Thursday, April 15, 2004

soupの記憶  -ずっと昔に・・・

春。

 今年の過ぎ越しの祭りは、爽やかな春のアドリア海の海風に吹かれてみよう。中東のエルサレムから、東西の文化クロス・ロードのイスタンブールの空を越えて、クロアチアの片隅へと旅をした。南クロアチア、古代ローマ皇帝ディオクレティアヌス(245~313年)の宮殿の壁に包まれた、世界遺産の街スプリット。エルサレムの旧市街に似た迷路のような石畳の街にも、いくつものユダヤのストーリーがある。

「ヤセノヴァッツ(Jasenovac)」

 その名をはじめて耳にしたのは、数年前にスプリットでヨシュアにはじめて会ったときだった。そのとき、少しはにかみながら、まだ彼が若かったころの遠い記憶を語ってくれたヨシュアには、安息日やユダヤの祭りになると欠かさずに訪れる場所がある。

 宮殿跡の街の、小さなセファラディー系ユダヤのコミュニティ。春も近いころ、過ぎ越しの祭りの準備がはじまり、食卓に上がるマツァが用意された。そこで私は、今年はひとつ嗜好を変えて、ユダヤ料理の中でも過ぎ越しの祭りらしく、マツァボール・スープをこしらえてはどうかと、行動的な世話役のナーデに持ちかけてみた。

 「いいじゃない! えっ、そうよねえ、毎年同じなんて芸がないわよね。マツァボール・スープねえ。えっ、おいしそうじゃない!」

 スプリットふうに「えっ」とところどころに交えると、気軽にOK サイン。「それじゃあ、そうしましょう」と、祭りの二日目の夜、このコミュニティに集うユダヤの大家族に、スープを振舞うこととなった。祭りの二日目の午後。港から宮殿跡の迷路のような石畳の道を、くねくねと右へ左へと曲がり、まるで秘密のアジトと云わんばかりのユダヤのコミュニティへと。入り口のドアのベルを鳴らす。

 リリリリリー、リリリリリー、ジーッ、ガチャッ。

 秘密アジトのドアのロックが解除される。するり、とドアへ体を滑らせれば、シャローム、シャローム!ヨーロッパの片隅で、ユダヤな風貌の笑顔がこぼれる。事務室のナーデとウインクを交わし、さあマツァボール・スープに取りかかろう。エルサレムから持参したカシェル印の秘密兵器、マツァの粉にユダヤのお袋の味。インスタントのチキンスープの素。

 ジーッ、ガチャッ。
 シャローム!

 ジーッ、ガチャッ。
 シャローム!シャローム!

 祭りの夕食の時間が近づいて、三十人ほどのユダヤ大家族が集まった。テーブルの中央には板状のクラッカーのようなマツァ。白髭のラビがワインとマツァを手にすると、みんな珍しそうにその祈りに耳を傾ける。祈りが終わり、いよいよマツァをパリン、バリン、むしゃむしゃ。そこで、この大家族のナーデママさん、「えっ、あんたはいいから座ってなさい!」と、ピチピチのジーンズに押し込めたグラマラスな体で、スープを運んできた。

 「うわー、これなに?」

 見慣れぬ団子スープに、ざわざわざわざわ、声のさざ波。

 「団子だよこれ! なに? マツァの団子だって?!」
 「えっ? スープの中にマツァの団子?!」

はじめて見る団子のスープに、なんだかんだと言いながらも、お代わりを求める声も。スープの鍋はあっという間に空っぽに。やはり日本人の魂には、何と言ってもだしの風味と味噌汁がすーっと沁みるように、ユダヤの遺伝子には、マツァボールとチキンスープが組み込まれているのだろうか。みながスープを食べ終えたころ、ぎょろ目の中年男ゴランはとても嬉しそう。

 「ぶっちゃけた話、おれはスープなんて嫌いだね。男の食いもんじゃあねーや。しっかし今夜のはあ、うまかったよ。えっ。お代わりもしたしね。初めて食べたよ、マツァボール・スープってのを。ふーん」
 「あら、ゴラン! 珍しいこともあるものねえ。スープなんて女の食べ物だ、肉じゃなきゃ食べ物じゃないってのが、あんたの口癖なのにねえ。えっ、だったら今度は、野菜サラダでも食べてみる?」

