Wednesday, October 15, 2003

あっぷする~との夜は更けて 

ヤッフォ通りの中東料理のレストラン。オーナーのマーク氏はいつものほほ~んっとアタマが痛い。

「もっと店が流行りそうないいアイデアはないかい?」

異邦人の女に向かってマーク氏の青緑色の目がクルクルっと大きく輝く。異邦人の女いわく突っ込みどころ満載のこのレストラン。真夜中の閉店間際にはすっかり出来上がっちゃっている片手ヴォッカのオーナー兼料理人マーク氏、パレスチナ自治区の小さな町からエルサレムへの抜け道を駆ける若きアラブ従業員のハリルに、どうしてこの砂漠の街に迷い込んだのか謎の掃除夫トルコ人のハッサン。関西系のお笑い芸人かと思わせるようベタベタなノリの常連の顔ぶれもしかり。

この店はエルサレムの目抜き通りヤッフォ通りの突きあたり、エルサレムの旧市街のすぐ近くと立地条件はよろしく、すぐそばにある市役所で働く人たちや旧市街へと流れる観光客も通りすがりの腹ごしらえにひょいっと気軽に立ち寄っていく。それなのに店の中にはこれといった装飾もなければ味もない。あるのは色気も何もないヘブライ語のメニューのみ。エルサレムを彷徨う旅人にはちと心細く、そして何と言ってもあまりにも「男臭い」。

「そうなのよね~ん。ウォーマン・タッチが欠けてるのよねん」

バーのママさん風に冗談っぽく頬に片手を当ててみるマーク氏、うんうん、と一人で納得している。

「だったらどう?テーブルクロスでも掛けてみる?中東のファースト・フードらしくファラフェルやシャワルマの写真をレジカウンターの上に掛けて、そこからもメニューを選べるようにしてみたら?」

異邦人の女は「グッド・アイデアじゃない?」と左手の細長い人差し指をピンと上に向けてみる。

「それがねえ、先日さ、頼んだんだよね、知り合いの写真屋にさ。そしたら出来上がった写真がひどいのなんのって。ホムスが花かなんだかわかんないってありえないだろう?ホムスは豆だよ、豆!ヤツもなんだこれ?って。撮った本人がそういうんじゃあ、話にならないねえ、まったく・・・」

「あー、わかりました。撮り直ししましょう。それからもうひとつ。マーク、前からずっと気になってたんだけどさ、この店って・・・えーっと、名前あるの???」

異邦人の女は何かを探すようにして、人差し指を左右に揺らしてみた。

「おおっ!よくぞ気がついたなあ!それそれ、名前だよ、名前!いや、実はあるんだけどねえ。一応は。でもこの際、名前をつけかえよう!んんんんー?で、なにがいい?」

やっぱりそうだったんや・・・、どこにも書いてないから名前ないのかなあ、と異邦人の女。レストランに名前があってもなくても、マーク氏はいつものように右手にヴォッカで、のほほ~んとしてる。

「ふーん・・・、じゃあさ、どう?アブソルート・シャワルマ!なんてね。あはは、冗談冗談!」

異邦人の女の目の前には、スウェーデン製の透き通った“Absolute Vodka”のボトルが3分の1ほど残っている。いつものマーク氏の眠れぬ夜の友、閉店間際の友。これがなくちゃあ、夜は更けはじめない。

「あっぷする~とり~!名案だ名案だ!それにしようか!」

青緑色のきれいなクルクル目をさらにクルクルさせながらマーク氏、新たなレストランの名前をアブソルート・ヴォッカで乾杯!それにしてもこんな安易に決めちゃっていいのだろうか、しかもちょっとマーク氏の発音がおかしいけれど、まあいいか、と異邦人の女。次の日の午後に赤と白のチェックのテーブル・クロスを何枚か「あっぷする~と」に持って行った。

「・・・あ、だめだめ!そんなのダサいよ!」

いつもはとても無口な抜け道青年ハリルが、異邦人の女が広げたそのチェックのテーブル・クロスを見るなり、キッチンの窓から手を大きく振ってそう笑った。

「どうしてよ?ちょっとイタリアン・カフェみたいでいいんじゃない?客はこういうのが好きだと思ったんだけどなあ。特にヨーロッパからの観光客や巡礼者には馴染みやすいよ」

青年ハリルいわく「アラブの田舎町の安食堂みたいでダサいからだからダメだよ」。ほう、ところ変ればなんとやら、感覚っておもしろい。それを聞いていたマーク氏、「うーん、それはちょっと・・・」と苦虫顔で胸の辺りでいかにもロシアの男っぽい太く金色の毛深い腕を組んでいる。「試しにしばらく使ってみては?」とそれでもなかなか諦めない異邦人の女。マーク氏も腕を組んだまま「それじゃあ、しばらくそうしようか~」と、のほほ~ん。それから異邦人の女はマーク氏の用意した料理にカメラを向けて新しいメニュー用の写真を撮ると、ぺろり、ごちそうさま~。テーブルに並んだ料理をたいらげて、「それじゃ、またね!」と、その夜は「あっぷする~と」を後にした。

それから何日か過ぎての夕暮れ。異邦人の女は、先日写したメニュー用の写真を現像しに、新市街にあるいつも小さな写真屋へ。いかにも中東らしいパッチリとした大きな目に薄くはえあがったおでこのおっちゃんと無駄話をしながら、10分ほどでプリントしあがったばかりの写真を封筒に入れて小脇に抱えると、ヤッフォー通りの「あっぷする~と」へと。

「アハラ~ン!元気かい?」

中東料理店の店主でロシア人のマーク氏、彼の挨拶はいつもアラブ風。もうなんでもごちゃ混ぜときたものです。

「あのテーブル・クロス、いいねえ~。なかなか好評だよ。あれっ?写真もって来てくれたの?うれしいねえ~。そうそう、チカ、隣の店、もう覗いてみた?笑っちゃうだろ~?」

なんだ、ちゃんとテーブル・クロスを使ってるじゃないの、マーク氏。マーク氏は「覗いてみてごらん」と、隣の店先へと異邦人の女の袖を引っぱって行く。

「どうしたの、隣の店?」

ヒョイッと太い首を隣の店先に向けて傾げるマーク氏に続いて、異邦人の女はヤッフォ通りからガラス越しに薄暗い店内を覗いてみる。非常口の電灯と通りから差し込む灯りの下で、「あらら、何これ?改装したの?」異邦人の女は目をパチパチさせる。隣の店に新しく取り付けられたカウンターの位置など、「あっぷする~と」の内装とほとんど同じで、これではまるで隣同士で双子のお店。どっちがどっちだかほとんど変わらない。隣の店の入り口のガラス戸には、お世辞でもあまりおいしそうとは思えない小さなサンドイッチの写真が二、三枚、なんだかとても申し訳なさそうに貼りつけられ、さらには「あっぷする~と」と同じように壁の上のほうにテレビも設置してみたらしい。しかしその真新しいピカピカの黒いテレビが、なんだかなぜだか、いかにもここの店主が卑屈なのかが伝わってくるから不思議なもの。「ま、でもマーク氏のほうがおいしいからテレビなんか関係ないよね」と異邦人の女。すると、うふふ、ともうひとつ、楽しそうにマーク氏の目がクルクル回る。

「ん?他にもなんかあったの?」

マーク氏、またまた異邦人の女の袖を引っぱって、今度は「あっぷする~と」の裏口へと。マーク氏の店のテレビは、ユダヤの宗教学校イェシヴァの男子生徒御用達のケーブル・テレビで、当然マーク氏が正規の手でそれを繋いでいるなんてことはありえない。そっと密かに、どこかから無断で繋いでいるのケーブル線が店の裏口にあるらしい。なんと、隣のオヤジはそれをみごとに嗅ぎつけて、パチン!とペンチで切断してしまったらしい。お陰で「あっぷする~と」のケーブル・テレビは放送を打ち切られ、イスラエル国営放送と民放の2チャンネルしか映さないらしく、うふふっとマーク氏。なんだか楽しんでいるようないないような・・・。すわ、いそがん!と早速テレビを設置した隣の店のオヤジ。まったく、これでは「小学生かい、君たちは!」と異邦人の女が嘆きたくなるほど本当に低次元で、しかしいのちにかかわるような危険な害はないから、まあいいか。マーク氏は相変わらずのほほ~んと構え、でもこれもエルサレムのローカルな個人商店の「サバイバル合戦」の最前線なのかも。

異邦人の女は少し軽い脱力感とともに、もはや隣の店と見分けのつかなくなってしまった「あっぷする~と」に戻ると、なんだか店内がいつもと少し違っているような気配を感じた。あら・・・?カウンターの向こうに無口な料理人、アラブ青年ハリルの姿が見えない。ハリルはお休み?あら・・・?あなたは、・・・・・・・・ハッサン?!またエルサレムに戻ってきたの?!シュッシュッ、サッサッ。ハッサンはどう答えていいのか分からないといったふうにはにかんで、前と変わらずに片手に洗剤スプレー、もう片方には布巾で店中を拭き掃除にいそしんで、「あっぷする~と」としては少々珍しく、なにもかもがピカピカと真新しく輝いている。

「そう、ハッサンに帰ってきてもらったんだよね。実はね、あは~、ハリルね、見つかったんだよ。ついに警察にさ。先日店にやつらが乗り込んできてさ。“誰か”が通報したらしくてねえ、まったく・・・」

