海の向こうへと消え去った。空からは深い紫色のヴェールが降り、風は西の彼方から海の上をなでながら心地よい冷たさを含みはじめた。テラスが少しずつ賑やかになりはじめたとき。華やかな楽団の演奏がそれまでとは打って変わって、聴き慣れないX国の牧歌的な国歌を静かに奏ではじめた。それにあわせてゲストも皆立ち上がって、静かにその穏やかなメロディーを聴いている。そしてX国の国歌に続いて、なんとも悲しげなメロディーが流れた。イスラエルの国歌である「ハ・ティクヴァ(希望)」が、ビーチからの波音と重なって強くあたりを震わせ、ちらほらとホテル上階の客室のベランダから耳をすませている人影も見える。

 「われらの胸にユダヤの魂が脈打つ限り
 東に向かう
 シオンに向かい未来を望み見る限り
 二千年の希望は
 われらが自由の身となって
 祖国シオンとエルサレムの地へと
 われらが自由の身となって
 祖国シオンとエルサレムの地へと」

演奏が「祖国シオンとエルサレムの地へと」へ差し掛かったとき、芝生のテラスのあちらこちらから胸に秘めた思いを募らせた声が海風に乗って波のように重なり合って。そして歌の最後には心からの拍手が沸き起こった。イスラエルに来てから、もう数え切れないほど耳にした「希望」という名の「ハ・ティグヴァ」というこの歌。いつどこでであっても、この歌の終いには人々の思いが込められた音となって胸が詰まる。なぜこれほどまでにこの歌はユダヤの民だけではなく、こうもいろいろな人々の心に響くのだろう。ユダヤの人々の何千年という西へ東への流浪の日々を支えてきた一つの希望。いつの日にか、必ずや故郷のエルサレムの地へ、と。現在のエルサレムのあり方、そして戦後のイスラエルの建国のされ方に問題がなかった、またはないとは必ずしも言い切れないが、それでも何世紀という長い長い時間を他と交あうことなく異郷で生きつづけ、そして幾度となくその土地から追われ、これほどまでにこの四国よりも小さな故郷への帰還を夢みていた人々の思いに何が言えようか。この土地に帰りたくても帰れずに、しかし心から安心して定住する場所もなくヨーロッパを追われつづけたユダヤの人々。そしてほんの半世紀前まではこの土地に暮らし、そして追われ、いま再びこの土地に帰ることを夢に見るアラブの人々。卵が先か鶏か、これほどまでにもだかった糸を一つ一つほどくのは、今となっては現実的には難しいこと。しかしこの土地が、その名は何であれ、悲しく泣いているその現実。この土地にかかわる人々は政治と平和という名ばかりの正義の犠牲となり、多くの人々が傷つき、しかしそれでも日々は坦々と流れる。このハ・ティグヴァ、そう、「希望」という歌を聴きながら、何とも複雑な気持ちで夜の白い地中海の柔らかな波頭を見つめていた。

それからの夜はシャンペンやイスラエルの北部で採れるぶどうのワイン、おいしい地中海のディナーパーティと、ゆっくりと華やかさを増していった。民族音楽団の奏でる演奏も軽やかで楽しく、窮屈な靴なんて脱ぎすてて裸足でやわらかな芝生の上を心地よく歩きまわっていると、中東の日に焼けた大きな鼻の、なんとも気さくで人懐っこい田舎の大将のようなX国の大使を交えて、というよりも彼を筆頭にしてみなX国のフォークダンスをクルクルとオルゴールの上の人形のように踊りだした。そして時計の針も深夜に近づき、ちょっとほろ酔いの大使やもうすっかりへべれけに酔って真っ赤になっているX国の民族衣装の楽団員たち。シンデレラはまた砂漠の街エルサレムへと帰らなければ。でも靴は一足テラスに残しておくとしよう。どうも今夜は楽しい時間をありがとう。

エルサレムまで帰るX国出身の知人たちと一緒に駐車場の車へと夜の海風に吹かれ、帰路の車中、すっかり心地よい気分の彼らがポロポロと語ったこと。今夜のパーティの招待客の多くがX国から職も地位も投げ打って、中には家族とも離れて、この国へ移住してきてもう何十年という。そんな彼らは久しぶりに会った気心の知れる人たちとのお国言葉での会話がはずみ、楽しい和やかな時間が過ぎて、今夜は本当に楽しかったけれど、その分、こころがとても痛いんだのだと。もしこれが映画であったならば、「何でもやって見せるぞ!」と長い長いあいだあれほどまでに夢見たこの祖国の土を踏み、ゼロからの再出発の夢と希望のハッピーエンドというところでも、現実にはそこからの続きがある。先祖から伝えられた夢の祖国にいる事実と、ここに来るために去ったもうひとつの、おそらくふたたび帰ることはないであろう生まれ育った遠くのあの祖国。家族や自分の住んでいた家は、海は、学校は、友は、父や母、は元気だろうか。そしてあの美しい人はどうしているのだろう。みなすっかり変ってしまったのだろうか、それとも記憶の中とおなじくあの時のまま、そこにあるのだろうか。ダンスを踊りながら懐かしんだ祖国の思い出は美しく、そして美しいがゆえに忘れられずに張り裂けんばかりのこころが痛む。それと同時にここにこうしていられることの喜び。そんな思いが皆のこころにあった海辺のホテルの夜。それでも車が砂漠のエルサレムの街に近づくにつれ、彼らはどこかほっとしたような、そう、まるで温かい我が家に帰るような穏やかな表情に帰る。そしてまた日は暮れてまた昇り、いつものエルサレムでの日常がはじまって。エルサレムというこの街は、彼らのような多くの人の悲しみとよろこび、そして希望という思いがぎっしりと詰まった街。たくさんの悲しい涙を抱えた幸せの街。そしてそこに生きる私もまた、ひとつぶの砂のようにこの街の一部になりつつあるのだろうか。

Thursday, July 15, 2004

17歳の夏

17歳の夏、はじめて日本という島の外へ旅をした。
それはシルクロードの入り口のゴビ砂漠、オアシスの町、敦煌を目指して。

高校3年になってすぐのある晩のこと。夕飯が終わってから一服していた父は突然、「この夏に中国に行くけれども、お前は中国なんて興味ないよなあ。」と、冗談交じりに笑いながら私に向かって言った。それを聞いてなにを思ったのか私は、即座に、「行くっ!」と、ひとつ返事。「えっ?」と、ビックリしながらも、冗談にしろ誘った手前連れて行かねばならぬのか、と頭を掻く困ったようなうれしいような父の表情がなんだかおかしくて、こうして母も兄も抜きの、私と父とのあの夏の旅が一瞬にして決まってしまったのだった。

他のクラスメイトは受験勉強に追われていたあの夏休み、のんき坊主な私は受験勉強もそっちのけに父と大阪の伊丹空港を出発して、何日かかけて北京から蘭州へと北上した。紫禁城の壮大さにぶったまげ、楊貴妃の庭でちょっとその気になって遊び、はじめて見るコーヒー牛乳色した黄河で乗ったフェリーの舵を執らせてもらう。行けども行けども続く、雪をかぶった天山山脈の果てしない荒野。時折思い出したように現れる狼煙台。砂漠を満天の星の下、ガタガタとオンボロバスに揺られて、やっとたどり着いた敦煌の町。時計を見れば真夜中過ぎの午前二時。器をひっくり返したようにあたり一面180℃に、天の川がどこにあるのかさえわからないほどの無数の星たちが煌めいて、憧れのシルクロードの入り口までやっと到着した旅の疲れと感動で、もうそれだけで胸がいっぱいになり、夜空と星の他には何も見えなかった。 
 
次の日には朝早くに、まさに『月の砂漠』のイメージで、鳴砂山という砂山へ向けて駱駝に揺られトコトコトコトコと。初めて揺られた駱駝の背中は、想像していたよりも骨ばってゴツゴツとして、質の悪い絨毯の上に座っているような。駱駝が一歩踏み出すたびにけっこうおしりが痛くて、ポロシャツにタオルを首に巻きつけた父は、私の後の駱駝の上から「あいたたたぁ」。

朝日の光と影の織り成す線が、とても芸術的で美しい鳴砂山は、小さな三日月の形をした、鏡のように透き通った月牙泉という、砂漠にあっても一度たりとも枯れた事のない泉のそばに、砂丘のように静かに私たちを待っていた。父と二人、ゴツゴツした駱駝の背中から開放され、サラサラの砂の上を頂上に向かって歩き出すと、一歩一歩、きゅっ、きゅっ、と音がする。この音は砂が夜に間に降りてきた霜を含み、靴に踏まれてきゅっ、きゅっ、と鳴く様な音を出すので、鳴砂山と言うのだそうだ。やっと登りつめた鳴砂山の頂上で、父はおもむろにリュックの中からなにやら中国語のラベルのついたボトルと、旅の途中で手に入れた深緑色の薄い石で作られたグラスを二つ取り出し、紹興酒を注いで乾杯!私はこんな父に出逢うたびに、あの映画のインディアナ・ジョーンズを思い出し、なんだかおかしくなってしまう。
 
それからしばらくの敦煌の滞在では、仏教史博士の父の旅の目的地であった莫高窟(ばっこうくつ)の壁画へと足を運ぶのに忙しく、窟内で父は一生懸命にメモを取り、いろいろと壁に描かれている絵の意味や物語などを説明をしてくれたのだが、私はただその美しい天女のような姿が描かれた壁画に見とれるばかりで、その他の事は何がなんだかさっぱりわからずに、旅に出る前にもっとちゃんと勉強しておけばよかったと、少し後悔したのを憶えている。

そして敦煌での最後の夜は、どうしてもあの夜空をもう一度だけ心に留めたくて、翌日の旅の準備を終えてから、ひとり星降り注ぐ空の元へと。夏の砂漠の夜空の遠く向こう、星が途切れたところが地平線。両手を広げても、息を吸っても吐いても、前も後も右も左も、星、星、星。ひとり、星明りの下、地面にぺったりと座り込み、敦煌の夜風に月の砂漠を口ずさむ。     
 
それから帰国して月日が流れ、敦煌熱もすっかり冷めかけた、高校を卒業した頃にはもうかなりの近眼になってしまった私の目は、眼鏡をかけても、コンタクトレンズを入れたところでも、もうあの夏の夜空の星たちのひとつひとつをはっきりと認識できるほどの視力は持ち合わせなかった。あの17歳の夏に見た、敦煌のあの煌めく夜空がその最後となってしまった。

Friday, July 09, 2004

「あっぷする~と」は相変わらずに。

またまた登場の「あっぷする~と・シャワルマ」、奥の間には相変わらずイェシバの学生達がテレビに見入っているし、前回マーク氏が作ったカウンターのおかげで、一人でも気軽に入りやすい店内の雰囲気となって、お客さんは大入り。うんうん良かったね、マーク氏。とキッチンに目をやると、あら、なんと、あなたはハッサンではないか!

