Sunday, June 19, 2005

礼儀はもはや死語か?

某放送局のラジオの生出演も無事に終わった。後で自分の話した箇所を聞いてみると、あら?

放送中のインタヴューの時間が短かったので、自分では出来るだけ早口で話したつもりだった・・・・。そう、「つもり」は結局「つもり」でしかない。聞きなおして見ると、なんとゆっくりと話しているのだろう・・・。そりゃあ、アナウンサーの方も時間を気にして焦ったかも知れない。自分と現実のギャップはなかなか埋まらないような。

ここ最近、メールでの問い合わせが増えた。やはりイスラエルというマイナーな国が珍しいのだろう。でも気になります、メールでのコミュニケーションの仕方。相手が見えないヴァーチャルなメールであっても、向こう側には人がいる。だったら「礼儀」というものは欠かせない。そう思うのは私の頭が古くて固いからなのだろうか。

この放送局に引き続いて、全国にネットワークを持つ某Tテレビ局の番組の出演依頼のメールがきた。担当者の「番組に出させよう」という押しの強いメールと何度かやり取りした後に、どうも番組の趣旨とあわず「いろいろと検討した結果、番組にはあわないと思うのですがどうでしょうか。」と尋ねたところ、それ以来ぷっつりとその担当者からの連絡はなくなった。

なんだそれ?まともに相手にしたこっちが阿呆だったのだろうか。多くの人があわよくばと「人生の5分間の栄華」を求める時代、こちらの「出演のお断り」の態度を高飛車に取ったのかなんだかわからないが、せめて「わかりました。ではまたの機会に」ぐらいの返事の一つくらい出来ないものだろうか。

そして同じように写真の依頼が何件かあった。「死海の水を扱ったコスメの商品化にあたり写真を使わせてもらいたい」というような問いが最近多いのだが、なぜか事後承諾なもの、なんだかよくわからない商業的な使いみちなもの。メールであれば自分にとってよい都合だけで「一方的」でよいのだろうか。と、書いていて思い出したことがある。この春、実家でごろごろと過ごしていた時に、ちょうど不在中の父宛に若い男性から電話があった。受話器を持つ母が電話口で声を荒げる。

「主人はいるんですか?」
「(主人?ご主人でしょう?いる?いらっしゃるでしょう!)・・・どちらさまですか?」
「あー、えっと、XX社のものですが・・・・で、主人はいるんですか?」
「(ムカッ)今、不在ですが」
「じゃ、いつ帰ってくるんですか?」
「あなた、ちょっと態度が悪いですよ!何の御用でしょうか!?」
「えー、いないんならいいですよ。ガチャッ」

なんだろう・・・。XX社と言えばそこそこ名の知れた会社である。こんなまともに敬語も使えなければ礼儀も知らない社員がいていいのだろうか。大方何かのセールスだったのだろうが、それにしてもあんまりである。そしてもちろん、こんな事は日本だけではない。イスラエルでも電話の礼儀の悪さには辟易した事が何度もある。

プルルルー。

「ハロー?」
「あれっ?あんた誰?」
「・・・はっ?(え?なんで?)」
「誰?」
「・・・えっ?あなたそ誰です???」
「ボアズやー。で、あんた誰や?」
「・・・チカ」
「はああ?誰やそれ?」
「(こっちの台詞や!)だから、どこかけてるんですか!?」
「リフカいるぅ?」
「だから、どこかけてるのよっ!?」
「あー・・・(やっとかけ間違えたと気づいたらしい)、そんじゃまあ、いいやっ。ガチャッ」

ななななっ、何がええねん!

日本もイスラエルもこんな人が最近めっきりと多いのである。

Wednesday, June 01, 2005

エステルの言葉

雨季の冬が訪れる12月まで一滴の雨も降らない、乾いた藤色の春のエルサレムの空の下。ひらひらとスカートと遊ぶ砂漠の風は生ぬるく、思わず目、耳、鼻、口、露出している身体の穴すべてを押さえたくなるほどに砂を含んでいる。毎年、雨季が終わって春が訪れる度に異邦人の女の器官は砂で詰まり、呼吸も話すことさえも難しくなってしまう。そうすると、異邦人の女はエゲッドのバスで死海へと何日かの洗浄休暇へ。クレオパトラも浮いたという死海の水、豊富なミネラルに、しっとりとした柔らかな空気。ナツメヤシの林に囲まれ、砂漠と死海を見つめて静かに過ごす。人とよりも自然を相手に自分と対話する方がどうも向いているらしい。