ひょいっ、とマーク氏、首を隣の店へと傾けた。

「またハリルがここで無許可で働いているのが見つかったら、次はオレも彼もしばらく塀の中の生活ってわけよんっ。それだけは勘弁こうむりたいねえ」

それでも、のほほ~んっとマーク氏。しかしマーク氏がこのレストランで何年も手塩にかけて一人前に育てたハリル、そのとても真面目な働き手のハリルが連れて行かれて、実はマーク氏もかなり堪えているように異邦人の女の目に映った。イスラエルの北部の港街ハイファからエルサレムへ単身赴任のマーク氏と、パレスチナ自治区からチェックポイントを避けてこっそり裏道を越えてやってくるハリル。店を閉めてマークが家族の待つハイファの街へと帰る週末以外は、店の奥のマークの部屋でハリルとふたりで共同生活をしていた。パレスチナ自治区のアラブの小さな町に住む若いアラブ青年ハリルは、イスラエル国内への労働許可書はなく、毎週、彼の住むその小さな町からイスラエル側のチェックポイントを避けて、横道を通りぬけ、エルサレムの「あっぷする~と」まで出稼ぎにやって来ていた。そんな環境の中でも、いつも無口でテキパキと一生懸命に仕事をこなし、ニッポンの一昔前のオトコは黙ってなんとか、そんな気質のなかなかの好青年だった。お客の少ない時間には、あちら側の生活や価値観、彼の家族のことなどぽつりぽつりと異邦人の女に話してくれていたハリル。これから彼は仕事などなかなか見つからない向こう側でどうやって生活していくのだろうか。

そんなことを思いながら、異邦人の女は封筒の大判の写真を取り出し、革靴のまま椅子に上ってカウンターの上の壁に取り付けていると、もうすでに陽が落ちて暗くなったヤッフォ通りから、見慣れぬ中年の太った女性とハタチほどの娘さんが入って来た。その母らしき女性はどうやら目が不自由らしく、その手をゆっくりと引いている娘さん。

「お手洗いを貸してください」

マーク氏が指した方向へ、母娘は店の奥へと入って行った。そしてハリルの分と二人分働かなくてはならないマーク氏はキッチンの中へ。ハッサンはシュッシュッと、どこかへと消えてしまった。

「じゃ、どうも」

と、すぐに、写真と壁と格闘している異邦人の女にそう言い残して、娘さんの方だけがさっさとひとり、また通りへと去ってゆく。

「はっ?えっ?ちょっとー!」

異邦人の女が聞き返すまもなく、娘さんのうしろ姿はもうどこかへと。同時に「ふんふんふんっ」と、鼻歌を歌いながらキッチンから出てきたマーク氏を、異邦人の女はじっと意味あり気に見つめる。

「んっ?なに?」

クルクル目のマーク氏。

「あー・・・娘さんじゃなかったみたい」

「んっ?何がよ?」

ニコニコとまったく要領を得ない彼。

「うーん。あのおばちゃん、一人でトイレに残されちゃったんじゃないかと・・・」

「っ?」

声になっていないマーク氏の青緑色の目が、店内の空中の一点を見つめる。

「うん、多分ね。だって若い娘さん、もう消えちゃったよ・・・」

二人の間をしばらくヘンテコな沈黙が続く。

「やっぱり、・・・この場合、・・・私よね、様子を見に行くのって・・・」

濃い茶色い目で伝える異邦人の女。

「オ、オレが行くのかいっ?」

青緑の目で聞き返す彼。不思議な言葉のない会話。

「よしっ!」

すると何かを決意したようにマーク氏、店の奥へと消えて行ってしまいました。しばらくして、マーク氏とその女性、めでたく二人は手を引き合って、ゆっくりと店の奥から歩いてくるではないか。さすがマーク氏、やさしい。そして目の不自由なおばちゃんは店の出口までマーク氏の手に引かれてゆくと、ゆっくりとした足取りでまた暗いヤッフォ通りへと消えていってしまった。

その後すぐに、元ニューヨーカーのアタマの薄い中年男なのに万年少年のモシェが、いつものように真っ赤なほっぺたで、息を弾ませサッカーくじを握り締めて駆け込んで来た。マーク氏の兵役時代からの友人で、口だけは達者なタクシー・ドライバーのイェフダも乗り付け、さっさとカウンターの中に入ると、気兼ねなどなく勝手にサラダを白い皿に盛っている。

「おっ?なんだ、この写真。いいじゃないか、うん、いいねえ」

「赤と白のチェック柄のテーブル・クロス?ちょっと趣味じゃあないなあ。もっとこう、そう、お上品なのはなかったのかい?」

「なにがお上品だよ、お前がいうなっての!」

「あっぷする~と」に集まる人たちは、みな家族のように気心が知れて、お陰で店のことには、なにか一言でも二言でも口を挟まなければ、どうにも気がすまないらしい。と、これまたいつものようにイェシヴァから抜け出して来たらしい、黒い服にキパをかぶった学生たちが通りから賑やかに駆け込んで、あれよあれよという間にテレビの前に集まりだした。ケーブル・テレビのチャンネルからではなく、国営チャンネルでのサッカー中継独特のにぎやかな解説と歓声、万年少年モシェはリモコンを握るとボリュームを目いっぱいに上げ、ピタパンにチキンの炭焼きを頬張る。いつもと変わらぬヤッフォ通りのレストランでの夜。ただ、ハリルの姿がないのが少し寂しかった。いつかまた、彼は秘密の抜け道からこちら側へとやって来るのだろうか。