そう、このハッサン、彼は「謎」のトルコ人。
トルコのとある町からなぜかイスラエルに出稼ぎに来て早数年が経ち、最初のころはイスラエルでもアラブの町のほうで働いていたのが、パレスチナとトルコの歴史的理由が原因であまりいい待遇を受けなかったらしい。そこでいつの間にかマーク氏の『あっぷする~と』マジックにかかってここの一員に。でもあのハリルが来る前にハッサンはどこかへ消えてしまったのが、なんと、今夜はごくごく普通に、いつものようにまたちゃんとキッチンにいるではないか。

「ハッサーン!久しぶり!まだイスラエルにいたの?」

そう尋ねると、ふきんを持ったままの手で相変わらずスポーツ刈りの頭をなでながら、彼は恥ずかしそうにはにかんで、掃除用のスプレーを左手ににぎっている。彼はどこでも・なんでも・いつでも掃除魔なのだ!あっという間にテーブルからお皿を下げてシュッシュッとスプレー、サササッとふきん。店内はおかげでいつもよりはるかにピカピカ。

「えっ?市民権を得たからもう大丈夫?ずっとここにいられるの?」

ななななんと、謎のトルコ人ハッサンはいつの間にかちゃっかりとイスラエルの市民権を得て、市民としてのIDまで持っていて、一週間前に『あっぷする~と』に帰ってきたらしい。うーん、消えている間にどうやらこれをどこかで手に入れてきたのね。

それからしばらくすると、ハリルがいなくなってからハッサンが帰ってくるまでここで働いていた、エルサレムの旧市街に住むアラブの男性が残りのお給料を貰いにやってきて、私を見るなり「探してたんだよ」と言う。ん?なんだろう、と思っていると、彼はいま旧市街で家族と一緒にレストランをやっているので、『あっぷする~と』と同じように店内にメニューの写真を貼りたいから、それをお願いしたいという。ちょっとどう返事をしようかと、横で話を聞いていたくるくる目のマーク氏をチラッと見ると「いいんでないの?」っといつものノンキ顔をしている。「それじゃ、まあ、とりあえず、そのうち行きますわ。」というと、来週には必ず来て欲しいと八の字眉毛にして泣き出しそうな顔をするので、断るに断れず、じゃあ、いついつの午後の三時あたりに行くということでOKしてもらった。

あらららら。正直、ちょっと困りましたなあ。というのも、イスラエル国内でもアラブの町の物価はユダヤの街の物価よりもうーんっと安く、おまけに彼らの写真代というものの相場がわからないし、わかったらきっと私はこの仕事は断ってしまうような気がするので、やってもいいと思うのならば聞かないほうがいい。でも現像代がやっと出るだけのというのは、ちと困る。それともうひとつの困ったなあは、彼らアラブの好むスタイルは目茶目茶派手なのだ。ニッポンのトラック野郎の赤や黄色や紫の電飾ピカピカでド演歌のあの感じ、といえばピッタリくるような、そんな派手さはまさにアラブのお気に入り。そういう人たちが良いねーという写真ってなんだろう?困ったなあ・・・。とりあえず、来週、旧市街に行ってみます。

「ね、ところで、この前の魚は?」
と、マーク氏、思いだしたように聞く。
「えっ?この前来た時にグリルしてくれたお魚?おいしかったよ!今日もあるの?」
と、ワタシ、ニコニコと答える。
「ハローハロー、誰かいますかねぇ?」
と、マーク氏、私の頭をつ、つ、く。
「ん?・・・・あっ!・・・忘れてた!来週もって来るわ!!」

そうです、すっかり忘れておりました。前回マーク氏に頼まれた新しいメニューの魚のグリルの写真を。撮影した後に食べたんだよねー、あのお魚さん。いやはや、あのお魚、おいしかったのでちゃんと食べたことだけは憶えておりました。と、いつもの『あっぷする~と』の夜はふけてゆく。

Tuesday, June 22, 2004

夢のはじまり・・・

夢のはじまりに私は山にいた、
そう、冬のスイスあたりの雪山に。

あたり一面は吹雪で、
なにも見えない。
ただひたすら登っていく。

私の前後に数人の男が、
吹雪の中を進んでゆく影。
どうも私はこのパーティーの一員らしい。

吹雪はほっぺたに鋭く容赦なく刺さり、
もう痛さも感じない。
足元は膝までの雪の中を一歩一歩、進む。

突然、
目の前に大きなロッジが現れた。
二階建ての立派な丸太作りの。

男たちはどこへ行ってしまったのか、
ひとりロッジの入り口に立つ。
雪のせいではない異様な寒気に震えた。

入ってはいけない。

それでも私は玄関を開け、
そして階段を駆け足で一気に上がる。
ひとつ ひとつ 部屋のドアを開けた。

ガランとなにもない部屋。

ほっとして胸をなでおろし、
また階段を、
でも今度は駆け下りた。
あの地下へと。

そう、ここから私の寒気はやってくる。

ただ ひとつだけのドア。
ただ ひとつだけの部屋。

思い切ってドアを開けた。

・・・あっ!

早く逃げなければ!
早くここから出なければ!
手遅れになる前に・・・!

駆け下りてきた階段を必死で駆け上り、
玄関のドアを開け、
雪が頬を刺す。

再び開くことがないように、
ドアを強くバンッと閉めた。

今もまだ吹雪いて止まぬ雪。
体が凍え始める。
ドア二モタレナガラ。

「どこへも逃げはできないよ」

はっ、として、

隣に男がいつの間にかニヤリと
不気味にほほ笑んだ。
ああ、もう終わりだ。

絶望的な真っ白な雪の中、
ふと手を見た。

見慣れない赤い指輪が溶け出し、
私は溺れそうになる。
そして、雪は静かに止んだ。

Monday, June 21, 2004

夢の女・・・

真っ赤なルビーの指輪が溶けて
一面が血の海のように

夢の中で思った
どうしてこの血の指輪を?

そう思ってはずした指輪には
文字が刻まれていて

どうやら人の名前のようだった

小さなヨーロッパの文字が
どうやらE...とS...とB...らしい

どうやら女性の名前のようだった

知らないはずのその名前
なぜか懐かしくじっと見つめてみたら

すぅーっと
目の前に古い一枚の写真

水色のカシミアのセーターに
おそろいのカーデガン
幸せそうに
椅子に座ってほほ笑む彼女

そう、
これは彼女の指輪だ

どうしてこれが私の指に?
じっと見つめた指輪

はっ、とした

そう、
これは私の指輪
彼女は私

Sunday, June 20, 2004

夢をみた・・・

あれは確か’96年あたりの京都で。
夏だったのか、はたまた冬だったのか、「京都の家の部屋で」ということ以外には何も現実的なことは憶えていない。

はっと目が覚めると、右手が心臓をぐーっと押し付けていた。
心臓の上の右手はギプスででも固定されたように動かない。
左手に力を込めてもう片方の手をつかむと、やっと心臓は自由になった。
汗をびっしょりかいて、荒い息をしている自分に気がついた。

夢。

真っ赤な石のはめ込まれた指輪
どうも古いもののようで
じっとその指輪と中指を見つめる

なぜ?
どうしてこの指輪が私の指に

真っ赤なルビーは膨らんで
どんどん どんどん 溶け出した

目の前の
視界一面が不気味な真っ赤な海となって
溺れそうになった

ウワーッと思わず叫んで
目が覚めたら
心臓の上がやたらと重かった

Wednesday, May 19, 2004

それぞれのleft luggage- time warp to antwerp

イザベラ・ロッセリーニとハシディズム、とアントワープ。

ベルギーで二番目の大きな街、歴史ある古い動物園、喉を潤おすヴベルギービール。船はどこへと旅立つのだろうか、ヨーロッパでも有数の大きな港。そして世界的なダイヤモンド街もあり、思いのほかユダヤの人々とアントワープの歴史は長い。

13世紀にはすでに中央ヨーロッパのユダヤの人々がアントワープに移住し、15世紀にはマラノ・ジューと呼ばれるポルトガルやスペインから迫害され流浪して来たユダヤの人々がこの街の住人となった。そして、ロシア遠征で冬将軍に破れたナポレオン皇帝の19世紀に入ると、この街のユダヤの家庭はなんとたったの38家となった。そしてポグロム(ユダヤの人に対する弾圧と虐殺)と後のヒトラーによるユダヤ迫害と、いわゆるヨーロッパでのユダヤの迫害と離散の歴史を繰り返しながら、こんにちのアントワープには2万人ほどのユダヤの人々が腰を下ろし、欧州でも有数のハシディックの街となった。

映画の舞台は1970年代のアントワープ。頑なな伝統的なハシディックの一家と、もはや宗教など滑稽とも古ぼけたとも思われる世俗のアントワープに生きる若いユダヤ人の娘、ハヤ。イザベラ・ロッセリーニの演じるアントワープのハシディック一家、カルマン家の保守的な妻は、髪は夫以外には見せず常にスカーフにくるみ隠し、肌も人目にさらさぬようにと季節を問わずロングスカートに長袖のシャツにタイツを着、服の色も黒やグレーと人目を引くものは避けて口数も少ない。もちろん話す言葉はユダヤの言葉、イディッシュ語だ。夫は黒い服に黒い帽子、そしてひげの口は妻以外の女性には開きはしない。安息日には、安息日のために清楚に正装した妻が祈りを捧げてロウソクを灯し、忙しい日常のしがらみを解き放ち神と向き合いながら時を過ごす。字も書かなければ電気のスイッチさえもふれずに、その日の料理はきちんとすべて準備されて調っている。そしてそんな世界とは何かの偶然ですら出会うことのない、アントワープの世俗のユダヤ家庭に生まれ育ったいまどきの娘ハヤ。繁々と美容院に通い髪を整えケーキを焼くことだけに生きがいを感じている母と、戦時中にどこかの町角に埋めたらしい古ぼけた二つの鞄捜しに没頭している父をハヤは理解できず、彼女には滑稽にすら映る両親の持つユダヤというアイディンティティを受け入れることができなかった。

そんなハヤはひょんなことからカルマン家の子供たちのベビーシッターをすることになる。ハヤ自身がユダヤでありながらも、足を踏み入れたこともないアントワープのハシディック世界。そこにはハヤの知らない、なにか少し影のある世界が広がっていた。