 ゴランと同じ世代のナーデが、いつものように彼をからかう。

 「サラダだあ? まったくその辺のロバじゃあるめえしよっ!やなこったねえ。えっ。そんなもん食ったって、血にも肉にもならねえや! やっぱりバルカンの男は肉だよ肉! えっ、それ以外は食いもんじゃあねえ。ナーデよ、スープの次は本格的に肉で食事といこうか!」

 あっはっはっは! 相変わらずだねえ、とみんなの笑顔がこぼれる中、ヨシュアと彼と同じ世代の黒いスーツの婦人は、静かにゆっくりとスープをすすっていた。若き日のこのご婦人は、ドイツとイタリアを相手に祖国ユーゴスラヴィアの解放へと戦う、勇敢なパルティザンの戦士だったのだそう。この古えの勇士にも、今はもうこのアジトのほかには家族はない。ヨシュアは少し涼しげに、青い目を細めてほほ笑む。

 「ねえ、おまえさん。僕が最後にこれを食べたのは、サラエヴォの家でだったなあ。そう、ずっとずっと昔、僕がまだほんの子供のころにね……」

 まだ世界が平和だった頃、故郷のサラエヴォで家族とともに過ごした子供時代。戦争の影もなく、幸せだったその時代の思い出。それから長い長い時を越えて、ふたたびその記憶にふれたヨシュア。

 ホロコーストにおける、最も人の道に反した絶滅収容所のひとつ、ヤセノヴァッツ。クロアチアでも最大の絶滅収容所。十九歳でそのヤセノヴァッツに送られるまで、サラエヴォの床屋で働いていたヨシュアは、ユダヤだという理由だけで、それまで家族と住んでいたサラエヴォの街を追われた。強制送還させられたヤセノヴァッツでは、運よくサラエヴォ時代のように床屋の職を与えられ、絶滅収容所のまるで永遠かのように長い四年という時間を生きながらえたという。しかし収容所での生活では栄養も十分に取れず、体重は四十キロほど。背もとても低く、外見はまるで子供のようだった。

 ナチの親衛隊員たちは、他の収容所と同じようなゲームをヤセノヴァッツでも楽しんでいた。その日も、親衛隊員はいつものように、収容されている数人の番号を選び、その人たちを手元へと呼びました。その日、呼ばれた人の中には、小さな床屋のヨシュアの姿もありました。

 「そこに一列に並べ!」

 ひとり、またひとり、確認するように番号が呼ばれ、返事の後には銃声が響きました。そしてついに、ヨシュアの番号が呼ばれてしまいましたが、列のどこからも返事は聞こえてきません。そう、ヨシュアには子供の頃から、少しどもり癖があったのです。じっとしてうつむいたまま心臓が高鳴り、ああ、どうしよう! どうしよう! すると隣に立っていた男が、そっとヨシュアにささやきました。

 「……君の番号だろう?」

 その次の瞬間、ヤセノヴァッツの空を割るようにして銃声が響き、どさりと人が地面に崩れ落ちました。それは番号を呼ばれたヨシュアではなく、「……君の番号だろう?」とヨシュアにささやいた隣の男でした。その親衛隊員にとっては誰でもよかったのです。ただ、その日に摘み取るいのちと、リストに記された抹消数とがぴたりと合えば、番号などどうでもよかったのでした。ヨシュアはどもりおかげで、その時この世に留まることができましたが、代わりに一つのいのちがこの世から去ってゆきました。

 1945年の春。ヨーロッパでの終戦も間近な四月二十二日のこと。ナチはヤセノヴァッツ絶滅収容所を囚人ごと焼き払い、完全に消し去る準備に取りかかりっていました。その一方では、ヨシュアを含む収容者たちは、生きて収容所の門の外へ出られる最後のチャンスを、じっと息を潜めて待ち構えていました。そしてついにチャンスが訪れ、六百とも千二百人とも伝えられている人々は、ありとあらゆる物を、パイプを握り、ハンマーを振りかざし、ドアを蹴破り、柵の向こうを目掛けて走り出しました。この収容者たちの思わぬ反乱に、ひとりたりとも生きてそこから逃さぬよう、容赦なくナチの弾丸が飛びかいます。二十三歳のヨシュアは走って走って、走り抜きました。そして他の人々も同じように、いのちの限り走って走って、走り抜いて。

