Sunday, December 18, 2005

父の落し物

私の父は落し物の名人なのである。これまで落とした物とその回数は数え切れない。たくさんの「Lost 何々」なのに、父のロストした物のほとんどが、彼の手元に届けられるこの不思議。

前回、私が帰国していた時にも、少なくとも2度ほど父の落し物話に笑ってしまった。一度は家の鍵。これはもう日常茶飯事なので、今さら驚くほどの話でもない。研究室の鍵やら家の鍵やら、忘れたりロストしたりしなかったことがないほどなのだ。その日の夕方、母と私は京都駅前のスターバックスでお茶をしながら話に夢中になってしまい、すっかり夕食の約束をしていた父に連絡をするのを忘れていた。待ち合わせ時間ぎりぎりになって「そういえば、お父さんって、私たちが今ここにいるのって知ってはったっけ?」「あら、知らないでしょう。すっかり連絡するのを忘れてましたねえ」と、ノンキなもので、自宅で私と母からの連絡を待っていた父に連絡を入れた。時間通りに物事を進めたい父は、いつまでたっても夕食の連絡がないのですっかりソワソワしてしまい、プルル~と一度の呼び出し音で受話器を取った。

「今からそちらに向かいますから」

と、ものの15分ほどで、タクシーに乗って待ち合わせ場所のホテルまでやって来た。

「なんだ、連絡をずっと待っていたのですよ。さて、何を食べようかなあ。ここの中華はおいしいから、ここにしようか」

3人でお目当ての中華レストランで案内された席に着いた。白いテーブルクロスを挟んで、父が奥に座り、それぞれに渡されたメニューを眺めていると、

「・・・あっ!」

父が驚いたように小さく叫び、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。

「・・・鍵がない・・・」

「お父さん・・・また、ですか?????」

「またなのねえ・・・お父さんってば」

メニューをテーブルの上に置くと、ズボンとジャケットのポケットの中を探してはため息をつき、どうしても腑に落ちない父と、テーブルを挟んで呆れてもう何も言えないわと母。どうやら父が内ポケットだと思って鍵を入れたところは実はポケットでもなんでもなく、当然、歩いているうちに鍵はそこからストーンッと落ちてしまったようだった。

「ひょっとしたら、タクシーの中で落としたのかも?いや、そんなはずはない。タクシーを降りた時だったら落ちた音がするはずだから、わかるだろう」

「ん?でもお父さん、補聴器つけてないでしょ?だったら道に落ちたって、チャリーンという音は聴こえないのじゃないの?」

「むっ・・・」

・・・どうも私は、現実的に一言よけいに話しすぎるようだ。

「もう本当にお父さんの落し物に振り回されるのはうんざりですよ」

「そんなこと言っても仕方がないじゃないか・・・。内ポケットだと思ったのだもん」

ちょっとすねている父。とにかく失くしたのは仕方がないと、食事を終え、帰宅してから、父はホテルと自宅の間にある派出所に電話を入れた。もしかしたら誰かが拾ってくれたかもしれないという、淡い期待を胸に・・・。

「すみません、今日の夕方に鍵を落としたのですが、ひょっとしたらそちらに届いてないでしょうか?」

あるわけないよねえ・・・と、クスッと母と私。

「え!そうですか~。その方の連絡先を教えていただけませんか?」

え???あったの???・・・とビックリする母と私。派出所のお巡りさんから教えていただいた電話番号を押す父。

「あ~、わたくし、先ほど鍵を落としたものですが、ご親切に拾っていただいたそうで、ひとつお礼をさせていただきたくお電話させていただきました。・・・はい・・・はい、ああそうですか。で、鍵は一体どこに落ちていたのでしょう?はあ、駅前のホテルの前のタクシーの停まる所ですか?ああ、そうでしたか・・・」

ぷははははっ、やっぱりタクシーを降りた時に落としたのではないか。ほら、言った通り、やっぱり聴こえなかったんだよねえ、お父さん。電話を終えた父に、ちょっといたずらっぽくからかってみた。