オーソドックス・ユダヤの世界ではロングスカートにタイツをはいていない女性はとてつもなくハレンチだった。ハヤは何も知らずにいつもの服装、そう、ズボン姿でカルマン家のドアをノックすると、カルマン家の妻はよそよそしく「世俗」のハヤを迎え入れた。初めてオーソドックス・ユダヤの家庭を知るハヤ。家の主人は、ユダヤの戒律を厳しく子供たちに教え、彼は4歳になってもまだ話すことのできない末息子のシムハにいらだちを隠せずに、優しい言葉の一つも掛けることはなく、家の中には絶えず緊張した空気が流れていた。そんな冷血な父としてのカルマンをハヤは理解できずにいたが、当然妻でもない女性とは口を利かないカルマン氏にハヤは成すすべもなかった。しかしある日、ハヤはカルマン氏の悲しい過去を知る。カルマン氏の書斎にそっとおかれた一枚の写真。シムハにそっくりの小さな男の子と少年だった頃のカルマン氏。それは幼くしてホロコーストで亡くなった、シムハに生き写しのカルマン氏の大切な小さな弟だった。そして終戦後、ホロコーストを一人生きのびたカルマン氏は、神と共にかたくななに生きることが小さな弟の死を意味づける道と、世俗の世界とはかかわりを持たずにこのハシディックの街で生きてきたのだ。しかしそれでも助けられなかったことを悔やんでも悔やみきれない弟に生き写しの末息子のシムハ。彼への想いは複雑だった。

しかし徐々にシムハはハヤと心を通わせ、ついに言葉を話しはじめた。世俗のハヤをユダヤの異端児のように見ていたカルマン夫人もやがて彼女を受け入れ、ハヤを交えてようやく幸せな笑顔がこぼれ出したカルマン家。ハヤはカルマン家とのふれあいによって、それまで知らなかったユダヤの生きかたに少しずつユダヤとしての自身を見つけてゆく。しかしユダヤの幸せと不幸は紙一重。不慮の事故がおきる。ハヤを慕い、ハヤに愛することへ目を開かせたシムハの突然の死。幸せの兆しが見えはじめたカルマン家はふたたび悲しみのどん底へと突き落とされ、ハヤは愛というものは喜びだけではなくこれほどまでの悲しみにも変るのだと、はじめて両親の過去を知り、そしてユダヤというアイディンティティをしっかりと受けとめる。

ハヤの両親は、多くのユダヤの人々と同じように、死の収容所から生還したのち、ハヤの母は何もなかったかのようにマティリアルな世界に住むことで、愛する人たちとの絶えがたい死と別離の過去を忘れようとして生きてきた。そして父は彼の一家がナチに追われたときに、持てるだけのすべてをその二つの鞄にぎゅっと詰め込んだ。しかし右往左往と逃げまどううちに、いのちと引きかえにその鞄はどこかの街角に埋めなければならなかったのだ。そして何もかもを失って送りこまれた収容所での光りの見えない日々。仲間の死、家族の死。人としてのアイデンティティーと尊厳の剥奪。そしてそこからの解放。それ以来ハヤの父は、あのとき失ってしまった古ぼけた鞄を気が狂ったように探し続ける。ハヤの父が決してあきらめることのできないあの鞄。あの鞄の中には彼があのとき失ってしまった過去と、そして何よりもあのとき失った彼自身が入っているのだから。

半世紀も前に戦争が終わり、不自由のあまり感じられない豊かな現代になっても、あの時生き延びたユダヤの人々にとってホロコーストはいまだ終わらず、誰かがどこかで今でも失ったその鞄を探し続けている。

Thursday, April 15, 2004

soupの記憶  -ずっと昔に・・・

春。

 今年の過ぎ越しの祭りは、爽やかな春のアドリア海の海風に吹かれてみよう。中東のエルサレムから、東西の文化クロス・ロードのイスタンブールの空を越えて、クロアチアの片隅へと旅をした。南クロアチア、古代ローマ皇帝ディオクレティアヌス(245~313年)の宮殿の壁に包まれた、世界遺産の街スプリット。エルサレムの旧市街に似た迷路のような石畳の街にも、いくつものユダヤのストーリーがある。

「ヤセノヴァッツ(Jasenovac)」

 その名をはじめて耳にしたのは、数年前にスプリットでヨシュアにはじめて会ったときだった。そのとき、少しはにかみながら、まだ彼が若かったころの遠い記憶を語ってくれたヨシュアには、安息日やユダヤの祭りになると欠かさずに訪れる場所がある。

 宮殿跡の街の、小さなセファラディー系ユダヤのコミュニティ。春も近いころ、過ぎ越しの祭りの準備がはじまり、食卓に上がるマツァが用意された。そこで私は、今年はひとつ嗜好を変えて、ユダヤ料理の中でも過ぎ越しの祭りらしく、マツァボール・スープをこしらえてはどうかと、行動的な世話役のナーデに持ちかけてみた。

 「いいじゃない! えっ、そうよねえ、毎年同じなんて芸がないわよね。マツァボール・スープねえ。えっ、おいしそうじゃない!」

 スプリットふうに「えっ」とところどころに交えると、気軽にOK サイン。「それじゃあ、そうしましょう」と、祭りの二日目の夜、このコミュニティに集うユダヤの大家族に、スープを振舞うこととなった。祭りの二日目の午後。港から宮殿跡の迷路のような石畳の道を、くねくねと右へ左へと曲がり、まるで秘密のアジトと云わんばかりのユダヤのコミュニティへと。入り口のドアのベルを鳴らす。

 リリリリリー、リリリリリー、ジーッ、ガチャッ。

 秘密アジトのドアのロックが解除される。するり、とドアへ体を滑らせれば、シャローム、シャローム!ヨーロッパの片隅で、ユダヤな風貌の笑顔がこぼれる。事務室のナーデとウインクを交わし、さあマツァボール・スープに取りかかろう。エルサレムから持参したカシェル印の秘密兵器、マツァの粉にユダヤのお袋の味。インスタントのチキンスープの素。

 ジーッ、ガチャッ。
 シャローム!

 ジーッ、ガチャッ。
 シャローム!シャローム!

 祭りの夕食の時間が近づいて、三十人ほどのユダヤ大家族が集まった。テーブルの中央には板状のクラッカーのようなマツァ。白髭のラビがワインとマツァを手にすると、みんな珍しそうにその祈りに耳を傾ける。祈りが終わり、いよいよマツァをパリン、バリン、むしゃむしゃ。そこで、この大家族のナーデママさん、「えっ、あんたはいいから座ってなさい!」と、ピチピチのジーンズに押し込めたグラマラスな体で、スープを運んできた。

 「うわー、これなに?」

 見慣れぬ団子スープに、ざわざわざわざわ、声のさざ波。

 「団子だよこれ! なに? マツァの団子だって?!」
 「えっ? スープの中にマツァの団子?!」

はじめて見る団子のスープに、なんだかんだと言いながらも、お代わりを求める声も。スープの鍋はあっという間に空っぽに。やはり日本人の魂には、何と言ってもだしの風味と味噌汁がすーっと沁みるように、ユダヤの遺伝子には、マツァボールとチキンスープが組み込まれているのだろうか。みながスープを食べ終えたころ、ぎょろ目の中年男ゴランはとても嬉しそう。

 「ぶっちゃけた話、おれはスープなんて嫌いだね。男の食いもんじゃあねーや。しっかし今夜のはあ、うまかったよ。えっ。お代わりもしたしね。初めて食べたよ、マツァボール・スープってのを。ふーん」
 「あら、ゴラン! 珍しいこともあるものねえ。スープなんて女の食べ物だ、肉じゃなきゃ食べ物じゃないってのが、あんたの口癖なのにねえ。えっ、だったら今度は、野菜サラダでも食べてみる?」

 ゴランと同じ世代のナーデが、いつものように彼をからかう。

 「サラダだあ? まったくその辺のロバじゃあるめえしよっ!やなこったねえ。えっ。そんなもん食ったって、血にも肉にもならねえや! やっぱりバルカンの男は肉だよ肉! えっ、それ以外は食いもんじゃあねえ。ナーデよ、スープの次は本格的に肉で食事といこうか!」

 あっはっはっは! 相変わらずだねえ、とみんなの笑顔がこぼれる中、ヨシュアと彼と同じ世代の黒いスーツの婦人は、静かにゆっくりとスープをすすっていた。若き日のこのご婦人は、ドイツとイタリアを相手に祖国ユーゴスラヴィアの解放へと戦う、勇敢なパルティザンの戦士だったのだそう。この古えの勇士にも、今はもうこのアジトのほかには家族はない。ヨシュアは少し涼しげに、青い目を細めてほほ笑む。

 「ねえ、おまえさん。僕が最後にこれを食べたのは、サラエヴォの家でだったなあ。そう、ずっとずっと昔、僕がまだほんの子供のころにね……」

 まだ世界が平和だった頃、故郷のサラエヴォで家族とともに過ごした子供時代。戦争の影もなく、幸せだったその時代の思い出。それから長い長い時を越えて、ふたたびその記憶にふれたヨシュア。

 ホロコーストにおける、最も人の道に反した絶滅収容所のひとつ、ヤセノヴァッツ。クロアチアでも最大の絶滅収容所。十九歳でそのヤセノヴァッツに送られるまで、サラエヴォの床屋で働いていたヨシュアは、ユダヤだという理由だけで、それまで家族と住んでいたサラエヴォの街を追われた。強制送還させられたヤセノヴァッツでは、運よくサラエヴォ時代のように床屋の職を与えられ、絶滅収容所のまるで永遠かのように長い四年という時間を生きながらえたという。しかし収容所での生活では栄養も十分に取れず、体重は四十キロほど。背もとても低く、外見はまるで子供のようだった。

 ナチの親衛隊員たちは、他の収容所と同じようなゲームをヤセノヴァッツでも楽しんでいた。その日も、親衛隊員はいつものように、収容されている数人の番号を選び、その人たちを手元へと呼びました。その日、呼ばれた人の中には、小さな床屋のヨシュアの姿もありました。

 「そこに一列に並べ!」

 ひとり、またひとり、確認するように番号が呼ばれ、返事の後には銃声が響きました。そしてついに、ヨシュアの番号が呼ばれてしまいましたが、列のどこからも返事は聞こえてきません。そう、ヨシュアには子供の頃から、少しどもり癖があったのです。じっとしてうつむいたまま心臓が高鳴り、ああ、どうしよう! どうしよう! すると隣に立っていた男が、そっとヨシュアにささやきました。

 「……君の番号だろう?」

 その次の瞬間、ヤセノヴァッツの空を割るようにして銃声が響き、どさりと人が地面に崩れ落ちました。それは番号を呼ばれたヨシュアではなく、「……君の番号だろう?」とヨシュアにささやいた隣の男でした。その親衛隊員にとっては誰でもよかったのです。ただ、その日に摘み取るいのちと、リストに記された抹消数とがぴたりと合えば、番号などどうでもよかったのでした。ヨシュアはどもりおかげで、その時この世に留まることができましたが、代わりに一つのいのちがこの世から去ってゆきました。

