Thursday, December 18, 2003

一本の炎と腹痛と

ニューヨークのボーロ・パークに住むオーソドックス・ユダヤのブックスバウム一家が、一週間のみじかいイスラエルの旅を終えて、またニューヨークへと帰って行った。まさに台風イッカとはこのことか。

何年か前にボーロ・パークで居候させてもらったこのハンガリー系ハシディックのユダヤの一家、27歳の長女リキから5歳のおしゃまなイェティー、イェシヴァで学んでいる黒い服の長男と次男、総勢9人の子供たち。泣く子には「もっと激しく感情を込めて泣きなさい!」というほど感情表現を大切にするブックスバウム家、このブックスバウム家の一員となったはじめの頃は、1時間も彼らと共に過ごせば、その声音の大きさと表現力に耳とアタマが痛くなった。とりあえずすべてにおいて、おなかのそこから感情が吹き出るのである。ボーロ・パークでのそんな彼らとの生活では、「笑う時は口に手を当てて!」の日本の音量が骨の髄まで染みこんでいる私は、なにかとよく注意されたものだった。

「チカ!笑う時は“うふふ”じゃないの!あっはっはっはっ!!!わっはっはっ!!!って、お腹の底から全身で笑うのよ!手を大きく振ったってかまわない!うれしい時も怒る時にも、もっともっと全身で感情を表現しなくちゃダメ!神との対話も感情を込めて表現する、これがハシディズムよ!」

そうはいわれても、20年以上もの長い時をかけて養われた、日本というなんとも曖昧グレーな表現環境の賜。ネガティヴであれポジティヴであれ、ポーカーフェイスの私にとっては感情表現は甚だ難しく、どうしたら思いのままを表現できようか。しかし、感情表現にはスパルタな彼らとの生活は、そんな自分の殻を破ってトランジションするための一種のセラピーだったのかもしれない。そんなブックスバウム一家のイスラエルへの旅。

当然、大勢いる子供たちみなを連れてくるわけにも行かず、今回はブックスバウム夫妻と長女リキと彼女の夫のモイシ、この4人だけの小さなブックスバウム家の旅となった。2年ぶりのなつかしく、かつエネルギッシュな彼らとの再会の夕食はとても温かで楽しく、まるでボーロ・パークへ里帰りしたようなひと時。しかしこの台風一家、わざわざ何時間も空と時を越えてニューヨークからこの砂漠の街まで遊びに来たわけではなく、「ある事」をするための訪問だという。「理論よりも感情」のハシディック、人の持つ神秘性を疑わない。その人柄とぴったりでふくよかなブックスバウム夫人は、エルサレムでの夕食のテーブルでにっこり笑って、こう言い切った。

「イスラエルには、観光や買い物なんて単なる楽しみに来たのではなくてね。そう、精・神・的・なことをしに来たのよ!」

それを耳にして、私はふと思い出したのだ。ボーロ・パークのブックスバウム家では、夕食後の子供たちが去った静かなキッチンで、ブックスバウム夫人が毎晩コンロ横でそっと蝋燭を灯していたことを。

「過去の偉大なるラビたちの精神を受け継ぎますように」

まさか、とは思いながらも、私も時々はそっとその炎を見つめながら、なんだか本当にラビたちの息吹きがまっすぐに天へと伸びる炎を伝い、すーっと地上の私たちの元へ降りてきているような、とても理屈ではない不思議を感じた。

イスラエルのいたるところに存在する遺跡の数々。もちろん史実とは無関係に何世紀も後に勝手に遺跡として建てられたものも多く、まあ、それはそれでまたおもしろいのかもしれない。エルサレムの旧市街のヴィア・ドロローサは、今から2000年も昔、イエス・キリストがローマ帝国によって罪人とされ、十字架を背負って歩いたといわれる道。このヴィア・ドロローサのある石の壁には、遠いあの日、背負っていた木製の十字架の重さに思わずイエスがついた手の跡が、あたかもハリウッドの路上のスターの手形ようにその記憶を残している。

実際にはこの旧市街は、イエスの時代から何世紀もの間に壊されてはその上にくり返し建てられて現在の街の形となり、当時のローマ時代の街はすでにその地中に深く埋もれていると知りながらも、ふーん、と、そっとその跡に触れてみると、なぜか少しドキドキしたりして。そんなくねくねと迷路のような石畳みの路地を滑らないように歩いてゆくと、十字軍兵士たちの夢の跡。

イエスが十字架にかけられたという、ゴルタゴの丘だと謂れのある大きなドームの美しい聖墳墓教会の地下へ降りる階段の石壁には、ヨーロッパからエルサレムへと足を伸ばしてきた十字軍の兵士たちが、ナイフで彫ったらしい数え切れないほどの十字架が、夜空を埋める小さな星のように今でも深く刻まれている。薄暗いその教会の階段で、ウソか本当か、その十字架の上にするりと指先をすべらせてみると、1000年近くも昔の兵士の姿がオーバーラップ。彼らはなにを思い、この十字架を彫ったのだろうか。

そして2001年までは、クリスチャンの巡礼の人たちでにぎわっていたベツレヘムの町の入り口にあるユダヤの「ラヘルの墓」。

「ヤコブの妻ラヘルはベツレヘムに向かう道の傍らに葬られた。
 そしてその碑は今でも残っている」

旧約聖書の創世記にそう記されているように、このラヘルの墓が軽く5000年ほども昔のものであるのか、その真相は今となっては誰にもわからない。それでも今日も世界中からたくさんのユダヤの女たちが、賢母ラヘルのようになれますようにとその墓へと祈り訪ねてくる。

ハシディック台風、ブックスバウム家御一行さまは、そのラヘルの墓やその他にも点在する旧約聖書にまつわるユダヤの史跡や、歴代の偉大なラビの墓めぐり、そして過去だけではなく現代のウルトラ・オーソドックス・ユダヤの街メア・シェアリムに生きる、ミスティックな力を持つラビたちに会うために、遠い東海岸からこの中東へと。しかもそれはいかにも彼ららしく、恐ろしいほどの強行スケジュールだった。

たった4人といえども、ブックスバウム一族は典型的なハンガリー系ユダヤ、限りなく底抜けにパワフルなのだ。そんな彼らの「スピリチュアル・イスラエル7日間の旅!」のハード・スケジュールに合わせて、翌日の、ベツレヘムのラヘルの墓参拝に私も同行することに。2000年の夏にこの墓を訪れた際は、ベツレヘムへと続く道のチェックポイントに銃を担いだフル装備の兵士、ピリピリとした雰囲気が流れていたが、今はどうだろうか。その前夜はちょっぴりワクワクと遠足前の子供の気分、珍しくさっさとベッドに入った。翌朝7時過ぎ、目覚ましが鳴る前に目が覚める。そろそろ起きなくてはと思ったその途端に、右腹にぐっと重い痛みが走った。

きゅー、ぐっ。

息をする度に肺の動きで痛む。あれれれ、へんだなあ。学生のころ患った十二指腸潰瘍のあたり、昨夜の夕食会でちと食べ過ぎたかな?しかし痛みは思いの他に一向に治まらず、残念ながらその日のベツレヘムへのミニ旅行は諦めることとなった。その日の午後近くには痛みはほぼ治まったものの、それでも痛みは時折思い出したようにきