Friday, May 20, 2005

たぶんイスラエル人きっとイスラエル人  -エディの場合

エディはアラブ・クリスチャンでエルサレムの旧市街出身、「自称」イスラエル国籍保持者。眉毛のつながった思いっきり濃い中東顔のエディの英語は、その泥臭い外見に反して紳士なブリティッシュ訛りの、しかもちょっと身振りがどこかゲイっぽいのがおもしろい。歳のころは20代後半だろうか。

エディは6年間のイギリスでの結婚生活を解約してエルサレムに戻り、今は私がよく足を運ぶ新市街の靴屋さんの店員をしている。ヤッフォ通りのその靴屋で、エディはいつも機嫌よく私の足の相手をしてくれ、いつも履きやすい靴やサンダルを見繕ってくれる。先日は「旧市街のでこぼこ石畳でもへっちゃらで、ちゃんと歩きやすくて、しかも見た目もいい靴!」という難題を吹っかけてみたが、それでもエディはちゃんとイスラエル製の手作りの革靴ブランド・ベネシャイの靴を選んでくれた。少々頑丈そうなその外見が今ひとつ好みじゃないかな?と思いつつも、いざ試し履きしてみるとかなりの履き心地。そのそばで、エディのゲイっぽい「んんん~、似合うわよ~!」のしぐさに絆されて、ついついそのまま、そのベネシャイの革靴を購入してしまう。

おしゃべり大好きでキュートなエディもまた、話し出したらなかなか止まらないエルサレム人。どうも私を含め、エルサレムの住人は話し好きが多いらしい。しかしその日はいつものおしゃべり好きな彼らしくなく珍しく口が重く(といっても普通の人よりもたくさん話すのだけど)浮かない様子。

「あら、どうしたの?」

すると「よくぞ聞いてくれたわ!」と、待ってましたと笑顔になって、エディはいつものキュートなイギリス英語で語りはじめた。かれかこ3年のつき合いになるエディのガール・フレンドのこと。あら、ゲイじゃなかったのね、なんて、ふたりで笑いながら、でもちょっとしゅーんっと落ち込み気味のエディ。エディのガール・フレンドはアジアの片隅フィリピンからエルサレムへと働きに来て数年、しかし何ヶ月か前に彼女の労働許可が切れてしまったらしい。さてさて、一体どうしようか、とモタモタしているところを運悪く不法滞在となって捕まり、先週フィリピンへ強制送還となってしまったという。

エルサレムの街角で、ゆっくりゆっくりとお年寄りに付き添って歩いている介護の若者をよく見かけることがある。しかし同じようにお年寄りと並んで歩いているイスラエル人の若者にはお目にかかったことがなく、通りで見かけるほとんどはフィリピンやタイの若者たち。アメリカなど海外から移住してきたそこそこ裕福な一人暮らしのお年寄りや、家族との同居のお年寄りの介護人として働いている。そんな彼らも、フィリピンやタイの遠いアジアの母国では、学校の教師やエンジニアだったりと教養のある人も多く、肉体派の出稼ぎ労働者という雰囲気はあまりない。

しかし彼らの母国で得られる一ヶ月の給料では到底家族を養えないと、テル・アヴィヴの斡旋業者に30万円ほどもを支払ってイスラエルへと職を求めて来る。そんなフィリピンやタイの若者には、斡旋料30万などという大金を一度で現金払いができるわけもなく、イスラエルでのはじめの3年ほどはその借金を返すことに追われながら、残りの給料のほとんどを母国の家族の元へ送金するのだそうだ。お年寄りの家に住み込むか、または同じ国の人たちと共同で安いアパートを借りて倹約し、妻や夫や子供たち親兄弟と離れた遠いイスラエルで、厳しい条件での彼らの一ヶ月の給料は10万円ぐらいだろうか。

エディの彼女も彼らと同じようにして数年前に斡旋業者を通し、うわさに聞いていたイスラエルという国へと鞄に少しの身の回りの品をつめた。そして先日、何人かでアパートにいるところ、同じようにヴィザの切れたフィリピンの女性の張り込みをしていたイスラエル側によってエディーの彼女の存在もばれてしまい、母国フィリピンへの強制送還となってしまった。エディは、もうイスラエルへは戻ってこられないガール・フレンドをフィリピンまで迎えに行こうか、それともこのまま別れしてしまうのだろうか、とうねりの強い黒く濃い髪の頭を抱え込んでいた。「お金に余裕があるのならば、フィリピンまで行ってみるのもいいかもしれないね」と言ってみて、そこでひとつ、素朴な質問が。エディは「自称」イスラエル国籍ということは・・・?