 1945年の春。ヨーロッパでの終戦も間近な四月二十二日のこと。ナチはヤセノヴァッツ絶滅収容所を囚人ごと焼き払い、完全に消し去る準備に取りかかりっていました。その一方では、ヨシュアを含む収容者たちは、生きて収容所の門の外へ出られる最後のチャンスを、じっと息を潜めて待ち構えていました。そしてついにチャンスが訪れ、六百とも千二百人とも伝えられている人々は、ありとあらゆる物を、パイプを握り、ハンマーを振りかざし、ドアを蹴破り、柵の向こうを目掛けて走り出しました。この収容者たちの思わぬ反乱に、ひとりたりとも生きてそこから逃さぬよう、容赦なくナチの弾丸が飛びかいます。二十三歳のヨシュアは走って走って、走り抜きました。そして他の人々も同じように、いのちの限り走って走って、走り抜いて。

 弾を逃れ、走り抜いて自由の身となれたのは、最終的にはヨシュアを含むたったの八十人だったと伝えられています。それまでヤセノヴァッツでは、とても多くの人々がどこにも記されることなく、名もなく亡くなってゆきました。今ではもうその確かな数はわかりませんが、1941年の夏から1945年の春までに、たったの四年の間に三十万から七十万という、まだ乳飲み子をも含めたいのちが、道端の雑草のように踏みつけられ、摘み取られてしまいました。彼らが単にセルビアの人であったために、またユダヤの人であったために、そしてロマ(ジプシー)であったがためだけに。そして戦争は終わりを迎え、このヤセノヴァッツはまるで存在しなかったかのように、ずっとその名は闇に葬られてしまいました。今では、ホロコーストの記憶の中でこの名が語られることは、ほとんどありません。



 「どうして僕が助かったのかって?」

 ヨシュアはいたずらっぽくほほ笑んだ。

  「ん、本当にちびでよかったよ。ビュンビュンと、弾はすべて僕の頭上を飛んで行ったんだよねえ。あははははっ」

 二十三歳のヨシュアがヤセノヴァッツを走り抜けてから、すでに半世紀以上の時が流れ、今を生きる私たちには、その記憶の欠片をほんの少しだけ想像してみることしかできない。ヤセノヴァッツで失われた遠い幸せな時代の思い出、そしてユダヤの記憶。マツァボールのスープのお皿を手にしながら、私はちょっぴり不安になった。ヨシュアのあの幸せな思い出は、ひょっとすると、本当は人に知られることなくそっと鞄の奥底にしまっておきたい、辛い記憶なのかもしれない、と。

 過ぎ越しの祭りも終わり、しばらくして、ホロコースト追悼日にスプリットのユダヤ墓地で、またヨシュアに会った。この日も彼はいつもと変わらずにとても元気そうで、いつものように少しはにかんで、パルティザンの女戦士と肩を並べていた。この日墓地に集ったスプリットのユダヤの人々は、過去も現在も変わることなく、喜びも悲しみも分けあっているのだろう。ひとつの大きな家族のように。もはやヨシュアの家族は、遠い記憶の中のサラエヴォの家族だけではなく、今はこのスプリットのユダヤの人々なのかもしれない。そして彼らはこれからも世代が続く限り、みなで過ぎ越しの祭りを祝い、過去を噛みしめ、このアドリア海の美しい街で生きてゆくのだろう。しかし、若い次世代がほとんどいなくなったこの古いコミュニティーも、やがていつか、そう遠くない未来に、失われた記憶となってしまうのかもしれない。

Saturday, April 10, 2004

exodus - エジプトからの出発

ユダヤのニサンの月の15日。春と共に過ぎ越しの祭りがやって来る。

過ぎ越しの祭りがやってくると、ユダヤの家は大忙しさ。まずは、掃除をしなくっちゃいかんだろ。家中、全部、大掃除だよ。まるで日本の師走のようにね。掃除のターゲットはヤツだ、そう、小麦さ!台所の戸棚の中に使いさしの小麦はないかい?パンだって小麦だろ?パンを食べながら読んだ本のページの間に、パンくずは挟まっていないかい?ひょっとするとベットの下にだって飛んで行ってるかも知れんだろう。寝ながらクッキーなんかかじってなかったか?

さあさあ、家の中の小麦はすべて残らず処分しなくっちゃ。いいかい、お前たち、よく聞けよ。祭りの間には小麦は一切口にしちゃいけないよ。ピタパンだってパスタだって、ケーキだってクッキーだってさ。ああ、そうそう、オレはかあちゃんにはこっそり隠してあるウイスキーも飲んじまわなくちゃな。あれだって麦からだろう?まあ、それにしても大掃除ってのはいいもんだ。心の中もついでに掃除しようって気になるだろう?

おや、君の家はもう大掃除は終わったのかい?ああ、そうか、君のところは過ぎ越しの祭りの時だけ使う専用のキッチンがあるんだっけ。いいよなあ。君んとこも、食器もなべもみんな祭り用のだろう?うちだって、台所とまでは行かなくてもそれくらいは買い揃えてあるさ。

もう市場でマツァを買ったのかい?祭りがはじまったらマツァの食べすぎには気をつけなよ、便秘になるぞ。そうだな、祭りのあいだにはマツァでサンドイッチだろ?ゆで卵とレタスとを挟んで、フルーツのペーストと西洋わさびをぬってね。でも、やっぱりオレはかあちゃんの作るマツァ・ボールのスープが一番うまいやって思うがね。透き通った黄金色のチキン・スープの甘い、いい匂い、そこにポンポンと浮かんだマツァの団子。やっぱりこれだねえ。なあ、君んちもかい?


「今夜はどうちがうの?マ・ニシュタナ・ハライラ・ハゼ?」

どこの家庭でも子供たちが、毎年、祭りの晩のテーブルではこう聞くだろう?今夜はいつもの夜とどうちがうの?ってさ。ユダヤの人たちが長いエジプトの奴隷生活から自由になって出発する晩だよって、毎年チビどもに話すけどさ。その後に十戒を授かるまでの話もそろそろ憶えてくれたことだしな、なあ、今年はなんて話そうか。

「アバ、今夜はどうちがうの?マ・ニシュタナ・ハライラ・ハゼ?」

「ねえねえ、アバ、マニシュタナ・ハライラ・ハゼ?おしえて、おしえて!」

おいおい、今夜も相変わらず元気なぼうずたちだな。それはだな、よく聞いて憶えるんだよ。昔、ユダヤの人たちはエジプトで奴隷としてピラミッドを作り、ファラオのもとで暮らしていたってのはもう知ってるよな?そこで、ユダヤの男、モーセは「エジプトを出よう、自由になろう、自分たちの土地へ行こう!」と皆にいったんだけどな、・・・

・・え?なんだって?ハシディックの学校の本では、モーセはあのミンクみたいな毛皮のシュトライマレ帽をかぶってるけど、それは本当かって?

ははーん、お前、隣のヨセレーに聞いたんだな?・・・そうだなあ、あの時代に、暑い暑いエジプトでさ、ヨーロッパってとこの雪国の毛皮のシュトライマレ帽はかぶってなかっただろうよ。モーセはそんなとこから来た人じゃないからなあ。おっと、でもな、これは隣のヨセレーにはいっちゃいかんぞ。彼の家では冗談でもそう信じてるんだったらそのままにしておいておやり。じゃあどうして隣と我が家はちがうのかって?

そりゃ、我が家はアシュケナジーって呼ばれるヨーロッパ系でもハシディック系でもないからな。うちは昔々、スペインから旅をして来たセファラディーと呼ばれるユダヤの人の末裔なんだよ。ヨセレーはアシュケナジー系ユダヤらしく、ヘブライ語のほかにも今でもイディッシュ語を話すだろう?イディッシュ語は今でもアシュケナジー系のユダヤの人たちには受け継がれている言葉なんだよ。そしてセファラディー系の家系では、昔はラディーノ語を話したんだよ。お前たちの爺ちゃんも婆ちゃんも、ラディーノ語をエルサレムで話してたんだよ。でも父さんの世代はもうラディーノ語は話せないけどさ。だから、残念なことにラディーノ語はもうこの世界からは消えてしまうんだよ。

おっと、それでだな、話がちょっとずれたがな。なぜ今夜はちがうのか、だろう?そうだな、モーセが皆にエジプトを出ようといったと話しただろう?でもな、人々は住み慣れたエジプトを去って、いつ終わるともわからない旅に出るなんて嫌だったんだ。また新たな土地で一からはじめるよりも、奴隷でもそれまでの慣れた暮らしのほうがよいのじゃないかと思ったんだ。実はな、あのモーセだって、人々をエジプトから連れ出すなんて自信がなかったんだよ。でもな、神がモーセにいったんだ。心配するな、信じろと。

そりゃあ、そうだろうな。ぼうずよ、人ってのはそんなものさ。楽なほうへとどんどん流れて行っちゃうんだよ。誰がわざわざ苦労するのをわかってて、それでもなにかをやり遂げようなんて思うもんか。多少の嘘はあっても、そこにいるほうがいいんだよ。お前だって、本当にうまくなれるかわからないのにサッカーのつらい練習をするよりも、ただ家でゴロゴロとゲームでもしてるほうが楽だろう?

