Wednesday, December 29, 2004

それは手の中にあるもの

七日間のハヌカの祭りも終わり、エルサレムもすっかり寒くなってきて、昼間はそれでも、すかーんと雲ひとつないイスラエル・ブルーな空が広がることもまだ多い。日が暮れてからは星がキラキラと輝き、冷えた夜空が高くとても美しく、どれだけ文明が発達してエルサレムが街らしくなったといっても、やはり中東と呼ばれる土地の、砂漠の真ん中にいることには変わりはないのだなぁと思わずにはいられない。この中東の夜空は日本の夜空とも、ヨーロッパでもニューヨークのボーロパークで見る夜空ともまたちがう。高く遠く透き通り、どこかなぜか人の力を超えたものを感じさせる空、とでもいおうか。この夜空に輝いたハヌカの祭りはユダヤのマカビヤの人々とギリシャ軍との戦いと、そして神の奇跡を忘れないための祭り。

先週の水曜日の晩に見た「Fiddler on the roof―屋根の上のバイオリン弾き」でこんな場面があった。ユダヤ村のミルク屋のテヴィエの長女は、父テヴィエが突然に決めた金持ちの婚約者の他に、誰にも打ち明けずにすでに将来を誓った幼馴染のさえない村の仕立屋がいた。父テヴィエにしてみれば、こんな貧乏でダメ男の仕立屋には同じ村人という以外は一切の関心を持っていなかった。それまではどうしてもテヴィエが恐ろしくまともに彼と口さえも利けなかった仕立屋は長女を他の金持ちの男と婚約させたと聞きつけ、初めてありったけの勇気を振り絞り長女との結婚を認めてほしいと熊のようなテヴィエに訴える。それを聞いたテヴィエはいつもの通りにうるさいハエでも追い払うように、このみじめな男のわたごとには耳を貸さず、しかしそれでも仕立屋は全身の力を込めて彼の想いをテヴィエに伝える。

「こんなちっぽけなさえない仕立て屋だって、し、し、しあわせになる権利はあ、あ、あ、あるんだ!」

「ほー!こんなひ弱なダメ男で、何のとりえもない貧乏な仕立屋のお前でさえも、一丁前の男のような口を聞くことがあるのかね!」

ついにテヴィエも空を見上げて考える。そして結局は仕立屋のありったけのその勇気と熱意を買い、そこまでの想いがあるのならと大切に育ててきた長女との結婚を認めてしまう。

そして場面は森のなか。人生の意外な展開への驚きとうれしさのあまりに歌い踊る仕立屋とテヴィエの長女。

「神は奇跡を起こしたんだ!」

仕立屋は森の木々のあいだを駆け回りながら全身で喜び歌い踊る。

このシーンを見ながら、現在のオーソドックス・ユダヤに見られる問題を思い出した。オーソドックス・ユダヤの世界の多くの住人は、いつの日にか神が使わすこの世を救うメシアの到来を待ち望み、イェシヴァと呼ばれるユダヤの宗教学校で学びながら日々を暮らしている。神の奇跡とは自分たちは何もしなくても神が起こしてくれるもの、人生の決断は神がしてくれるもので自分はそれにただ従えばよい。

神の奇跡、ハヌカではそれを忘れないようにと祝う。はるか昔、ギリシャ軍によって攻め寄せ落とされ大切な神殿を奪われたのち、ギリシャの宗教と異文化を押し付けられたユダヤの人々も、今さらギリシャのような大軍にかなうはずがないがそれでもと、ほんの少数が立ち上がって勝ち目のないギリシャ軍に立ち向かった。その結果としてユダヤの人々は最終的には神殿を取り返し勝利を得たが、取り返した神殿を清めるためのオリーブ油はたったの1日分しかなく、新しいオリーブ油がエルサレムに運び込まれるまでは、それから8日間も待たなくてはならなかったという。リスクを犯さずに8日のちに新しいオリーブ油が届いてから神殿を清めるために火を焚けばよいところを、あえて1日分しかないオリーブ油を焚き、その結果としてその炎は8日目に新しいオリーブ油が到着するまで燃え続けた。ハヌカの奇跡として語り継がれているこの1日分の少量のオリーブ油が8日間も燃え続けたという話は、きっと現実には起らなかったかもしれない。

「Fiddler on the roof」の仕立屋の捨て身の告白。それまでは恐ろしいクマのようなテヴィエ、しかし勇気を振り絞り声を発したことでダメ男の仕立屋が手にした幸せ。じっと座って誰が何かをしてくれるまで待つのではなく、立ち上がり挑戦したことの結果が、ここで言われる神の奇跡なのだろう。

何も行動をしなければ何も起こらない。手に入るものさえも、そのままするりと手から抜けて滑り落ちてしまう。だめでも、それでも懸命に立ち向かったということが大切なのじゃないのかと。できるだけを尽しても、それでだめならばそれはそれでしょうがない。でも何もしないでいては、もっとしょうがない。人生には、大きなこと小さなこと、いろんな場面に出会ってゆく。その時に思い切って立ち上がるか立ち上がらないか、そこで得るものと得られないものが分かれていく。それが大きなものであればあるほど、全身で立ち上がらなければならない。こんなあたりまえのことなのだけど、人はすぐにちょっとすると楽なほうへと流されやすく、いや、それが人というものなのだろう。いったい何が本当に大切かを忘れてしまう。もし神の奇跡というものがあって、それが起るか起らないかはきっと本当は自分たちの手の中にあると、そんなことなのじゃあないかなと思いつつ、今年のハヌカを終えよう。