 弾を逃れ、走り抜いて自由の身となれたのは、最終的にはヨシュアを含むたったの八十人だったと伝えられています。それまでヤセノヴァッツでは、とても多くの人々がどこにも記されることなく、名もなく亡くなってゆきました。今ではもうその確かな数はわかりませんが、1941年の夏から1945年の春までに、たったの四年の間に三十万から七十万という、まだ乳飲み子をも含めたいのちが、道端の雑草のように踏みつけられ、摘み取られてしまいました。彼らが単にセルビアの人であったために、またユダヤの人であったために、そしてロマ(ジプシー)であったがためだけに。そして戦争は終わりを迎え、このヤセノヴァッツはまるで存在しなかったかのように、ずっとその名は闇に葬られてしまいました。今では、ホロコーストの記憶の中でこの名が語られることは、ほとんどありません。



 「どうして僕が助かったのかって?」

 ヨシュアはいたずらっぽくほほ笑んだ。

  「ん、本当にちびでよかったよ。ビュンビュンと、弾はすべて僕の頭上を飛んで行ったんだよねえ。あははははっ」

 二十三歳のヨシュアがヤセノヴァッツを走り抜けてから、すでに半世紀以上の時が流れ、今を生きる私たちには、その記憶の欠片をほんの少しだけ想像してみることしかできない。ヤセノヴァッツで失われた遠い幸せな時代の思い出、そしてユダヤの記憶。マツァボールのスープのお皿を手にしながら、私はちょっぴり不安になった。ヨシュアのあの幸せな思い出は、ひょっとすると、本当は人に知られることなくそっと鞄の奥底にしまっておきたい、辛い記憶なのかもしれない、と。

 過ぎ越しの祭りも終わり、しばらくして、ホロコースト追悼日にスプリットのユダヤ墓地で、またヨシュアに会った。この日も彼はいつもと変わらずにとても元気そうで、いつものように少しはにかんで、パルティザンの女戦士と肩を並べていた。この日墓地に集ったスプリットのユダヤの人々は、過去も現在も変わることなく、喜びも悲しみも分けあっているのだろう。ひとつの大きな家族のように。もはやヨシュアの家族は、遠い記憶の中のサラエヴォの家族だけではなく、今はこのスプリットのユダヤの人々なのかもしれない。そして彼らはこれからも世代が続く限り、みなで過ぎ越しの祭りを祝い、過去を噛みしめ、このアドリア海の美しい街で生きてゆくのだろう。しかし、若い次世代がほとんどいなくなったこの古いコミュニティーも、やがていつか、そう遠くない未来に、失われた記憶となってしまうのかもしれない。

Saturday, April 10, 2004

exodus - エジプトからの出発

ユダヤのニサンの月の15日。春と共に過ぎ越しの祭りがやって来る。

過ぎ越しの祭りがやってくると、ユダヤの家は大忙しさ。まずは、掃除をしなくっちゃいかんだろ。家中、全部、大掃除だよ。まるで日本の師走のようにね。掃除のターゲットはヤツだ、そう、小麦さ!台所の戸棚の中に使いさしの小麦はないかい?パンだって小麦だろ?パンを食べながら読んだ本のページの間に、パンくずは挟まっていないかい?ひょっとするとベットの下にだって飛んで行ってるかも知れんだろう。寝ながらクッキーなんかかじってなかったか?

さあさあ、家の中の小麦はすべて残らず処分しなくっちゃ。いいかい、お前たち、よく聞けよ。祭りの間には小麦は一切口にしちゃいけないよ。ピタパンだってパスタだって、ケーキだってクッキーだってさ。ああ、そうそう、オレはかあちゃんにはこっそり隠してあるウイスキーも飲んじまわなくちゃな。あれだって麦からだろう?まあ、それにしても大掃除ってのはいいもんだ。心の中もついでに掃除しようって気になるだろう?