でもな、よく聞け子供たちよ。父さんは思うんだ。毎年過ぎこしの祭りがやってくるだろ、するとな、オレの今いるところはひょっとするとエジプトなんじゃないかってね。もちろん、ここはエルサレムだよ。イヤイヤ、そうじゃなくてな、たぶん人はな、皆それぞれのエジプトにいるんだよ。もう少しわかりやすく説明してくれって?おお、ごめんよ。そうだなあ、簡単にいえばだなぁ、つまり、それが自分の悪い癖だったり、自分に嘘をついてごまかしていたり、幸せなふりをしていたり、ってな。それに本来しなければならないことをしないで、ズルズルとな。人はそれがまやかしでも、なんとかしてその楽な場所に留まりたいんだよ。ついつい努力せずにそこに甘えてしまうんだなあ。

だから過ぎ越しの祭りが来るとな、父さんは考えるんだよ。今年もここにいてはいけないんだってね。ぼうずよ、自分をごまかすなよ。前に進んでいけよ。例えそれが困難でもずっとそれを信じて生きろ。自分の心に正直であれよ。自分を信じて生きていけば、いつかきっとそれでよかったんだって思えるんだよ。そこには苦労も努力もついてまわるさ。でもな、人はいつまでも怠惰で未来のないエジプトにいてはいけないんだよ。

おっと、なんだか難しくなってしまったなあ。それじゃあ、また来年はエルサレムでな。祭りの晩の終わりにはそう歌うんだっただろう?もう、そろそろお前たちも憶えなくてはね。さ、かあさんや、温かいマツァ・ボールのスープはできてるかい?お前たちもお待ちかねだろう?イマの手伝いをしておくれ。マツァのサンドイッチもいいが、これがなきゃあ過ぎ越しの祭りは越せないぞ!ああ、チキン・スープのいい匂いだ。オレたちユダヤの魂にはやっぱりチキン・スープがぐっとくるねえ。



*アバはヘブライ語で父の意味。
*イマはヘブライ語で母の意味。

Friday, April 02, 2004

tata the cat 男一匹、エルサレムの空の下



ここしばらくのあいだ、我が家の同居猫Tata宛へのメールが何件かあったので、Tataが帰宅した時にでも読んであげようと思っていたのに、近頃のTata君、もうまさに青春時代炸裂。こちらはなんだか高校生の息子を持つ母親のような気分。ほとんど毎朝のように明け方ごろに出かけるようになってからは、日に一、二回ほど、食事に帰って来るだけ。

ゆっくりとご自分のベッドで寝たのは一体いつのことやら。しかも大好きな手羽さきをハグハグと、両手でしっかりと押さえながら口にしていても、とんと心ここにあらず。どうしても外の様子が気になるようで、物の数分であっというまに骨まで噛み砕いてはごちそうさまの顔洗いも毛づくろいもせずに、またまたぴゅーんっと慌てて外へと出かけて行ってしまう。もう毛並みもなにもあったもんじゃない。しかも首の周りはなんだこれ、禿げてますよ、親分さん。それに鼻の頭や額は傷だらけ。Tata君、はっきり言おう、君にはナチュラル・ボーン・ストリート・ファイターの野良猫軍との戦いに勝ち目はない。だって君はあまりにも繊細な哲学者だからね。

と、ここまで書いたところで、誰かが玄関のドアをノックしているではありませんか。おやおや、うわさの哲学猫Tata君ではないか。どうしたの?今しがた出て行ったばっかりじゃないの。えっ?眠くて倒れそうだから帰って来たの?・・・そりゃ、そうでしょうよ。ほら、ちゃんとベッドがあるのだから、そちらでしばらくゆっくりと休んだらどう?あら、もう寝入ってますよ、彼ったら。それではTataが眠っているあいだにこっそりと、今日は彼が我が家にやって来たイキサツ、その秘密を公開することにいたしましょう。

Tataとの出会いはほんの一年半前のこと。彼は成猫にはめずらしく、彼の奥さんと生まれて半年ぐらいの娘ちゃんとの三猫家族で、私が以前住んでいた階段通りのアパートの屋上に置きっぱなしになっていた、古ぼけたベッドのマットレスやクッションのあいだに住んでいました。それまでは、猫って、普通は子猫のころからひとりひとり独立して生きていくものだと思っていたのですが、なぜかこの一家の絆はとても深いようで、いつも一緒にいることが多かったのです。そしてお腹がすけば「にゃ~っ」と、隣近所の親切な家々でごはんを出してもらい、食にも住にもさほど不自由もなさそうで、まるで絵に書いたようなパパとママとかわいい娘の「しあわせ一家」のように見えました。

しかし、この砂漠の街の長く乾いた暑い夏が終わった十二月、夏から冬へといきなり寒い日々が訪れます。雨が降りはじめ、さらには雪でも降りそうな二月のこと。いつものようにTataがひとり旅へと出かける季節が訪れました。Tataは「男には行かねばならぬ時がある。オンナタチヨ、とめてくれるなヨ」と、彼のキャラクターとは程遠い、彼の憧れの仁侠映画のヒーローごとくそう一言残して、バレンタイン・ディを過ぎたあたりを境に、プッツリと姿を消してしまったのです。このエルサレムの寒空の下、Tataは一体ひとりでどこへと旅立ってしまったのでしょうか。

奥猫のジョセフィーナさんと娘猫のムスメちゃんは、男猫のいないひと冬の留守をふたりで守っていましたが、Tataが旅立ってからかれこれ2ヶ月ほどが過ぎ、こちらも他猫の家庭のことながらも彼らのことが心配になりはじめました。そこでTataが帰ってくるまでのあいだ、残されたジョセフィーナとムスメちゃんの栄養管理と心身ケアを我が家ですることにしました。それからしばらく彼女たちと我が家で食事を共にするうちに、お互いに気心も知れはじめ、ジョセフィーナとムスメちゃんの性格も少しずつわかるようになって来ました。

Tataとよく似た毛並みで小柄なジョセフィーナは、いかにも典型的な、ナポレオンの妻と同じ名の通りで猫ナデ声がうまく甘え上手、いわゆる「猫っぽい女」というやつでしょうか。いつもおちょぼ口でツンと澄ましたかなりのべっぴんさんでしたが、ムスメちゃんは決して美猫とはいえず、「ご両親は美男美女猫なのにねえ・・・」と、近所のおばさん猫たちがヒソヒソと陰口もなんのその。かけっこが大好きな元気な女の子で、私としてはその素朴さにかなり好感が持てました。

そうこうしているうちに寒い冬の雨の季節もすぎて、自宅に近いガン・サカーというエルサレムで一番大きな公園では、岩のあいだに溜まった水を吸った淡い桃色のシクラメンが咲きはじめ、砂漠のエルサレムの街にまたみじかい春が訪れました。桜とよく似た白いアーモンドの花の咲く暖かな日々が続いたころ、なんと、Tataの奥猫さんのジョセフィーナは、アパートの屋上に続く外の階段下で、父親のわからない四つ子の赤ちゃんを産んでしまったのでした。まだ瞳も開かない小さな赤ちゃんたち。幸いなことにこの四つ子ちゃんたちは、どこからどう見てもTataの毛並みに瓜ふたつ。

お陰で近所の噂好きなおばさん猫たちは、この四つ子ちゃんのパパはTataだと疑いもせず、幸いにも近所の噂の的になるのは免れられました。それを知っているジョセフィーナもさすがにしたたかで、階段下でなに食わぬ顔で忙しい子育ての日々に追われていました。しかし砂漠の街の夜と朝は霜が降りて冷え込みが激しく、それもまだ春浅い四月のことだったので、かわいそうにもこの四つ子ちゃんは生まれてから一ヵ月とたたないうちに、次々とわずか数週間の短いいのちを終えて、また空に帰って行ってしまいました。

それからしばらたったある日のこと。どこからか、ひょっこりとTataが旅を終えて帰って来たのです。帰宅したTataは汚れてとてもやせ細り、しかも片方の後の足を引きづっていました。心配して「旅路で車にでもぶつけられたの?」と聞いても、なぜだかただじっと考え込むように黙りこんでいるTata。そうなればいくら尋ねても仕方がないので、Tataの大好物の手羽先の炊いたんをお皿に乗せると、少しほっと一息ついた様子でした。しかしそこに、Tataと私の話し声を聞きつけたジョセフィーナが階段下から上がって来たのです。久しぶりのジョセフィーナとの再会で、Tataは嬉しさのあまり彼女に近づいてキスをしようとしたのですが、ジョセフィーナはプイッとあっちを向いて拗ねたシグサ。このあたりがどうも彼女が猫っぽい女といわれる所以なのでしょう。意外なジョセフィーナのその反応に、シュンっと落ち込んだTataの悲しそうな横顔ったら・・・。

「まあ、こんなに長い間家を空けたんだもの、自業自得だね」

なんて、ちょっと冷たく声をかけてもTataったら動きもせずに、じーっとジョセフィーナから目を離さない。そのあんまりにも健気な姿が、少しかわいそうに思えてきたところに「あっ!パパだっ!」と元気いっぱい、遊びから戻ったムスメちゃんも現れて、一応はめでたくTata家一同揃ったかのように思えたのです。でも、実はTataの悲劇はここからはじまったのでした。

事実はこうでした。Tataの留守中、やはり奥猫さんのジョセフィーナは一人がどうもおもしろくなかったらしく、不義の四つ子ちゃんが亡くなってから、そのころからこの近所を徘徊していたどこの誰だかもわからない新参者の若い白猫と知り合って、その彼と頻繁に出かけるようになっていたのでした。ええ、いかにもジョセフィーナな彼女らしい話しだなと思いますけどね。そしてTataの帰宅後しばらくして、Tataの帰宅を知る由もなかった新しいボーイフレンドが塀越しにジョセフィーナを誘いにやって来たのです。「よう!」と、現れたのは、ちょっと軽薄で、なんだか首の辺りにゴールドのネックレスなどがチャラッと似合いそうな、イケイケな若い彼。

「あら、あーさん、待ってたのよ。さっ、行きましょ!」

わざとTataには目もくれず、いつものようにつんと澄まし顔のジョセフィーナ。Tataは不意に現れた見知らぬイケイケ君と連れ立って去りゆくジョセフィーナを、きれいなブルー・グリーンの瞳の視界から消えるまで、じっと見つめて、ひとこと・・・

「・・・にゃーん!!!」

まるで「・・・ジェーン!」と聞こえるかのように、開け放った玄関から家の中にまで、その悲しげな叫びが聞こえてきました。

それから毎日のように、Tataはジョセフィーナが新しいボーイフレンドとウキウキと出かけてゆく姿をその横で眺めては、深いため息をついて玄関先で鬱々としていました。それでもジョセフィーナは、ボーイフレンドがどこかへ行っているあいだには、我が家の玄関のドアのそばに寝そべっているTataの元へと、階段下からイソイソと、でもどこかツンと澄まして訪ねて来るのです。まるで「ボーイフレンドなど単なる遊びよ、本命はあ、な、た、」と、Tataに擦り寄って。

「もう一度やり直そうよ。帰っておいで」

ああ、猫の恋も人と同じく盲目なのね。
Tataはジョセフィーナに言いました。
しかし、そこはさすがにジョセフィーナです。

「いやよ!いやよ!」

と、小さな駄々っ子のようにバタバタドカドカとTataに足蹴りを食らわせて、さらには悪妻の如く夫猫の顔をキーッと引っ掻いてみるのです。その度にTataは「えっ?どうしてなの???」と、私は男って猫も人も変らずに本当にバカなんだなあと思いつつも、さすがにTataのその落ち込みようがかわいそうで、他猫家のことながらも、もうそのころにはジョセフィーナにはそれほど好感を持っていなかったのです。

「ちょっとTataさん、お入いんなさいよ」

ある時、私はTataを家の中に招きました。Tataは気だるくノソノソとリビングのソファーへ向かうと、よいしょっと力なく飛び乗りました。そんないじけているTataの後を追って家の中へ駆け込んできたジョセフィーナは、またまたTataにそっと近寄り、おちょぼ口でTataの隣にしなりと寝転んでみる。なんてことを、いかにもお茶の子さいさい、慣れたふうにやってみせる。それなのに、Tataはなみだ目になりながらも、ジョセフィーナがそばにいることに天にも昇るような笑顔です。