その日の午後のこと。異邦人の女はいつものようにエルサレムの旧市街へ向かう途中、久しぶりにマーク氏のレストラン「あっぷする~と」を訪れると、「あっぷする~と」の店先には、ここ何年もエルサレムの街角からぱったりと姿を消していたエステルが立っているではないか。エステは年のころは40代半ばだろうか。エルサレムの街を徘徊する多く迷い子のひとり、オーソドックス・ユダヤの既婚女性の印として頭をすっかり覆い隠す長いスカーフ、引きずるように裾の汚れたロング・スカートに長袖のシャツ。

言葉をどこかに置き去ってしまったのかエスエルの口は堅く閉じられたまま、彼女の口から言葉を聞いたことはない。エルサレムの街のどこかに彼女の帰る家はあるのだろうか。いつ、どうしてか、オーソドックス・ユダヤの世界から零れ落ちたエステルは、その日、長い棹を持った気だるい門番のごとく「あっぷする~と」のガラスドアの前に無言で静止したままだった。そのエステルの横を通り過ぎて異邦人の女が「あっぷする~と」に入ろうとした瞬間、直立不動のエステルはぎゅっと力強く、異邦人の女の腕を掴んだ。

「入ってはいけないよ」

そう目で異邦人の女に語りかけたかと思うと、またすぐに「・・・行きなさい」と口を開くことなく首をかしげて、つかんだ腕をすっと離した。

「アハラ~ン!なんて久しぶりな友よ!」

「いやー、ほんと、マーク氏、元気?」

「あっぷする~と」はこの門番のおかげでかその日は満員御礼、商売繁盛、よかったではないですかマーク氏、と異邦人の女。「本当に日本で招き猫の置物でも買って来ようかと思ってたんだよ」と同時に、異邦人の女はふいに冷たい視線を感じて、隣に立っていたイカツイ男をちらりと見た。

すうー。

その瞬間、このカラカラのエルサレムで、冷たい汗が異邦人の女の背中を流れるような感覚が走った。イカツイ男も異邦人の女と視線があうと同時に、ハッとサッとその視線を逸らすと、まるで異邦人の女などそこには存在しないかの如く透明人間となり、イカツイ男は何気ない素振りでマーク氏に一言二言はなしかけると、そのボテボテと体を重そうに揺すりながら、「あっぷするーと」を後にした。

「マーク氏、ねえ、今の、・・・・知りあい?」

「うん?ああ、まあね」

「ふーん・・・」

「アイツ、昔、ムスリム、今、ユダヤだよ」

「うん・・・知ってる。よく来るの?」

「うふん、ほらさ、チョッとでもおかしなヤツは、なぜかしらオレんとこに来るんだよね。アイツ、8年ぐらい前から知ってるけど、時々思い出したようにふらりとここに寄るよ。でも、なんでまたヤツのことが気になるのさ?」

「まあ、ちょっとね。実はさ・・・、仲のよかった友達が彼と結婚したんだけど・・・」

「ああ、そりゃあ、その友達の過ちだな、しょうがないじゃん」

異邦人の女の記憶がいくつか前の春のエルサレムにタイム・スリップする。ニューヨークのボーロ・パークからエルサレムへと移り住んだオーソドックス・ユダヤの娘トヴァは、知り合って数ヶ月のヤコブと、あれよあれよという間にフパの下で妻と夫としての契約を結んでしまった。イスラームからユダヤへとトランジションを遂げた男と、生粋ボーロ・パークのアシュケナジー系のオーソドックス・ユダヤの娘の恋は、エルサレムの雲ひとつない青い空の下ではあっという間に噂の的。

ユダヤ家とアラブ家、その両家の争いは「おお、なぜあなたはロミオなの?」どころではなく、これまでに微塵の信用も許されないほど騙し騙され、傷つきあってきた。過去にも、イスラエルで長いあいだ夫婦として生活をともにしていたパレスチナとユダヤの男女、その夫が実は妻の知らないスパイだったりと、シン・ベット(イスラエル国内の諜報部)がユダヤ娘と結婚するアラブ男をマークすることも少なくはないらしい。と、それは嘘か本当かスパイ映画の見すぎか、トヴァの友人たちは彼女の将来を楽観できずに心を痛めた。