「明日、研究室に行く途中に派出所に取りに行って来るよ」

そうして次の日に無事に鍵は帰ってきたものの、私がまたエルサレムへと帰る二日ほど前に、父の落し物騒動があった。

「補聴器が見つからないんだよねえ・・・おかしいなあ。どこで落としたんだろうか」

「お父さん、また、ですか?!しかも今度は高い方の補聴器ですって?・・・もう知りませんよ!」

またですか・・・と母はため息をつく。落とすのは仕方がないとしても、それならばなぜ補聴器のケースに名前と電話番号を書いておかないのかなあと、私はまたまた現実的に不思議に思う。拾った方も、他人の補聴器なんて、どうしようもないだろうしね。

しかし、ついにその補聴器は見つからず、その二日後、エルサレムに帰るために空港に向かう私を、母が駅まで送ってくれることになった。両親と一緒に住んでいる兄夫妻の6歳になる息子も一緒に車に乗り込んで駅へと向かうと、後部席に座っている甥っ子はなんだか寂しそうでもあり、サヨナラをするのが恥ずかしそうだった。車が駅に着いて、「それじゃあね」と甥っ子に告げると、甥っ子がお尻の下に手を入れて叫んだ。

「あっ!」

「ん?・・・まさか、急におしっこ???」

「これ、なあに?」

甥っ子の小さな手には黒いプラスチックのケース。

「うわ~!!!さっちゃん、よくやった!でかしたぞ!お母さん!ほら、お父さんの補聴器!!!」

やっぱり戻ってきた父の失くし物。母が、出かける父を車で送って行った時に、またまたぽろりとポケットかどこかから落ちたのに気が付かず、後部席に忘れらさられていたようだ。まったく運のよい落し主だこと。しかしやっぱり名前と電話番号が書いてない。なので、ちょうどさっちゃんの持っていたかわいいキノコのシールを、意味もなくベタベタと貼っておいた。黒いから目に付かないのなら、キノコでも貼ってカラフルになれば落ちても気がつくかもと・・・。

そして先日、日本の母と電話で話していた時のこと。いきなり母が「ああ、そうそう、ちょっと聞いてちょうだいよ!」と笑い出して、言葉が言葉にならなくなった。どうしたのかと尋ねると、またまた父の落し物の陳話があるという。

その日は、久しぶりに父と母と揃って昼過ぎから映画を見に行って来たらしい。戦後が青春時代だった彼らには、ビデオやDVDが主流になった今でも、映画館へゆくのがロマンチックなデートのあり方らしい。そんなふたりは支度を済まして家を出て、近所の角を大通りへと歩いて映画館へ行った。そしてその次の日、父はどうも靴下が片一方だけ見つからないと、洗濯機やベランダ、箪笥の中を探していたという。どう考えても映画に行く前の日にはいた靴下は、脱衣場か洗濯物に紛れているかのどちらしかないのに、どこにもその靴下のカタワレが見つからず。

「おかしいなあ・・・」
「変ですねえ」

と、母もまあどこかから出てくるだろうと思い、さほど気にもせずに買い物に出かけた。母が近所の角をまた大通りへと歩いてゆくと、歩道になにやら靴下らしきものが落ちている。これまた変なところに靴下が落ちているものだと、母は靴下の傍を通り過ぎた。

「おやっ?まさか・・・」

しかし、母はその「まさか」の思いを吹き払うと、買い物をすまして家に向かった。またその近所の角まで来ると、まだ落ちているその靴下がどうにも気になったので、拾ってみようかなあと思ったらしい。そして靴下の横を通り過ぎようとすると、向こうから人が歩いてくる。それでそれを摘み上げるタイミングが掴めずに、無念にも角を曲がってしまったと。そんなの躊躇も何も、ほいっ、と拾えばいいのに・・・と思うのだが、やはりそこは人目を気にする日本であって、誰も何も気にしないエルサレムではないらしい。