ああ、またしても、猫の恋も人の恋も盲目。

しかし、そこはやっぱりジョセフィーナ。今度こそは心を改めて大人しく夫猫のそばにいるのかと思いきや、なんのなんの。外でジョセフィーナを探しているイケイケのボーイフレンドの呼ぶ声を聞くやいなや、Tataなどはもう無用の夫。踵を返して小走りで出て行ってしまいました。そんなジョセフィーナの後を今度は慌ててTataが追いかけて、玄関先からジョセフィーナとボーイフレンドが肩を寄せあってどこぞへ消えてゆくのを眺めては、再起不能なほどにも落ち込む。そしてまた気だるそうにソファーに寝そべると、いつも物思いにふけっていました。

そんなことのくり返し。まったくジョセフィーナももうその気がないのならはっきりすればいいものを、やはり猫も人もオンナという科は計算高いものなのですねぇ。正直いって私、猫が泣くのってそれまで見たことがありませんでしたが、ほんと、Tataってば、玄関先で涙をつつーっと流して泣いていました。へぇー、猫も悲しけりゃ泣くんだね。かわいそうに。

それで、これはTataは相当重症な失恋の病だなということで、下の階の家でもお食事などを世話になっているジョセフィーナには、しばらく私の家への出入りを控えてほしいと伝え、その代わりにTataに元気になるまで家にいてもらうことにしました。さすがにひとりでいるのは辛かったのでしょう、Tataもその方がいいと、私の家のソファーで寝て過ごす日が多くなりました。しかし、どうもそのころから私はムスメちゃんの様子が気にかかりはじめました。ムスメちゃんはあの不義の四つ子ちゃんの死と、母猫ジョセフィーナの若いちゃらちゃらとしたあの白猫のボーイフレンドがどうも気に入らないらしかったのです。

それまでは幸せだった家庭の崩壊を目の当たりにした多感な時期の少女は「もう、こんなのやってらんないよっ!」と、ちょうど反抗期に差し掛かったことも重なって、ある日のこと、書置きも残さずにプイッと家出してしまったのです。それっきり、今でもムスメちゃんの行方はわかっていません。でも、しっかりものの彼女のことですから、きっとこの街のどこかで、誰かいい猫男さんと新しい幸せな家庭を築いていることでしょう。

そんな経緯で、繊細なTataは心身ともにもう憔悴しきり、すっかり鬱々とした状態が続くうちに、またエルサレムにも暑い暑いカラカラに乾いた長い夏がやって来ました。Tataは全身を夏毛に着替えても、どうも暑いのが苦手なようで、家の中で、しかも私の仕事机の椅子の上で長い昼寝をしては現実逃避をする日々が続きました。眠っている時は楽しい夢を見ているのか、Tataってばなんだか笑っているような寝顔。わざわざ厳しい傷心の現実へと引き戻すのもかわいそうなので、仕方なく私はソファーに移って仕事をしていました。そして30℃を軽く越す日が続いていた8月。それまで住んでいた階段通りのアパートの契約も切れようとしていたので、私は思い切って引っ越すことにしたのです。

引っ越すといってもそこから歩いて3分ほどのところですから、まあ、近所に、ですね。そこで家猫ではないTataを一体どうしたものかと考え迷ったのですが、やはり失恋して落ち込んでいる彼をこのままここにはひとり置いてはゆけないと思ったのです。そして荷物をすっかり運び出した日の夜のこと。「お食事よん!」と、うまく騙くらかして、疑うことなくご飯を食べに私のそばに寄ってきたTataの首根っこをイキナリ掴むキドナップ作戦に出たのです。そして作戦通りにTataの首をすばやく押さえ込むと、さすがに紙袋にちょいと入れてぽーんぽーん、というわけには行きませんので、用意してあったリュックにぽんっと詰めりゃ、にゃんと泣くで、私は新居まで夜道をTata入りのずっしりと重たいリュックを担いでトットコと走ったのです。

こうして、それから今日までTataはうちの息猫子として過ごしています。結局は引越ししたのがよかったのか、今ではすっかりジョセフィーナとの傷も癒えたらしく、毎日近所を元気に飛び回っています。まあ日が薬っていいますからね。でも、うちにいる時の甘えん坊さんの彼が玄関から出て行く時のうすろ姿、おかしくて可愛くて笑っちゃいます。だって、猫なで肩をなぜか無理にいかり肩にして、コワモテの哀愁を装って、まるで「仁義なき戦い」かなにかのテーマ曲でも流して欲しいかのようなうしろ姿。まあ、彼もそんな年頃なのでしょうかね。こんな繊細でお茶目なTataですが、どこかに彼を愛してくれるステキなお猫さんはいませんでしょうか。Tata宛のメールにてご連絡ください。お待ちしています。

Thursday, March 18, 2004

苺くらべ

エルサレムの台所マハネ・イェフダ市場。雲ひとつないきれいなイスラエル・ブルーの空の下、市場の前のアグリッパス通りはいつものように買い物客でにぎわい、銃を肩からかけた警備兵がやる気なさそうに出入り口付近の買い物客のバッグをチェックしている。この一方通行の細い通りではいつも車におかまい無しにみんなあっちこっちと道路を横切るので、車はのろのろ運転で渋滞、しかも一方通行にもかかわらずバックで逆行していく車もいたりして、相変わらずごったがえしている。例の雑貨屋の前を通ると小さなトラックが積荷を下ろしているところで、どれどれっと覗いた荷台にはもちろん、大量のエコノミカが...。そう、もうすぐ春の大掃除がやってくるのだ。

春先とあっていろいろこの季節の旬のものが店先に並んでいる。たくさん並んだ店の真っ赤な苺。よし、今日あたりは買ってみよう。市場をぐるりと一回りして甘そうないちごを探してみると、1キロ*3シェケル(90円あたり)から9シェケルと、値段はかなりばらばらだね。たかが苺に9シェケルなんて払う人がいるのだろうか。しかしこの市場の勝手知ったるは強し、入り口に近ければ近いほど品物の値段が高く、真ん中あたりやあちこちと横道に入るほど安くなる。うろうろと市場内を歩き回り、ちょうど真ん中あたりのこの店の苺、1キロ4シェケルで見た目もけっこう甘そう。よし、これだ! と1キロ、店のお兄さんに頼むと大きなスコップのようなもので、台に乗った苺たちをザーッとすくって透き通ったプラスチックの入れ物に入れてくれた。おお、いかにもプロの手。そして市場の中のもう一本の通りを出口に向かって歩いていくと、おや、ここにもけっこうおいしそうな苺たちがいるではないか。1キロ5シェケルかぁ。ちょっと高かなぁ。でも見た目は今買ったのよりも随分と大きくてきれい。チラッと自分の手元の苺たちと見比べて、思わずまた「1キロちょうだい!」と買ってしまった。ちなみにこの国では、野菜や果物はほとんどみんなキロ単位で買っていく。

アグリッパス通りを車の合間を横切って渡り、家まで10分ほどを歩いて帰ってくると玄関先でTataが待っていた。

「おっ、ひさしぶり!ここしばらくみなかったよねぇ。えっ?晩ご飯なにって?イチゴだよ、イ、チ、ゴ、2パック。そう、2キロもあるから。さっ、どんどんお食べ」

ちょっとからかってみる。いくら野菜好きのTataでも、さすがにフルーツはお口に合わないよう。さっそく買ってきた苺を洗って大きなボールに入れて、さあ味見、味見。まずは4シェケルのほうから。ぱくっ!うーん、小ぶりでまあまあ甘いけど、今日中に食べなければ明日には痛んでいそうな予感。だから所詮は4シェケルなのか。では5シェケルのほうはどうかな。見た目はこっちのほうが大きくて断然きれいだけど、はたしてお味の方は?ん、4シェケルのよりも、もうちょっと甘いかな。それとも1シェケルの差という心理的作用が、こっちの方がほんのちょっと甘いような気にさせられるのか。もう一度食べくらべてみる。いや、やっぱりおんなじだ。あっ、そうか!とここでやっと気がついたのだ。たった1シェケルしかちがわないものを比べたって、はじめっからそんなに差があるわけがないではないか。いやはや、なんて無駄でせこい比べ方をしているのだろう。どうせ比べるのなら4シェケルのと、一番高い9シェケルのを比べたらよかったのだ! そして苺にかけたお金はトータル、9シェケル。だったらはじめからケチらずに、思い切って9シェケルのを1キロ買ってみればよかった...。どうも市場という場所は、庶民をさらにビンボー臭くさせるパワーがあるよう。

さっきからTataは「僕のご飯はまだ?」と、愚か者めと呆れ顔でワタシと大量の苺を見つめ、ああ、どうしよう。こんなにてんこ盛りのたくさんの苺たち。ふむっ、ジャムかな。やっぱり...。


*いちご1キロはだいたい日本のいちごのパック2つ半ほど。

Friday, March 05, 2004

お湯がない

二週間ほど前に雪が降った。にもかかわらず、ここ数日は30度の真夏日が続いている。いくらなんでも3月はじめとしてはちょっと暑すぎるが、久しぶりにバスタブに熱いお湯を張った。そう、「久しぶり」というのにはやっぱりある訳がある。

イスラエルではいまだに都市ガスではなくプロパンを使用し、玄関脇に小さなガスのタンクが置いてある。はじめはいまどきプロパンガスとは!と驚いたが、在イスラエル5年、それにもすっかり慣れました。また、電気使用料はけっこう高く給水タンクのお湯を温めるのには、各家庭の屋根に設置されているソーラーシステムが大活躍。しかし冬場の天気の悪いときなどにはほとんど役に立たないので、そうなると電気式のボイラーで30分から1時間かけて給水タンクのお湯を沸かすことになる。これもまた非常に不便、かつとんでもなく時代遅れな感じで、数年ごとにモダンな日本やニューヨークに行くと、温かいお湯が無限にどんどん出てくるのには驚きと喜びであり、ああ文明ってすばらしい、なんて感動してしまうのである。そして特にお風呂。これはやはり「日本の湯」に勝るものなし!エルサレムでシャワーを浴びようとすれば、自動的に頭の中ではあとどれくらいタンクにお湯が残っているのかを気にしながらになるので、とてもじゃないけど「ほ~っ」とリラックスなどは夢のまた夢。そしてお湯を張ろうものなら、たいていの場合は普通サイズのバスタブにはタンクの水量は少なすぎるので、浅い湯船に子供の水遊びのような感じで座るか、または水を足して満杯にしたけどぬるいので風邪を引くかのどちらかである。

一週間前の火曜日、まだエルサレムが冬だった頃、シャワーをかけていてもなぜかお湯がぜんぜん温たまっていないので、ボイラーが壊れたのかと夕方大家に電話をしたところ、さっそく明日誰かをよこすとの返事。このプロレスラー様な大家さん、返事だけはいつも調子よくすばやい。そして次の日は待てど暮らせども結局は誰も来ず、冷え込む石造りのアパートでキッチンとバスルームのお湯なしの寒い日を過ごした。

そしてその翌日の水曜日、大家にもう一度電話すると「今日はきっと来るはずだから」という返事なのでまたしょうがなく待つ。今思えばこの時点で自分で修理人を呼べばよかったのだが、下手に呼んではこちらが代金を払わされることにもなりうるので、大家に任せることにしていた。そして日が暮れはじめても、誰かが屋上に上がって行った気配はなくまたもやはずれの日、ああ、ため息が漏れる。その夜、またまた今度はちょっと起こり気味で大家に電話すると、実は誰かやって来たらしいが、彼は修理に間に合う道具を持ってなかったとのことで、そのまま未修理で帰ったという。だったら一言言ってほしかったよな。あー、やっぱりこっちで呼べばよかった、と後悔先に立たずでこれでお湯無し生活も「事無く」2日目が過ぎる。このあたりで、だんだんとゾクッとするほど冷えきったキッチンとバスルームに行くのがとってもおっくうになって来る。そして、明日は木曜日・・・。ということは明日直してもらわなければ金・土曜の安息日をはさみ日曜日までの間、まったくの、お、湯、な、し??いや、それはさすがにきついので、なんとしても願わくは明日にはぜひとも直してもらいたいと、抱かなきゃいいのにはかない希望を抱いていた。

そしてお湯なし生活3日目の木曜日。灰色の空の下、お昼過ぎまでストーブのそばでじっと待ってみるけれど、もう、胸の内のいやーな予感はここまでくればまちがいはない。今日もお湯なしなのね、きっと。朝から誰も来ないので午後2時ごろに大家にまた電話をするとこんな返事が。
「あ、昨日の修理人とね、ケンカしたから。代わりの、日曜に送るから。じゃ。」
ああ、だからいやなんです...この国で人に任せるのが。

うううううーん。お湯がない。
うううううーん、と悩んでも嘆いても、やっぱりお湯はない。
シャワーをかけたくてムズムズする。おっ、ここで名案が浮かんだ。そうだ、お湯を沸かそう! さむーいキッチンでふだんパスタをゆでるイチバン大きなお鍋に水を入れ、市場で買った何度擦ろうとしてもボキッと折れるマッチに「うりゃッ!」と脅しをかけると、イッパツで火をつけることに成功。ああ、マッチ売りの少女にならないで。ふふふ、これは先行きよいぞ。そして10分ほどでお湯がちゅんちゅんに沸いてきたっと、あら、しまった!お料理してるんじゃないんだから、こんなに沸騰させてどうする?あわてて火を止め、コンロからおろすも、なぜかあつーい鍋を持ってキッチンをウロウロ。さて、小さな鍋に水を入れてその沸騰したお湯を足し、顔と首を洗う。おー、久しぶりのお湯、きっもっちい~い。でも、ふと、寒いキッチンで鍋にお湯を沸かして顔を洗う自分になぜか、とても貧乏な気分になったのだ。これが旅先のインドなどなら、それはそれで話はまた違うのだが、まさか自宅で、とは思いもよらなかった。

なんだか、エルサレムで気分はとっても四畳半物語。

そして日曜日。春らしい日の午後、やっと修理が終わり、今は夏のような日々。ソーラーシステム大活躍である。ああ、長かったお湯無しの日々よ、さようなら。

Wednesday, February 25, 2004

雪が降ったんだ

久しぶりに我が家に帰ってきたTata。君は春でも冬でも季節なんておかまいなしに、エルサレムの街を走り回っているのだね。自由気ままでいいなあ。

「ねえねえ、なんで最近ボクが家に帰って来てもボクのお皿はいつも空っぽで、しかもボクのベッドにはヘンテコな猫のぬいぐるみなんて置いてあるの?しばらく外泊が続いているからって、こんなぶさいくなぬいぐるみをボクの替わりに置くなんてひどいよね。え?いつだったかそこの通りで小さな天使みたいな女の子から買ったの?ふーん。

ああ、おなかがペコペコなんだけどなあ。きっとなにかおいしいもの用意してくれていると思ってたのに。えっ?こんな時だけはニャーニャーとしか聞こえないなんて、まったく都合のいい耳だよね。あれ、これもしかして昨日の残り物じゃないの?今冷蔵庫から出したでしょ?まあ、それでもいいか、おなかすいてるし。あら、でもけっこういけるよ、これ。

ああ、おいしかった。ごちそさま。さてと、顔もきれいによく洗ってと。あっ、でもまたすぐ出かけるけどね。ちょっとその前にイップクイップク。ついでに昼寝もしちゃおっかな。でもこのぬいぐるみじゃまなんだよねえ。なんかボクのベッド狭いなあ。枕がわりにしちゃおう。よいしょっと。

それでねえ、聞いて聞いて。ここ一ヵ月ほど、ボクとっても忙しくてさ。近所の女の子たちと毎年恒例の追いかけっこやっててね。ほら、年に2回ぐらいあるじゃない。夜も昼もだよ。それでさ、きっともうすぐいつものようにしばらく旅にも出るつもりなんだ。うーんっと、今度もいつものように二ヶ月くらいかな。毎年冬の終わりにそんなに長い間どこに行くのかって?野暮だなあ、教えないよう。でもね、追いかけっこの話だけどさ、彼女たちってとっても駆け引きが上手だからね。ボクはいつも鬼ばっかりさ。うん。この寒空の下、走り回ってライバルを蹴倒してさ、あっちこっち追いかけるのもけっこう大変なんだからね。

でもさ、それにしても今年の冬は過ごしやすいよね。いつものように雨もあんまり降らないしさ。今年はボクの冬毛のコートもちょっと軽めなんだよねえ。ボクには大助かりだけどマルセルがさ、そう、隣の猫(あいつ)。えっ、そうそう猫だよ。いたじゃない前から。それでね、あいつ、今雨が降らなきゃまた一年水不足になるってぼやいてたよ。

あ、そう?へぇ。じゃ今年は水、大丈夫なんだ。ああ、それそれ、覚えてるよ。ほんと、去年の冬は大変だったよね。あの白くて冷たいもの、なんて言ったっけ?えっ?雪って言うの?そう、その雪なんかが空からいっぱい落ちて来てさ。どこもかしこも真っ白で冷たくて。階段通りのココヤシの木の上にも重たそうに乗ってたよね。ひょっとしたらさ、ポキッて折れちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしたよ。だってさ、街中のオリーブの木とか嵐の後みたいにいっぱい折れて道に転がってて。またぐのが大変だったけどね。朝が来てもずっと空が灰色でさ。もうオヒサマが見られないのかってちょっと心配しちゃったんだよ。ボク生まれて初めてだったんだよね。その白い雪ってさ。なんでも50年ぶりの大雪だったって、あの時もマルセルが知ったかぶりして教えてくれたよ。あいつ去年の春に生まれたばかりのくせにさ。

でね、おかしかったよねみんな。学校とか会社とか三日間もお休みになってさ。お店とかも閉まっちゃってて。ボクの苦手なクルマもバスも止まってたっけ。なんだかちょっとお祭りみたいだったよね。人間の大人も子供もみんな大はしゃぎでさ。それにさ、近所のあいつらも大変だったんだって。いつものネグラがびしょびしょになっちゃってね。ゴミ箱の上にも積っちゃってて。へぇ、30センチも積ったの?それって僕のしっぽよりも長いの?

そう、それからその後がまたすごかったよね。雪だっけ?それが水になってどんどん道のうえを走って行って。街中が大きな川みたいになってたよね。そういえばさ、この街って道路に溝がないんだよね。ふつうさ、溝ってあるよね?そこにさねずみとかすんでない?とにかくさ、その水のおかげでボク何日もぜんぜん家に戻ってこれなくなっちゃってさ。憶えてるでしょ?えっ?いやだなー、もう。あいつらと一緒にしないでよー。水なんて平気さぁ。怖かないよ。きれい好きだから冬毛のコートや肉球が濡れちゃうのがいやなの!わかってないなあ、まったく。

さぁてとっ。おしゃべりいっぱいしちゃったね。やっぱりまた遊びに行ってくるわ。うん、昼寝やめたの。さっき追いかけっこの途中で抜けてきたからさぁ。彼女たちが待ってたらわるいしね。じゃ、雨にならないうちに行くよ。ね、玄関のドア、開けてくれる?あ、それとまた後でごはん食べに帰ってくるからね。空っぽは、い・や・だよ。旅の前にしっかりと食べておかなくちゃ。食いだめって言うんだっけ?そうそう、それだよね。じゃ、にゃーね。」

元気いっぱいにTataが出かけた後で、エルサレムの街にもまた雪がひらひら、ひらひら。Tataは今度はどんな話を持って帰ってくるのかな。

Friday, February 20, 2004

だいじょうぶ、猫だから( プリム!プリム!プリム!)

ずっとずっと昔のペルシャの都スサでのお話。アハシュヴェロス王の寵愛を一身に受ける美しい王妃、ユダヤの血を引くエステルとその養父モルデハイと、王宮大臣ハマンのユダヤへの陰謀。ユダヤ暦アダルの月の13日に、大臣ハマンはペルシャの国に住むユダヤの人々をひとり残らず滅ぼそうとしていました。

「この時のためにこそ、あなたは王妃にまで達したのではないか」

モルデハイはエステルの顔を覗き込みます。
 
「それではこれから私は3日間、なにも口にはいたしません。それから王の庭へ参り、私の民であるユダヤの人々を救うようにとお願いいたします。呼ばれてもいないのに王に庭へ参った者に金の笏が差し伸べられなければ、その者はいのちを落としてしまいます。しかしこのために死ななければならないのならば、私は死ぬ覚悟はできています」

スサの都のユダヤの人々にも同じように3日の間はなにも口にせぬように、と王妃エステルは言い伝えました。

庭に出ていた王は、美しい王妃エステルがそちらへと近づいて来るのを見て、こばれそうなほどのほほ笑みで金の笏を差し出したのです。そして王は、エステルが望むままに宴を開かせ、その宴の場でエステルは見事にハマンの企みを暴きました。

こうして王妃エステルによって、ペルシャのユダヤの人々のいのちは救われ、彼らが滅ぼされるはずだったアダルの月の13日に、その計画をした当事者の悪者ハマンを柱に吊るし、翌日から祝いの宴が何日も繰り広げられたのだそう。それからもユダヤの人々はアダールのつきの14日にはプリムの宴を開き、大いに呑んで呑まれて天地が逆さまになる。