「トヴァ、この結婚は止めたほうがいいんじゃないの?それとも、もう少し時間をかけて考えてみたらどう?」

「だからこそ奪ってやるんだ!」

息巻くヤコブ。

トヴァはボーロ・パークという保守的なユダヤの街に育ち、子供の頃から常に「よい子」を演じてきたのだった。幼稚園から一貫してオーソドックス・ユダヤの女子校に通い、季節にかかわることなくタイツとロング・スカート。襟元まできちんとボタンを留めた長袖シャツ。ユダヤの知識を学ぶことが楽しかった。

「きっとトヴァは頭脳明晰なラビと結婚するのね。彼女にはそれがあってるわ」

誰もがそう思い、疑わなかった。そして年頃になると、いくども持ち込まれる誰が誰だか見分けもつかないような見合い話し。トヴァ25歳、そんな型にはめられた「よい娘」を演じることに嫌気がさし、自由な恋愛だってしてみたい。しかしボーロ・パークでは結婚前の若い娘が、婚約者であっても異性と肩を並べて歩くことなどはしたなく、そんな型にはまっただけの人生なんてもうまっぴらだと、まるで未開の土地へ渡りゆく開拓者のような意気込みで大きなリュックを背に、中東の混沌としたエルサレムの街へとJFKから空を越えた。

そして新天地エルサレムで、ユダヤのしきたりにも教えにも興味のない自由奔放な世俗ユダヤの青年たちと出会い、生まれてはじめて恋というものを知り、その甘美に酔いしれた。異性との恋という越えてはいけなかった橋を渡って、スリリングで不可能な恋の相手との関係を重ねていった。そうして気がつけば、異次元の砂漠の街エルサレムでのトヴァの自由な恋の日々は、あっという間に流れ去っていった。ボーロ・パークではハタチを過ぎたら大年増のゆき遅れ、三十路ではすでに5人、6人の子の母。40代ではもう何人もの孫がいる。しかしエルサレムのトヴァは30代に差し掛かっても、子供どころか夫として考えられる相手にすら出逢えずに、まだ結婚へたどり着けない焦りだけがどんどんと先走るようになっていった。

そんな時、運命か、はたまたカミサマのちょっとしたいたずらか居眠りか、トヴァはエルサレムの街角で、ユダヤとなったアラブ男のヤコブと出会った。そう、困難な恋ほど不幸で悲しく、だからメラメラと激しく燃え上がるもの。アラブ・ロミオ&ユダヤ・ジュリエット、いずれふたりは引き裂かれるのならば、いっそその前に手を打とうではないか。娘の思わぬ展開にボーロ・パークで胸を痛めている父に反抗するかのように、トヴァはまるでなにかに取りつかれたかのようにヤコブとの結婚へと急発進した。打ちひしがれながらエルサレムへと駆けつけたトヴァの両親は、もうウェディング・ドレスでフパの下に立つ間際の娘に掛けてやれる喜びの言葉は見つからない。3月の終わりのある夕暮れ。エルサレムの旧市街を望む美しい丘で、オーソドックス・ユダヤのラビの立会いのもと、トヴァはヤコブの妻となった。

そしてトヴァの結婚後すぐに、不幸なことにも彼女の友人たちの不安は的中した。かつらが既婚の印であるアシュケナジー系の母や姉たちとは異なり、今やスファラディ系のユダヤの妻となったトヴァは黒っぽいティホで髪を隠し、エルサレムの街角で友人たちに出会うと、途端に落ち着きのない視線をそらした。まるでボーロ・パークだけではなくエルサレムの彼女の過去のすべてを断ち切らねばならないかのように。

「またあのふたり、通りで言い争いをしていたよ」

「あら、あたしは彼らが通りで人目も憚らずに、激しいキスをしてるのを見たわよ」

「僕が見たのはその両方さ・・・。ベン・イェフダ通りで派手に口喧嘩していると思ったら、仲直りの熱いキス・・・。これまでもボーイフレンドはいたけど、やっぱり彼女はオーソドックス・ユダヤだったし、人前でそんなことをするなんてことはなかっただろ?思わずあのトヴァが?って目を疑ったけどね」