買い物から帰った自宅では、父がいまだに見つからない、失くした靴下を探していた。母は、そうなるといよいよあの路上の靴下が気になってきた。しかしどう考えてもそんなところに父の靴下のカタワレが落ちている訳がない。が、やっぱりあの孤独な歩道の靴下は、父の靴下のカタワレかもしれないと、母は夜も8時を回り人通りも少なくなってから、ひとりで拾うのは怪しいかもしれないと私の甥っ子を連れて、近所の角を曲がってみた。やっぱりそこには靴下のカタワレが、しかも父のお気に入りの模様にそっくりの靴下のカタワレが、雨を吸い込んで悲しそうに打ち捨てられていた。母はそのびしょびしょのカタワレを摘むと、甥っ子の手を引いて、誰にも目撃されぬようにと急いで家に戻り、ぽいっとその靴下を洗濯機に投げ込んだ。

次の日、洗濯機が回り終わってふたを開けてみると、きれいになったその靴下は、紛れもなく、正真正銘、父のお気に入りの靴下のカタワレだったのだ。

「お父さん!靴下がありましたよ・・・!」

「ア、 本当だ。私の靴下だ!どこにあったの?」

母は父をリビングの食卓に誘うと、実はあの通りの角に落ちていたので、昨夜、拾って来たのだと告げた。

「そこの通りのあの角に落ちていたって???どうしてそんなことが・・・!ありえないでしょう!」

そう、どうしたら父が脱衣所で脱ぎ捨てたはずの靴下が大通りに落ちていたのか。なんだか狐に包まれたような話。つまりは・・・こういうことらしい。

映画に行く前の晩、父は風呂に入ろうと脱衣所でズボンとパッチと共に靴下を脱いだそうだ。どうも靴下を脱いでからズボン、そしてパッチをいちいち脱ぐのが面倒くさいらしく、そこですぽーんっと全部同時に脱いで籠に入れ、パンツと靴下を洗濯機に放り込んで風呂に入った。そして次の日に、またそのパッチとズボンをひょいっと同時に履いて、新しい靴下を履いたそうだ(パッチは毎回洗わないのかなあ?と思ったが、これもまた現実過ぎる話なので、言わないことにしよう)。そして母とふたりで映画に出かけ、あの角を曲がった・・・。そこで、前夜に洗濯機には放り込まれずに、パッチの中のどこかで包まっていたお気に入りの靴下のカタワレが、父のスキップするような癖のある歩きの振動によってズルズルと下に落ちて来て、パッチの裾から抜け出して通りへと落ちたのだろうと。そして例の如く、父はそれに気がつかなかったと。

この話は当人である父も、もうおかしくて笑が止まらなかったらしい。いやいや、これを国際電話で聞かされた私もなんだかもう、おかしいやら信じがたいやら、でもあの父のことだから十分にありえるのではないか。それに夜更けにこっそりと、打ち捨てられた靴下のカタワレを拾いに行った母の様子などを思い描くと、腹筋が痛くなるほど笑ってしまった。しかし、その時に誰も父の後を歩いていなくてよかった・・・。前を歩くおじさんのズボンの裾から、いきなり黒っぽい布切れが落ちてきたらびっくりしてしまうではないか。それよりも、パッチや股引に靴下が挟まっていたら、モコモコと履き心地が悪いだろうに・・・。それも気がつかなかったのかなあ。まったく父は不思議な人である。

そんなこんなで、父はいつも落し物をしては家族に話題を振りまいてくれる。とりあえずこの靴下のカタワレだけでも The Lost Sock にならず、また家に戻ってきて本当によかったのである。しかし、ブーメランのようにしていつの間にか落し物が手元に帰ってくる父にも、ずっと昔に落としいまだに戻ってこない「エルサレムに住む娘」という最大の落し物があるらしい。