おや、君の家はもう大掃除は終わったのかい?ああ、そうか、君のところは過ぎ越しの祭りの時だけ使う専用のキッチンがあるんだっけ。いいよなあ。君んとこも、食器もなべもみんな祭り用のだろう?うちだって、台所とまでは行かなくてもそれくらいは買い揃えてあるさ。

もう市場でマツァを買ったのかい?祭りがはじまったらマツァの食べすぎには気をつけなよ、便秘になるぞ。そうだな、祭りのあいだにはマツァでサンドイッチだろ?ゆで卵とレタスとを挟んで、フルーツのペーストと西洋わさびをぬってね。でも、やっぱりオレはかあちゃんの作るマツァ・ボールのスープが一番うまいやって思うがね。透き通った黄金色のチキン・スープの甘い、いい匂い、そこにポンポンと浮かんだマツァの団子。やっぱりこれだねえ。なあ、君んちもかい?


「今夜はどうちがうの?マ・ニシュタナ・ハライラ・ハゼ?」

どこの家庭でも子供たちが、毎年、祭りの晩のテーブルではこう聞くだろう?今夜はいつもの夜とどうちがうの?ってさ。ユダヤの人たちが長いエジプトの奴隷生活から自由になって出発する晩だよって、毎年チビどもに話すけどさ。その後に十戒を授かるまでの話もそろそろ憶えてくれたことだしな、なあ、今年はなんて話そうか。

「アバ、今夜はどうちがうの?マ・ニシュタナ・ハライラ・ハゼ?」

「ねえねえ、アバ、マニシュタナ・ハライラ・ハゼ?おしえて、おしえて!」

おいおい、今夜も相変わらず元気なぼうずたちだな。それはだな、よく聞いて憶えるんだよ。昔、ユダヤの人たちはエジプトで奴隷としてピラミッドを作り、ファラオのもとで暮らしていたってのはもう知ってるよな?そこで、ユダヤの男、モーセは「エジプトを出よう、自由になろう、自分たちの土地へ行こう!」と皆にいったんだけどな、・・・

・・え?なんだって?ハシディックの学校の本では、モーセはあのミンクみたいな毛皮のシュトライマレ帽をかぶってるけど、それは本当かって?

ははーん、お前、隣のヨセレーに聞いたんだな?・・・そうだなあ、あの時代に、暑い暑いエジプトでさ、ヨーロッパってとこの雪国の毛皮のシュトライマレ帽はかぶってなかっただろうよ。モーセはそんなとこから来た人じゃないからなあ。おっと、でもな、これは隣のヨセレーにはいっちゃいかんぞ。彼の家では冗談でもそう信じてるんだったらそのままにしておいておやり。じゃあどうして隣と我が家はちがうのかって?

そりゃ、我が家はアシュケナジーって呼ばれるヨーロッパ系でもハシディック系でもないからな。うちは昔々、スペインから旅をして来たセファラディーと呼ばれるユダヤの人の末裔なんだよ。ヨセレーはアシュケナジー系ユダヤらしく、ヘブライ語のほかにも今でもイディッシュ語を話すだろう?イディッシュ語は今でもアシュケナジー系のユダヤの人たちには受け継がれている言葉なんだよ。そしてセファラディー系の家系では、昔はラディーノ語を話したんだよ。お前たちの爺ちゃんも婆ちゃんも、ラディーノ語をエルサレムで話してたんだよ。でも父さんの世代はもうラディーノ語は話せないけどさ。だから、残念なことにラディーノ語はもうこの世界からは消えてしまうんだよ。

おっと、それでだな、話がちょっとずれたがな。なぜ今夜はちがうのか、だろう?そうだな、モーセが皆にエジプトを出ようといったと話しただろう?でもな、人々は住み慣れたエジプトを去って、いつ終わるともわからない旅に出るなんて嫌だったんだ。また新たな土地で一からはじめるよりも、奴隷でもそれまでの慣れた暮らしのほうがよいのじゃないかと思ったんだ。実はな、あのモーセだって、人々をエジプトから連れ出すなんて自信がなかったんだよ。でもな、神がモーセにいったんだ。心配するな、信じろと。

そりゃあ、そうだろうな。ぼうずよ、人ってのはそんなものさ。楽なほうへとどんどん流れて行っちゃうんだよ。誰がわざわざ苦労するのをわかってて、それでもなにかをやり遂げようなんて思うもんか。多少の嘘はあっても、そこにいるほうがいいんだよ。お前だって、本当にうまくなれるかわからないのにサッカーのつらい練習をするよりも、ただ家でゴロゴロとゲームでもしてるほうが楽だろう?