「オレ、トヴァにバスターミナルで偶然に会ってさ。よお!って声かけたらさ、彼女、オレを見るなり驚愕の表情で向こうへ走り去ったんだよね。なんだか怯えた感じでさ」

「あ、あたしも!」

「それにしても激痩せしたよね、トヴァって。何かよくないことでも起きてるんじゃないの?」

そんな心の痛む声を耳にしたトヴァの知人のとあるユダヤの夫妻は、トヴァが結婚する前のように、ある安息日の夜にトヴァとヤコブを友として自宅に招待した。しかし、蝋燭の灯る穏やかな安息日の食卓は、ヤコブのいかにもアラブ男的な自己中心で押しの強い態度と、人目もかまわずにそれに対抗するか、ナンセンスにも同調するトヴァとのギクシャクした緊張感に包まれ、その夜ににがい後味を残しただけとなってしまった。その夫妻は、あまりにも変わり果てたトヴァと、あまりの心地悪さに、二度と彼らを安息日の食卓に招くことはなかった。そして、まわりからは親友と思われていた異邦人の女とも、トヴァは連絡を断つようになった。

「トヴァ?」

「・・・ダレ や?」

異邦人の女がトヴァの携帯に電話をかけると、決まってアラブ語訛りのヘブライ語が答える。

「・・・チカだけど、トヴァいます?」

「イマ いナイ」

「じゃあ、また後でかけなおします」

「イヤ、レんラク は コチカラする!」

「え?ああ、いえ、またかけなおしますから。トヴァと話したいので」

「ダメダ!コッちカラ スる!」

プーッ、プーッ、プーッ。

こうしていくどもヤコブに遮られ、異邦人の女がトヴァと話をすることはほぼ不可能となっていった。そんな日々がすぎたある時、異邦人の女は偶然自宅の近くのベツァレル通りの丘の上で、トヴァとヤコブのふたりを見かけた。

「あら、久しぶりね?」

多少のためらいを感じながらも、以前のように異邦人の女はトヴァに声をかた。しかし、噂に聞いていたように、ふたりはどうやらなにやらいい争いをしているようだった。

「・・・フンッ!」

ヤコブは異邦人の女を無視すると、

「じゃあな、トヴァ・・・」

往来の少なくはないエルサレムの街角で、またもや噂に聞いていたように激しいキスをトヴァから奪うと、ヤコブは丘の下の大通りへと駆けていった。仮にもオーソドックス・ユダヤの家庭に育ち、エルサレムに来てからも安息日や口にするカシェル食品を守っていたトヴァにとって、相手が夫とはいえ人の往来の多い街角での抱擁すらも決して心地よいものではなさそうで、ヤコブの腕に抱かれてのキスはどこかぎこちなさを残していた。でも、それももはや彼女が今でも以前のトヴァならば、ということなのだろうか。

トヴァは黒い服に黒い帽子のユダヤの世界では存在しない、そんな分別のない男の履きちがえた男らしさに憧れ恋をして、妻と夫となった。しかし砂漠の街での現実は、綿菓子に包まれた恋の世界とは異なるもの。異邦人の女には、オドオドと視線の定まらないトヴァがとても痛々しかった。

「それで、あなた、元気なの?」
 
異邦人の女は、横を向いているトヴァを覗き込むと、結婚以前はふくよかだったのがほっそりと痩せた腕でやつれ、鼻の上にはかすり傷、右目の下はうっすらと青痣の残るトヴァがいた。思わず異邦人の女は驚きの表情になると、言葉なくもう一度視線の定まらないトヴァの顔を見つめた。

「・・・転んだだけなの!なんでもないって言ってるじゃない!じゃあ、急ぐから!」

そう吐き捨てると、トヴァは数ヶ月前まであれほど仲のよかった異邦人の女とろくすっぽ目もあわさずに、わざと忙しそうな素振りで走り去ってしまった。夫やボーイフレンドのまちがった行為を隠す典型的な態度とも、しかし本当にうっかりと転んだだけなのかもしれない、と異邦人の女はどうしてよいのかわからずに。トヴァの意固地さを十分に知っているだけ、この状態のトヴァがなににも聞く耳を持たないことはわかっていた。ただいつか、トヴァが盲目の恋から覚めることだけを願いながら、虚しさとともに異邦人の女はベツァレル通りをダウン・タウンへと坂を下っていった。

