Wednesday, November 02, 2005

子供時代

神社の参道に並ぶカラフルな出店やコンチキチンの音色、夜祭の灯り。春と秋の祭りが訪れると、各家庭でお赤飯や祭りのご馳走を拵え、子供たちは一張羅で着飾った。祭りの前には、近所の下駄屋で新しい下駄を選び、祖母の見立てらしいとても美しい大きな鮮やかな蝶が染められた着物を着せてもらった。

私の父方の祖母は、大きな家の姫様として育った大正生まれの女性で、今思えば、祖母はとても多彩な人のようだった。今とは時代も異なり、家には住み込みの戦争未亡人の女中さんや、花嫁修業として預かっていた親戚の娘さん、それに御用聞きやらなんやらとお抱えの方がたくさんいたらしい。今ならば「セレブな生活」とでも言うのだろうか。すてきな道具や着物に囲まれ、とても華やかだが、その反面、気疲れすることも多かったようだ。そんな祖母の生活の一部は、小さな私の生活のすべてだった。

当時の実家の茶の間は、ひっきりなしに祖母を訪ねていらした方たちで溢れ、祖母が一人でいるところは見たことがなかった。まだ小学生のチビ助だった私には、茶の間はおじいさんとおばあさんの集まりの場のようで、普通の家庭のように家族の憩いの場ではなかった。時には大きな顔の書道のお偉い先生が、たくさんの方に囲まれた座敷で「いやーっ」と、勢いある筆捌きを披露したり、広間では街の政治家の講演会が開かれたりもした。そして、祖母の遊びは、よそ行きの着物でお供を連れての京都の祇園の歌舞伎見物や、料亭で踊りの披露会。とにかく出かける時は大童で、黒塗りのタクシーが門の前で祖母とご一行を待っていた。そして、普段の日常は踊りやお茶の稽古、俳句と日本画の集まりやその他様々な相談事の相手などと、まったく今では遠い昔の暮し。

内孫で、しかもはじめての女の子とあって、きょうだいや従兄たちの中でも私だけが、いつも祖母の袖の下でそのおこぼれに預かっていた。大正生まれの女性にしては体の大きかった祖母は、その心も大きく、まだ若かった母親とは異なる宇宙的な安心感があったように思う。実家の茶室と座敷の間の一室には、夢路の絵のようにひょろりと柳のような、着物姿のお茶の先生も就寝を共にしていた。私が生まれる前からいらしたようだ。竹田さんというそのお茶の先生の、お弟子さんたちが稽古を終えて帰られた後に、その日の小さな上質の茶菓子をいただくのが、子供の私には何よりもワクワクさせられたのだった。おかげで子供のころから大の和菓子党で、大学生になる頃までケーキやパフェなどは、あまり口にしたことがなかったように覚えている。祖母と竹田さんは、ちびまるこちゃんな私にも、お茶と踊りをと話していたらしいが、母は私にピアノや水泳と現代的なことを習わせたかったようで、あまり乗り気ではなかったらしい。私は踊りとなぎなたにとても惹かれていたのだが、母の反対で結局それはお蔵入りとなってしまった。

そして、10歳の夏休みがはじまってすぐのこと。毎年8月にならねば遊びに来ない東京の従兄たちが、その日の数日前にはもうすでに家にやって来ていた。大人は当然祖母の死期を予期していたのだろう。祖母が60代に入ってすぐに彼女の夫が亡くなると、祖母も心労からあっという間に祖父の後を追って亡くなってしまったのだ。家と家との駆け引きで、ふたりは17歳で祝言を挙げ、祖父が養子に入ったという。お互いに惚れて夫婦となったわけではなかったから、祖父の生前は取り立て夫婦仲の良い間柄でもなかったのにもかかわらず、「おじいさんが呼んでいるから」と、祖母は夫に導かれてこの世を後にした。

しかし、まだ子供の私には何も知らされずに、その晩、深夜も近いころだった。ふと、自室で目が覚めると、なにやら階下でざわざわと忙しそうな気配に階段をトントンと下りてゆくと、誰かに指示を与えている父の声で祖母の死を知った。階段の途中で咄嗟に方向転換をすると自室へ戻り、祖母が亡くなったのは、しばらく見舞いに行かなかった自分のせいだと、布団に顔を押し付けて大泣きをした。その思いは、私が大きくなるまでずっと心のどこかで感じていたように思う。入院してからの祖母の姿はそれまで知っている祖母ではなく、真っ白な病院のベッドと病気の匂いに横たわる姿に、どうしても慣れずに戸惑う自分の姿も、ずっと憶えている。

祖母が亡くなって、がらんとした家の中。夢でもいいからもう一度祖母に逢えたらと、祖母が亡くなってから何度も願ってはみたものの、どうしてか祖母は一度たりとも私を訪ねては来てくれなかった。温かい袖下も失ってからは、お茶菓子を以前のように好きな時に好きなだけ食べられる日々も終わり、私の生活も大きく変わってしまった。表向きには、ひとりの普通の子供となった。祖母の取り巻きの方たちも、そのドンを失くしてがっくりと意気消沈。またひとり、またひとりと、実家に出入りする事もなくなって行った。それでもたまに思い出したように、昭和のはじめのような丸眼鏡をかけた電気屋のおじさんが、寂しそうに訪ねてきたが、年若いぶっきら棒な母ではどうしようもなく、10分もするとまた寂しそうに家の門をくぐって去って行かれた。そして、やがて竹田さんも病を患い、どこかの病院に入ってしまわれ、それきり亡くなってしまわれたようだった。

そんな祖母との生活の思い出の詰まった実家は、15年ほど前に大改築された。その大きな木造建築は、市の取り決めで再び木造にすることは認められず、趣のかけるモダンなコンクリート建築物となった。茶室と朱色の座敷、そして蔵と庭だけは昔のままに残されてはいるものの、子供時代の思い出と、祖母の温もりの名残であった実家の消失によって、私はぽつんとはじき出されたような、取り残されたような、いまだに新しい居場所が見つからず宙ぶらりんの空間を生きてきたような、どこかそんなふうなのだ。そして、祖母にさよならすら言えなかったことが、祖母の死後何十年と過ぎた今でも悔やまれて仕方がない。

今年の春に帰国した際に、神社での春の祭りがもうなくなってしまったのを知った。コンチキチもお赤飯もなく、着飾った子供たちの姿ももういない。庭の桜が咲く頃に、祖母の袖下の子供時代からの特権のように、蔵を引っ掻き回した。どこかの家の窓から三味線の音がゆっくりと響いて、葛篭の中から、たくさんのモノクローム写真に写る女学校時代の祖母が静かに私を見つめた。長い間、誰にも使われることのない茶室の畳を拭き、庭の苔を眺めながら、祖母に尋ねた。時代は代わり、失くしてしまったたくさんのものたちと、あなたの孫娘と心の中の思い出も、やがては中東の砂漠の塵となって散ってゆくのでしょうか。