でもな、よく聞け子供たちよ。父さんは思うんだ。毎年過ぎこしの祭りがやってくるだろ、するとな、オレの今いるところはひょっとするとエジプトなんじゃないかってね。もちろん、ここはエルサレムだよ。イヤイヤ、そうじゃなくてな、たぶん人はな、皆それぞれのエジプトにいるんだよ。もう少しわかりやすく説明してくれって?おお、ごめんよ。そうだなあ、簡単にいえばだなぁ、つまり、それが自分の悪い癖だったり、自分に嘘をついてごまかしていたり、幸せなふりをしていたり、ってな。それに本来しなければならないことをしないで、ズルズルとな。人はそれがまやかしでも、なんとかしてその楽な場所に留まりたいんだよ。ついつい努力せずにそこに甘えてしまうんだなあ。

だから過ぎ越しの祭りが来るとな、父さんは考えるんだよ。今年もここにいてはいけないんだってね。ぼうずよ、自分をごまかすなよ。前に進んでいけよ。例えそれが困難でもずっとそれを信じて生きろ。自分の心に正直であれよ。自分を信じて生きていけば、いつかきっとそれでよかったんだって思えるんだよ。そこには苦労も努力もついてまわるさ。でもな、人はいつまでも怠惰で未来のないエジプトにいてはいけないんだよ。

おっと、なんだか難しくなってしまったなあ。それじゃあ、また来年はエルサレムでな。祭りの晩の終わりにはそう歌うんだっただろう?もう、そろそろお前たちも憶えなくてはね。さ、かあさんや、温かいマツァ・ボールのスープはできてるかい?お前たちもお待ちかねだろう?イマの手伝いをしておくれ。マツァのサンドイッチもいいが、これがなきゃあ過ぎ越しの祭りは越せないぞ!ああ、チキン・スープのいい匂いだ。オレたちユダヤの魂にはやっぱりチキン・スープがぐっとくるねえ。



*アバはヘブライ語で父の意味。
*イマはヘブライ語で母の意味。

Friday, April 02, 2004

tata the cat 男一匹、エルサレムの空の下



ここしばらくのあいだ、我が家の同居猫Tata宛へのメールが何件かあったので、Tataが帰宅した時にでも読んであげようと思っていたのに、近頃のTata君、もうまさに青春時代炸裂。こちらはなんだか高校生の息子を持つ母親のような気分。ほとんど毎朝のように明け方ごろに出かけるようになってからは、日に一、二回ほど、食事に帰って来るだけ。

ゆっくりとご自分のベッドで寝たのは一体いつのことやら。しかも大好きな手羽さきをハグハグと、両手でしっかりと押さえながら口にしていても、とんと心ここにあらず。どうしても外の様子が気になるようで、物の数分であっというまに骨まで噛み砕いてはごちそうさまの顔洗いも毛づくろいもせずに、またまたぴゅーんっと慌てて外へと出かけて行ってしまう。もう毛並みもなにもあったもんじゃない。しかも首の周りはなんだこれ、禿げてますよ、親分さん。それに鼻の頭や額は傷だらけ。Tata君、はっきり言おう、君にはナチュラル・ボーン・ストリート・ファイターの野良猫軍との戦いに勝ち目はない。だって君はあまりにも繊細な哲学者だからね。

と、ここまで書いたところで、誰かが玄関のドアをノックしているではありませんか。おやおや、うわさの哲学猫Tata君ではないか。どうしたの?今しがた出て行ったばっかりじゃないの。えっ?眠くて倒れそうだから帰って来たの?・・・そりゃ、そうでしょうよ。ほら、ちゃんとベッドがあるのだから、そちらでしばらくゆっくりと休んだらどう?あら、もう寝入ってますよ、彼ったら。それではTataが眠っているあいだにこっそりと、今日は彼が我が家にやって来たイキサツ、その秘密を公開することにいたしましょう。

Tataとの出会いはほんの一年半前のこと。彼は成猫にはめずらしく、彼の奥さんと生まれて半年ぐらいの娘ちゃんとの三猫家族で、私が以前住んでいた階段通りのアパートの屋上に置きっぱなしになっていた、古ぼけたベッドのマットレスやクッションのあいだに住んでいました。それまでは、猫って、普通は子猫のころからひとりひとり独立して生きていくものだと思っていたのですが、なぜかこの一家の絆はとても深いようで、いつも一緒にいることが多かったのです。そしてお腹がすけば「にゃ~っ」と、隣近所の親切な家々でごはんを出してもらい、食にも住にもさほど不自由もなさそうで、まるで絵に書いたようなパパとママとかわいい娘の「しあわせ一家」のように見えました。