「イスラエル国籍だと・・・思うんだ。だって僕のママも弟もイスラエル国籍らしいしね。だから、たぶん僕もだと思うんだ・・・でもね、ほら!みて!ちゃんと市民権はあるよ」

そう自身なさそうに、エディーの少し大き目のお尻のジーンズのポケットから、IDカードを取り出した。以前、彼がイギリスへ渡った時には、パスポートではなくトラベル・ドキュメントなる書類だったらしく、いったい自分がどこの国籍保持者なのか100%の確信があるわけではないと、ちょっと戸惑うエディ。イスラエルという国の、エルサレムの旧市街で生まれ育ち市民権も持っているから、おそらく国籍もまたイスラエルなのだろうと、そしてエディはこう強調した。

「でも僕はムスリムじゃない、クリスチャンだ!まぁ・・・アラブには違いないけどさ・・・」

私のアタマはすっかりこんがらがってしまった。たいていの場合、日本で日本人の親から生まれて日本で育てば、自分の国籍は日本だと疑うわけもなし。宗教がナンであろうと書類上は日本人であるはず。しかしエディの話を聞いていると、イスラエルに住む人=イスラエル国籍という簡単な図式すらも、なんだか、ああ、ややこしや。エルサレムの旧市街には、1948年にヨルダンがエルサレムを統治していた時代からのヨルダン国籍を保持しつつも、イスラエル市民権を持つ人々も多い。しかし彼らは決してヨルダン人でもなく、パレスチナ人(プラス、宗教的にはクリスチャンやムスリム)だという。ということは、旧市街出身のエディもイスラエル国籍だと思っているだけで、ひょっとするとヨルダン国籍なのかもしれない。スティングが「I am an English man in New York」と歌い、「巴里のアメリカ人」という映画もあった。ということは「イスラエルのジャパニーズ」もありえるということかな。

一言にイスラエルってなんだろう。イスラエル国籍のユダヤ、アラブ・ムスリム、アラブ・クリスチャン。そしてドゥルーズやベドウィンなど砂漠の民族、なんとややこしいのだろう。そしてこの国では、イスラエルに住むアラブの人同士でも、ムスリムかクリスチャンか、その宗教と文化によって社会的な地位やイメージが異なり、エディーのようにちょっとムキになるほど主張したくなるのもまたこの宗教と民族の坩堝なお国柄なのか。

さて、かたくるしい国籍問題もしかり、果たしてエディはフィリピンに行くのだろうか。彼女はまたイスラエルに戻ってくるのだろうか。彼の恋の行方は砂漠の風に吹かれてどっちへゆくのだろうか。

Monday, May 02, 2005

飛び散った羽根のごとく

こんな話がありました。

あるユダヤの男は、隣人のこれまたユダヤの男といつも知人の噂話や陰口を叩いていました。
ある時、陰口を叩いていた知人について、まったくの思い違いしていたことに男は気がつきました。

男は慌てて町のハシディックの白髭ラビを訪ねてゆくと、その知人に今まで口走った悪口について謝るには一体どうしたらよいか、と尋ねました。

白髭のラビは言いました。

「この羽毛の枕をひとつ持って、これから一緒に市場へ行きましょう」

男は何がなんだかわからずに、しかしラビに言われるままに枕を抱えて、市場へと向かいました。

男はラビに尋ねます。

「さて、ラビよ。仰るとおりに枕を持って市場に来ましたが、それと私の質問とどのような関係があるのでしょうか?」

白髭のラビは男に言います。
 
「まあ聞きなさい。ここでこの枕を破って、中の羽毛をすべて取り出してみなさい」

男はただ言われるままに、枕の中から羽毛のすべてを取り出しました。すると瞬く間に羽毛はふわふわふわふわ、風に乗ってあたり一面に舞い散らばり、あちらへこちらへと飛んで行ってしまいました。

白髭のラビは男に言います。

「では今度は、羽毛をすべて集めて、元のように枕に入れてごらんなさい」

男は答えます。

「ラビよ、それは無理な話でしょう。御覧のとおり、羽毛はもう探しようがないくらいに風に舞って、あっちこっちに散らばってしまいました!」

白髭のラビは男に言います。

「その通りです。そしてそれはあなたのしたことと同じではありませんか?風に舞い、あちこちに散らばった羽毛ももう発してしまった言葉も、いくら謝っても元に戻すことはできないのですよ。あなたは一体何を口にするべきか、発する前によく考えるべきでした」

男は自分のした事の重大さに、頭をうなだれました。

例えそれが良い話であっても、ユダヤでは人の噂話や他人についてあれこれ話すことは、非常に避けなければならないことだと言われます。例えば、イツホックが「シムションはとてもすばらしい男だ」と言います。この「すばらしい男」というほめ言葉は、他の人にシムションを嫉ませたり、シムションと比べられたと感じた人の自信を喪失させることへつながるかもしれません。ひょっとするとこの一言が過大評価となって、シムションに悪い影響を与えるかもしれず、誉めたはずの言葉が思いもよらぬことになるかもしれないのです。

ユダヤの経典タルムードでは、人前で他人を罵ったり貶めたり辱めることはその人を殺すのと同じに値すると言われています。人を殺めた後でどれだけ反省してもその人は生き返りはしません。人前で他人に精神的な苦しみを与えることは、それほど大きな過ちであるのです。言葉の持つ力。風と共に散らばった羽毛と同じように、傷ついた心も、どれだけ謝ってももう元に戻りはしないことを忘れないでおこう。