そしてその翌日、異邦人の女は近所に住む友人Aにぱったりと通りですれちがった。

「ところでどう?オレ、ぜんぜんトヴァから連絡ないんだけど、最近トヴァに会った?」

あんなに親しくしていた彼ともか・・・と、異邦人の女はため息まじり。

「・・・昨日会ったよ。・・・顔にかすり傷や痣があったけど、転んだんだって」

「・・・あっ!ウソだね!ヤコブのヤツめ、トヴァを殴ったな!!」

「それは知らないよ。トヴァは転んだっていってたから」

そのままAと別れた次の日の昼下がりのこと。仕事中の異邦人の女の自宅にプルルルルー、電話が鳴った。

「Hello?」

「ハイ!シャロム!チカ?」

受話器の向こうには聞きなれない男の声、しかし、どうしても隠し切れないアラブ風の訛りのヘブライ語だった。

「そうですけど?」

「アハハ、オレ、ヤコブ。ヤア、ゲンキ?」

「・・・ヤコブ?・・・ああ、元気よ。あなたは?」

まるで仲のよい友かなにかのように彼の弾んだ声に、異邦人の女は困惑した。

「オレ?ゲンキさ、アハハ。チョットまテ、トヴァ に カハル!」 

・・・・なんなんだろうか。

「あたし、トヴァよ」

「あら、トヴァ、どうしたの?!」

「・・・・・」

やっぱりなにかおかしい。

「・・・ちょっと、あんたね・・・」

えっ?なんだろうこのトヴァの口調。

すーっと深呼吸をするような、そんな間が聞こえた。

「ーそう、あんたさ、A から聞いたんだから!ヤコブが私を殴ったなんてAにいったんでしょう!こんなでたらめ言い触らすのやめなさいよねっ!最低よね、あんたって!ひどいじゃないのよっ!!ヤコブはそんなこと、一度だってしたことないんだから!転んだっていったじゃないのっ!!ある事ない事ペラペラといい触らすのやめてよ!!人のことに首突っ込むなってのよ!迷惑なのよ!!!!」

咄嗟のトヴァの噛みつきに、異邦人の女は頭が白くなってしまい言葉を失った。それまで異邦人の女が知っていたトヴァとは別人のようで、なにをいえばいいのかもわからなかった。 

「・・・な、なんとかいいなさいよっ!首を突っ込むなっていってるのよ!転んだらバカでも顔に怪我ぐらいするわよっ!」

ただただ呆然と受話器を握る異邦人の女。それでもトヴァは、まるで誰かにナイフでも突きつけられているかのように、切羽詰った口調で異邦人の女を罵り続ける。

「黙ってないでなんとかいいなさいよ!今後一切こんな事はいわないって!どうなのよ!!」

「トヴァ・・・」

カナシイ、ワタシ。

「な、なにヨっ!」

「私たち、お互いをよく理解してると思ってた。これまで何年も本当にいい友達だと思っていたんだけどね。でも今のあなたにはすごくがっかりさせられた。そう、はっきりいって、もうとても失望しかけてるけど、もしちゃんと大人として話をするつもりがあるのなら、電話くらい自分ひとりでしておいでよ。じゃ、Have a good day・・・」

ソレデモ、カナシイ、ワタシ。

・・・ガチャン。

それが異邦人の女にいえる精一杯のことだった。“こんなことをトヴァにいわせるために、ヤコブは電話をかけてきたのか。しかも、自分はさも関係のない振りで愛想よく。誰がどういったかそんなことをいい争うのは時間の無駄。そんな言いあいは泥沼化する他に行き着く先はなく、私からトヴァにはもうなにもいうことはない・・・”トヴァの答えを待たずに静かに受話器を置いた異邦人の女の手は、なんだか少し緊張感を含んで震え、なんともいいようのない後味の悪い怒りが残った。それから5分もするかしないかのうちに、異邦人の女の電話がふたたび鳴り響き、受話器からはAのムッとした声が響いた。

「“チカ ノ タイド は ナッテナイ!ナメヤガッテ ハノ オンナ!”・・・ってね、ヤコブがさあ、たったいま、怒り狂ってって言葉がぴったりで電話してきたよ。チカは殴ったなんていってない、俺がそういったの!って何度いってもヤコブのやつ、耳を貸さないんだよね、ったくさあ」

宗教を変えたからといってその人の根本は変わりはせず、そして仏教徒であろうとなんであろうと日本人が日本人であるがごとく、アラブはアラブ。アラブのとても保守的な男中心の社会、異邦人の女のようにオンナのくせにいちいち生意気なのは、とてもじゃないけどそのプライドが許せない。しかし、そんなことよりも、迂闊にAにトヴァの傷のことを話したことが異邦人の女の犯したとんでもない過ち。やはり、口は災いの元。異邦人の女の知っていたかつてのトヴァは利発で人の悪口など決して口にはせず、相手をむやみに傷つけるなんて愚かなふる舞いもしなかった。