しかし、この砂漠の街の長く乾いた暑い夏が終わった十二月、夏から冬へといきなり寒い日々が訪れます。雨が降りはじめ、さらには雪でも降りそうな二月のこと。いつものようにTataがひとり旅へと出かける季節が訪れました。Tataは「男には行かねばならぬ時がある。オンナタチヨ、とめてくれるなヨ」と、彼のキャラクターとは程遠い、彼の憧れの仁侠映画のヒーローごとくそう一言残して、バレンタイン・ディを過ぎたあたりを境に、プッツリと姿を消してしまったのです。このエルサレムの寒空の下、Tataは一体ひとりでどこへと旅立ってしまったのでしょうか。

奥猫のジョセフィーナさんと娘猫のムスメちゃんは、男猫のいないひと冬の留守をふたりで守っていましたが、Tataが旅立ってからかれこれ2ヶ月ほどが過ぎ、こちらも他猫の家庭のことながらも彼らのことが心配になりはじめました。そこでTataが帰ってくるまでのあいだ、残されたジョセフィーナとムスメちゃんの栄養管理と心身ケアを我が家ですることにしました。それからしばらく彼女たちと我が家で食事を共にするうちに、お互いに気心も知れはじめ、ジョセフィーナとムスメちゃんの性格も少しずつわかるようになって来ました。

Tataとよく似た毛並みで小柄なジョセフィーナは、いかにも典型的な、ナポレオンの妻と同じ名の通りで猫ナデ声がうまく甘え上手、いわゆる「猫っぽい女」というやつでしょうか。いつもおちょぼ口でツンと澄ましたかなりのべっぴんさんでしたが、ムスメちゃんは決して美猫とはいえず、「ご両親は美男美女猫なのにねえ・・・」と、近所のおばさん猫たちがヒソヒソと陰口もなんのその。かけっこが大好きな元気な女の子で、私としてはその素朴さにかなり好感が持てました。

そうこうしているうちに寒い冬の雨の季節もすぎて、自宅に近いガン・サカーというエルサレムで一番大きな公園では、岩のあいだに溜まった水を吸った淡い桃色のシクラメンが咲きはじめ、砂漠のエルサレムの街にまたみじかい春が訪れました。桜とよく似た白いアーモンドの花の咲く暖かな日々が続いたころ、なんと、Tataの奥猫さんのジョセフィーナは、アパートの屋上に続く外の階段下で、父親のわからない四つ子の赤ちゃんを産んでしまったのでした。まだ瞳も開かない小さな赤ちゃんたち。幸いなことにこの四つ子ちゃんたちは、どこからどう見てもTataの毛並みに瓜ふたつ。

お陰で近所の噂好きなおばさん猫たちは、この四つ子ちゃんのパパはTataだと疑いもせず、幸いにも近所の噂の的になるのは免れられました。それを知っているジョセフィーナもさすがにしたたかで、階段下でなに食わぬ顔で忙しい子育ての日々に追われていました。しかし砂漠の街の夜と朝は霜が降りて冷え込みが激しく、それもまだ春浅い四月のことだったので、かわいそうにもこの四つ子ちゃんは生まれてから一ヵ月とたたないうちに、次々とわずか数週間の短いいのちを終えて、また空に帰って行ってしまいました。

それからしばらたったある日のこと。どこからか、ひょっこりとTataが旅を終えて帰って来たのです。帰宅したTataは汚れてとてもやせ細り、しかも片方の後の足を引きづっていました。心配して「旅路で車にでもぶつけられたの?」と聞いても、なぜだかただじっと考え込むように黙りこんでいるTata。そうなればいくら尋ねても仕方がないので、Tataの大好物の手羽先の炊いたんをお皿に乗せると、少しほっと一息ついた様子でした。しかしそこに、Tataと私の話し声を聞きつけたジョセフィーナが階段下から上がって来たのです。久しぶりのジョセフィーナとの再会で、Tataは嬉しさのあまり彼女に近づいてキスをしようとしたのですが、ジョセフィーナはプイッとあっちを向いて拗ねたシグサ。このあたりがどうも彼女が猫っぽい女といわれる所以なのでしょう。意外なジョセフィーナのその反応に、シュンっと落ち込んだTataの悲しそうな横顔ったら・・・。