2004年のエルサレム。

ピンクに黒ブチでキュートな牛に、上半身裸でハワイア~ンなフラダンサー。裸に手のひらのようなイチジクの葉っぱ一枚のアダム。悪魔に天使、ゲイシャにニンジャ。まだ春一歩手前の夕暮れ、アダルの月の15日のはじまり。エルサレムはアダールの月の14日ではなく、15日にシュシャン・プリムを祝い、この砂漠の街は思い思いの姿の人々で溢れるプリムの祭りで華やぐ。そこで思い切って、異邦人の女も生まれて初めての仮装と行きましょう。

自宅のクローゼットと小物入れをごそごそとひっくり返し、ほっぺたにマジックで髭をぴょんぴょんと描いて頭にスカーフを巻き、動物スリッパーを履いて猫。でも耳がないからやっぱりこれはドラえもんか。仕方がないので異邦人の女は出かける途中、ベン・イェフダ通りの店で耳とシッポを買った。

ベタル・イリットというエルサレム外れの入植地に住む知人であるラビの家まで、プリムの宴へといざゆかん。いつもの真面目な黒服とは打って変わって、すっかり思いのままの仮装に身を包んだイェシヴァの男子生徒諸君。異邦人の女は一体誰が誰なのか面食らってしまう。旧市街のユダヤの町の外れの駐車場で、谷底にへばりついたようなアラブのシルワン村あたりを見下ろしながら、ベタル・イリットへの迎えのミニバスが現れるのを今か今かと首を長くして待っていた。

「ここよー!」

ミニバスの窓から手を振るのは誰だろう?ボサボサ髪を金髪に染めた中年女の運転手が、大阪あたりの肝っ玉かあちゃんよろしく、豪快にミニバスを転がして来たかと思ったら、もうすでに駐車場の係員ともめているではないか。

「じぇーってぇいに、だみぇ!!」

「なんでダメなのよ?5分くらいただで停めさせろってえのよ!セコイわね!」

駐車場の門番、酔っ払いロシア人のおやっさんに、タダで車を停めさせろと肝っ玉かあちゃん。肝っ玉かあちゃんはミニバンの開いている窓から大声で叫んでみるけど、ロシアの赤鼻のおやっさんは、プリムの日に因んでか単なるアルコール中毒か、すでに酔いが回っているらしい。

「だみぇったら、だみぇ~!!」

ロシア語訛りのヘブライ語で酒臭くそう叫んだかと思うとがっくん、真赤な鼻でそのまま机にアタマをうつ伏せた。「何事よー?」と、駆け寄る悪魔やナタを持ったお化け、はたまた天使に変身したイェシヴァの諸君。肝っ玉かあちゃんのミニバンの背後には前へ通り抜けられずにいる他の車がビーッ!ビーッ!ビーッ!しかし、そんな渋滞などおかまいなしに肝っ玉かあちゃんは、「あっほー!あっほー!」とボサボサのアタマのこめかみにクルクルパーをしながら、真っ赤な顔のおやっさんに叫び続ける。

そうこう吉本劇場さながらのドタバタ劇をくり広げている間に、ミニバスに乗る10人全員が集まり、何のことはない、赤鼻の駐車場に入ることなく旧市街を出発となった。「ほんじゃ、行くよー!」肝っ玉かあちゃんの元気よい掛け声と共にベタル・イリットへ向かうミニバス車内では、イェシヴァの諸君も、プリムとあってもうすでにちょっとほろっと酔い加減。愉快愉快、いつも黒い服の彼らにもこんな側面もあったのだな。

ミニバスはエルサレムから一路ヘブロン方面に向けて走りだし、途中のチェックポイントを抜けて昼過ぎにベタル・イリットに着いた。ベタル・イリットの街の辺りは、見渡すかぎりの粗い砂の荒野に点々とオリーブ色の低い茂みで、中東らしく砂漠の風景が続いている。しかし、ベタル・イリットの街の通りにはそんな風景には不釣合いな、一瞬プリムの仮装のような黒いサテンのロング・コート、カフタンにシュトライマレ帽子が溢れかえっている。中東の砂漠に囲まれた街でこのいでたちはどうみても暑すぎて不似合いでも、オーソドックス・ユダヤの人々は決して世俗的な普段着というものを着用することはない。肝っ玉かあちゃんの運転するミニバスは、そんな街の通りを駆け抜けると、ようやくラビの家の前に停まった。

「ほいじゃあね、4時に迎えにくっからね!バハハァーイィ!」

ブルルン!と、鼻息荒く、肝っ玉かあちゃんは、ベタル・イリットを後にしてどこかへ消えて行ってしまった。

「さあ、みんな!今日はプリムだ!ハマンとモルデハイの見分けがつかなくなるまで、思いっきり呑むぞー!呑め、呑め!」

イェシヴァ諸君ご一行の到着を待ちかねていた黒い帽子のラビ。どことなく清楚なカウボーイといったところか。ラビの子供は長男、次男、三男、四男、五男、六男、そして1年前のプリムに生まれた7番目の赤ちゃん。ここまで男児が続けば、もう「次は女の子かも?」など夢見るだけ無駄だよと、みなが思っていた。しかし、ラビは今度こそ必ず待望の女の子だと信じていた。そして、プリムの祭りがはじまると天地がひっくり返って、見事にかわいい金髪の女の子が誕生したのだった。

安息日に祈りを捧げるワイン意外には、日常的に酒類を口にする習慣のあまりないユダヤの人々。お陰で少量のアルコールでも十分に酔ってしまう。男と女は別々に呑んで呑んで踊って呑んで、楽しいプリムの宴。すると、それまで陽気に酔ってイェシヴァの諸君とフォークダンスのように輪になり、数珠繋ぎに肩に手を掛けて踊っていたラビが、突然大声で、誰にとでもなく叫び出した。

「おい、そこの君、この質問に答えろーッ!」

プリムで酔っ払っても、ラビはラビだった。ラビはそう叫ぶと同時にバタンっ!黒い帽子がひらりと宙を舞って、タイルの床の上に倒れたきりピクリとも動かない。イェシヴァの諸君も一体何が起こったのかわからずに、踊りの輪はまるで「ダルマさんが転んだ!」の如くピタリ!と静止した。すると、ラビはひょいっと床から起き上がると、床の帽子を拾い、ぽんと頭に乗せると、また何もなかったかのようにイェシヴァの諸君を手招いて輪を作ると、ひたすら陽気に大きな声で歌いはじめて踊り出す。もう完全無敵、このラビを止められるのはもう天の神以外にはいないのかも。

バタンっ!

またまた黒い帽子はひらりと宙を舞い、ラビが倒れこむ。

しかし、先ほどのようにラビはひょいっとは起き上がらない。皆の笑い声がしーんと静まり返り、少し慌てて床のラビの背中を揺る真っ白な羽根をつけた天使。

「ラビ!ラビ!」

しかし、ラビは何の反応も示さない。すっかり酔いも醒めるほどに、心配な面持ちでモロッコ人の服を着た学生が天使の横からラビの肩をそっと揺すってみる。

「ラビ!ラビ・・・!」

ラビを囲むようにして、皆が見守る。

「ラビ!・・・・あれっ?!ラビ、あっ・・・ね、て、る、・・・!!」

がっはっはっは!静けさを破って大笑いの渦。いつもは厳しいラビの泥酔い姿に、もう皆の笑いは止まらない。カウボーイやらゴム製のハンマーを担いだ「13日に金曜日」のジェイソン君は、動けないほどに酔いつぶれて床の上で寝入ってしまったラビを、まるで神輿のようにワッショイとベッドまで担いで行き、プリムの宴はお開きに。砂漠のベタル・イリットの街からエルサレムの街までは、時間ぴったり4時に肝っ玉かあちゃんがミニバンでのお出迎えと来た。

「よー!イェシヴァの学生諸君、気分はサイコーかーい?イェイ!皆いるね?それじゃ、行くよー!」

「あれ?おばちゃん、髪形がさっきと違うのじゃない?」

異邦人の女。

「ぐふふふっ。あんた、よく見てるわね!空き時間にヘアーサロンに行って来たのよ!どう?美しいだろ?!」

ああ、これもプリムのなせる業か。朝まではボサボサ頭の肝っ玉かあちゃんが、夕暮れにはウフッと色っぽくほほ笑む女優さんか、まさに天地がひっくり返ったか。エルサレムを出た時と同じく、肝っ玉女優かあちゃんのミニバンはエンジン快調、威勢よく走り出した。それから砂漠を半時間ほども走るとエルサレムの街に入り、旧市街の駐車場へとミニバスは向かう。旧市街の入り口のヤッフォ門の前では、テロ防止に不法侵入者の検問をしているようだ。肝っ玉女優かあちゃんはミニバス車内をぐるりと車内を見回すと、「アレー!!!」

「何でよー!何でなのよ、11人いるじゃんか!うちは10人までしか乗せられないのにどうすんのよー!」

若きユダヤ青年がオリーブ色の軍服をまとい、自動小銃を肩から斜めがけにしてミニバスの運転席の窓へと近づいて来た。

「・・・あらっ。若きハンサムな兵士さんよ、シャッロ~ム!シャッロ~ム!どう、今日のアタシ、キマッテナイ?

えっ?何人乗ってるのかって?そりゃあ10人よ、10人!あたり前よん。いつもアタシの車には10人じゃん!いやあねぇ、おっほっほっ」

肝っ玉かあちゃんと顔見知りのその兵士は、少し笑顔を浮かべて窓から頭を突っ込むと車内を見回す。肝っ玉かあちゃんは女優らしく演じてみる。

「えっ?何ですって?11人いる?うっそー。あらやぁだ。これ、ネコよ、ネッコ。ねっ、猫は数に入れないでよぉ。(ほら、鳴きなっ!!と横目で異邦人の女を見る)それとも兵士さん、あんた、プリムだから酔ってんでしょう?えっ!」

ちょうどミニバンの一番前に座っていたどら猫の異邦人の女。もうこうなったら彼女もプリムだから仕方がない。にゃぉー、ゴロゴロ、顔を洗ってもうひとつ、にゃーん。

「・・・しょうがないなあ、プリムだからね。今回は大目に見とくよ」

苦笑いの美しき兵士、プリムでも酔わずにお勤めご苦労さん。

そうして肝っ玉女優かあちゃんのミニバンは10人&どら猫一匹で検問突破。プリムの夕暮れ時のエルサレムの旧市街に、無事帰還いたしました。ボサボサ頭の肝っ玉かあちゃんでも女優のように美しくなれたのならば、来年はどら猫じゃなくて王妃エステルになってみようかと異邦人の女は思ったらしい。来年のプリムには、世界中で本当に天地がひっくり返えるような何かが起こるだろうか?