「良いことでも悪いことでも人の噂には必ず尾びれがつくでしょ。だからユダヤでは他人の噂話は固く禁じられているのよ」

知り合ったばかりの頃、そうトヴァが異邦人の女に教えてくれた。ヤコブとの結婚で自分を傷つけているような、黒い深い穴に落ちてゆくトヴァ。傷ついた人は、その傷の深さから他人を傷つけることに鈍感になる。彼女は怒り、喚き、弁解している。アラブ男の妻となったがゆえに身をもって知ることとなった冷たい社会と人々の現実にだろうか。それともまちがった相手との結婚の正当化に必死なのだろうか。しかし彼を選んで妻と夫となったのは、誰でもなくトヴァ自身なのだから、自分の行動の責任は自分で取るしかない。その黒い穴から這い上がりたいと本人が求めなければ、どれだけこちらが手を差し伸べても、トヴァはさらに穴の奥へ奥へと逃げてしまう。

それからトヴァとヤコブはいよいよ住みづらくなったエルサレムの街を離れ、イスラエル開拓精神に意気揚々として、どこかの小さな入植地のプレハブ小屋に住んでいる、と異邦人の女はエルサレムの雲ひとつない乾いた青い空に舞う噂を耳にした。恋と政治と宗教は、時として人を盲目にさせる。トヴァの前途は多難で、それは彼女自身がいつの日にか目を覚ますまで背負っていかなければならないのだろう。でもひょっとすると、彼女はこのまま目が覚めなくても、それはそれで幸せなのかもしれない。人にとっての幸せは皆それぞれ異なるのだから、なにがトヴァにとって本当に幸せなのかは、実のところ誰にもわからない。

ヤコブはユダヤに改宗する前までは、エルサレムから少し離れたベツレヘムに近いあるアラブの町の住人だった。しかし満ち足りないアラブの町の生活からの脱出、この国のどこにでも自由に住むことができ、仕事の選択も多い一級市民の位置を手に掴むには、はやりユダヤへの改宗だという思い。そこに訪れたトヴァというアメリカ行きチケットへのチャンス。

今や、小さなアラブの町のムスリム青年時代には夢のまた夢だったアメリカへ渡るチャンスすら、自らの手の中にある。イスラエルのアラブの町の名もない男が夢を見て、トヴァに影響を与えそうな人たちを排除していった。日本という満ち足りた世界からやって来た異邦人が、簡単に批判できることではないのだろう。しかし、なにかが大きく歪んでいるようで深いため息も出る。このイスラエルという国と、アラブ・パレスチナのあり方に感じる幾つかの疑問。そしてそれを取り囲むアラブ諸国への疑問。

そんなムダ話をマーク氏と異邦人の女、ふたり昼下がりのエルサレムの片隅にて。さてと、異邦人の女はフレンチ・フライとファラフェルを紙袋に詰めてケチャップをかけ、道々のおやつに頂いてゆくとしましょうか。「今日はこれから旧市街に行ってくるけど、マーク氏、なにか買ってきて欲しいものある?ないの?じゃ、また帰りにちょっとだけ寄るわ」さて、異邦人の女はすっかり長居してしまった「あっぷする~と」をあとにしようとすると、どこからか現れたのは、カウンターを甲斐甲斐しく掃除する謎のトルコ人ハッサン。

シュッシュ、サッサッ。

いつものように片手に布巾、反対には青色の掃除用洗剤のスプレー。昔エルサレムがトルコ帝国の支配下にあった屈辱から、ハッサンは同じムスリムでありながらもトルコ人だというだけの理由でエルサレムのアラブ社会では優遇されずに職が続かない。そんなハッサンはマーク氏の店にドロン、パッ、また現れては消えて。あちこちを振り子のような生活を送っている。そんなハッサンの口もまた迂闊には開かない。

さてさて、それじゃまたね、と異邦人の女は今度こそ「あっぷする~と」の出口に向かうと、ヤッフォ通りから元ニューヨーカーの中年男で万年少年のモシェが元気いっぱいに駆け込んできた。薄くなった頭にニット編みの水色のキパを乗せて、薄っすらと汗をかき、相変わらずシャツはズボンの後ろからはみ出している。