「まあ、こんなに長い間家を空けたんだもの、自業自得だね」

なんて、ちょっと冷たく声をかけてもTataったら動きもせずに、じーっとジョセフィーナから目を離さない。そのあんまりにも健気な姿が、少しかわいそうに思えてきたところに「あっ!パパだっ!」と元気いっぱい、遊びから戻ったムスメちゃんも現れて、一応はめでたくTata家一同揃ったかのように思えたのです。でも、実はTataの悲劇はここからはじまったのでした。

事実はこうでした。Tataの留守中、やはり奥猫さんのジョセフィーナは一人がどうもおもしろくなかったらしく、不義の四つ子ちゃんが亡くなってから、そのころからこの近所を徘徊していたどこの誰だかもわからない新参者の若い白猫と知り合って、その彼と頻繁に出かけるようになっていたのでした。ええ、いかにもジョセフィーナな彼女らしい話しだなと思いますけどね。そしてTataの帰宅後しばらくして、Tataの帰宅を知る由もなかった新しいボーイフレンドが塀越しにジョセフィーナを誘いにやって来たのです。「よう!」と、現れたのは、ちょっと軽薄で、なんだか首の辺りにゴールドのネックレスなどがチャラッと似合いそうな、イケイケな若い彼。

「あら、あーさん、待ってたのよ。さっ、行きましょ!」

わざとTataには目もくれず、いつものようにつんと澄まし顔のジョセフィーナ。Tataは不意に現れた見知らぬイケイケ君と連れ立って去りゆくジョセフィーナを、きれいなブルー・グリーンの瞳の視界から消えるまで、じっと見つめて、ひとこと・・・

「・・・にゃーん!!!」

まるで「・・・ジェーン!」と聞こえるかのように、開け放った玄関から家の中にまで、その悲しげな叫びが聞こえてきました。

それから毎日のように、Tataはジョセフィーナが新しいボーイフレンドとウキウキと出かけてゆく姿をその横で眺めては、深いため息をついて玄関先で鬱々としていました。それでもジョセフィーナは、ボーイフレンドがどこかへ行っているあいだには、我が家の玄関のドアのそばに寝そべっているTataの元へと、階段下からイソイソと、でもどこかツンと澄まして訪ねて来るのです。まるで「ボーイフレンドなど単なる遊びよ、本命はあ、な、た、」と、Tataに擦り寄って。

「もう一度やり直そうよ。帰っておいで」

ああ、猫の恋も人と同じく盲目なのね。
Tataはジョセフィーナに言いました。
しかし、そこはさすがにジョセフィーナです。

「いやよ!いやよ!」

と、小さな駄々っ子のようにバタバタドカドカとTataに足蹴りを食らわせて、さらには悪妻の如く夫猫の顔をキーッと引っ掻いてみるのです。その度にTataは「えっ?どうしてなの???」と、私は男って猫も人も変らずに本当にバカなんだなあと思いつつも、さすがにTataのその落ち込みようがかわいそうで、他猫家のことながらも、もうそのころにはジョセフィーナにはそれほど好感を持っていなかったのです。

「ちょっとTataさん、お入いんなさいよ」

ある時、私はTataを家の中に招きました。Tataは気だるくノソノソとリビングのソファーへ向かうと、よいしょっと力なく飛び乗りました。そんないじけているTataの後を追って家の中へ駆け込んできたジョセフィーナは、またまたTataにそっと近寄り、おちょぼ口でTataの隣にしなりと寝転んでみる。なんてことを、いかにもお茶の子さいさい、慣れたふうにやってみせる。それなのに、Tataはなみだ目になりながらも、ジョセフィーナがそばにいることに天にも昇るような笑顔です。

ああ、またしても、猫の恋も人の恋も盲目。

しかし、そこはやっぱりジョセフィーナ。今度こそは心を改めて大人しく夫猫のそばにいるのかと思いきや、なんのなんの。外でジョセフィーナを探しているイケイケのボーイフレンドの呼ぶ声を聞くやいなや、Tataなどはもう無用の夫。踵を返して小走りで出て行ってしまいました。そんなジョセフィーナの後を今度は慌ててTataが追いかけて、玄関先からジョセフィーナとボーイフレンドが肩を寄せあってどこぞへ消えてゆくのを眺めては、再起不能なほどにも落ち込む。そしてまた気だるそうにソファーに寝そべると、いつも物思いにふけっていました。