「おおー!!君かあ。異邦人、しばらくだったねえ!お、マーク、マーク、ほらっ、テレビのリモコン貸してくれよ。ロシアテレビのメロドラマが始まってるんだよ。見逃しちゃうじゃないかっ!あ、それにいつものね、若鶏の串焼きにピタ、ああ、いわなくてもわかってるだろ。僕は君が作ったのじゃないとダメなの、知ってるだろう?それ、ほら、マーク、マーク、リモコン、リモコン!!」

モシェはテレビの世界へと旅立つと、他のものは一切見えなくなってしまう。マーク氏は、横目でやれやれと異邦人の女にウインクをすると、タクシー・ドライバーのイェフダがキキキーと「あっぷする~と」の前に車を停める音がした。

「よー、マーク!昨日さ、中国製のバンド・エイドが安く手に入ったんだけどさ、5箱ばかり買ってくれないか?よく指、切るだろう?キッチンには必需品だよなあ。ピタッと傷口を包んでくれるぞ。なあ、買ってくれよー。そうそう、使い捨てライターもあるんだぜ。これも安くしとくからさあ。えっと、そうだな、今日スープあるの?え?ない?でもよー、メニューにはあるって書いてあるんだからさあ、オレ、スープが飲みたいの、スープ!」

わかったよ、スープだろ、ちょっと待っとけよ、とマーク氏。キッチンを覗き込むと深いため息一つ。ハリルの後釜のアラブ従業員は仕事嫌いで、アッラーへの祈りの時間だといっては座り込む。

「ムハンマッド、おい!ムハンマッド!ヤッラー!いつまで祈ってるんだよ、ちょっとはシゴトしろよな!なんで一日に5回も6回も一時間もかけて祈ってるんだよ、仕事になんないだろ!」

そしてマーク氏は小声で、カウンター向こうのイェフダに気づかれないようにこう囁く。

「でな・・・、おまえ、ひとっ走り向かいのタイ料理の店からスープひとつ買って来い。ほら、客が待ってるんだよ、隣のオヤジの店にでも行かれたらたまんないよ。ほら、早く行ってこいよ!」

向かいの店へ元気よく走って行ったムハンマッドを待つこと10分ほどだろうか。イェフダはすっかり待ちくたびれて、マーク氏は少しイライラと煙草をぎゅっと灰皿にねじると、ムハンマッドがニコニコと帰ってきた。

「おまえ、遅いよ~。・・・ほら、スープはどうした?・・・ん?」

「ああ、ちゃんと注文は伝えたよ。スープはあの店のタイ人が今持ってくるってさ」

マーク氏、がっくりと無言で肩を落とす。ああ、誇り高きアラブ男はスープなど運ばないのだ。そう、使いに行っただけであるからして。マーク氏よ、あなたも本当によく耐えますなあ、と異邦人の女。

「エルサレムの変り者クラブだよ、ここは・・・。オレって本当についてるよなあ」

続いてロシアの移民が3人、大きな体でノソノソ、ノッシノッシと熊のように「あっぷする~と」へと入って来た。ひとりは真っ赤な顔ですでに酔っている。マーク氏はカウンターからひょいっとヴォッカのボトルを取り出すと、プラスチック・カップに半分注ぎロシア男に差し出した。マーク氏、ニヤッと笑って、そっと異邦人の女の耳元で囁く。

「ほら、やつらも呑んでるだろ?だったらどっちが強いかってね、オレも呑まなきゃね。ロシア式勝負は言葉じゃなくて態度で示そう、だな」

「呑まなきゃやってられないって、そう顔に書いてありますよ、マーク氏。しかし口は災いの元、奥さんにはなにもいわないでおくわ」

すっかり冷たくなりはじめたフレンチ・フライとファラフェルの入った紙袋を手に、異邦人の女は旧市街へと「あっぷする~と」を出ると、空は快晴、雲ひとつなく日差しは強し、そこにもうエステルの姿は見つからなかった。言葉のないエステルは、きっとこの街のすべてを知っているにちがいない。ヤコブのことも、トヴァのことも。そして異邦人の女のことも、そしてきっとあなたのことも。エステルはいつも私たちにそっとなにかを語りかけている。言葉なく。この砂漠の街の通りのどこかで、また彼女に会えるのだろうか。