そんなことのくり返し。まったくジョセフィーナももうその気がないのならはっきりすればいいものを、やはり猫も人もオンナという科は計算高いものなのですねぇ。正直いって私、猫が泣くのってそれまで見たことがありませんでしたが、ほんと、Tataってば、玄関先で涙をつつーっと流して泣いていました。へぇー、猫も悲しけりゃ泣くんだね。かわいそうに。

それで、これはTataは相当重症な失恋の病だなということで、下の階の家でもお食事などを世話になっているジョセフィーナには、しばらく私の家への出入りを控えてほしいと伝え、その代わりにTataに元気になるまで家にいてもらうことにしました。さすがにひとりでいるのは辛かったのでしょう、Tataもその方がいいと、私の家のソファーで寝て過ごす日が多くなりました。しかし、どうもそのころから私はムスメちゃんの様子が気にかかりはじめました。ムスメちゃんはあの不義の四つ子ちゃんの死と、母猫ジョセフィーナの若いちゃらちゃらとしたあの白猫のボーイフレンドがどうも気に入らないらしかったのです。

それまでは幸せだった家庭の崩壊を目の当たりにした多感な時期の少女は「もう、こんなのやってらんないよっ!」と、ちょうど反抗期に差し掛かったことも重なって、ある日のこと、書置きも残さずにプイッと家出してしまったのです。それっきり、今でもムスメちゃんの行方はわかっていません。でも、しっかりものの彼女のことですから、きっとこの街のどこかで、誰かいい猫男さんと新しい幸せな家庭を築いていることでしょう。

そんな経緯で、繊細なTataは心身ともにもう憔悴しきり、すっかり鬱々とした状態が続くうちに、またエルサレムにも暑い暑いカラカラに乾いた長い夏がやって来ました。Tataは全身を夏毛に着替えても、どうも暑いのが苦手なようで、家の中で、しかも私の仕事机の椅子の上で長い昼寝をしては現実逃避をする日々が続きました。眠っている時は楽しい夢を見ているのか、Tataってばなんだか笑っているような寝顔。わざわざ厳しい傷心の現実へと引き戻すのもかわいそうなので、仕方なく私はソファーに移って仕事をしていました。そして30℃を軽く越す日が続いていた8月。それまで住んでいた階段通りのアパートの契約も切れようとしていたので、私は思い切って引っ越すことにしたのです。

引っ越すといってもそこから歩いて3分ほどのところですから、まあ、近所に、ですね。そこで家猫ではないTataを一体どうしたものかと考え迷ったのですが、やはり失恋して落ち込んでいる彼をこのままここにはひとり置いてはゆけないと思ったのです。そして荷物をすっかり運び出した日の夜のこと。「お食事よん!」と、うまく騙くらかして、疑うことなくご飯を食べに私のそばに寄ってきたTataの首根っこをイキナリ掴むキドナップ作戦に出たのです。そして作戦通りにTataの首をすばやく押さえ込むと、さすがに紙袋にちょいと入れてぽーんぽーん、というわけには行きませんので、用意してあったリュックにぽんっと詰めりゃ、にゃんと泣くで、私は新居まで夜道をTata入りのずっしりと重たいリュックを担いでトットコと走ったのです。

こうして、それから今日までTataはうちの息猫子として過ごしています。結局は引越ししたのがよかったのか、今ではすっかりジョセフィーナとの傷も癒えたらしく、毎日近所を元気に飛び回っています。まあ日が薬っていいますからね。でも、うちにいる時の甘えん坊さんの彼が玄関から出て行く時のうすろ姿、おかしくて可愛くて笑っちゃいます。だって、猫なで肩をなぜか無理にいかり肩にして、コワモテの哀愁を装って、まるで「仁義なき戦い」かなにかのテーマ曲でも流して欲しいかのようなうしろ姿。まあ、彼もそんな年頃なのでしょうかね。こんな繊細でお茶目なTataですが、どこかに彼を愛してくれるステキなお猫さんはいませんでしょうか。Tata宛のメールにてご連絡ください。お待ちしています。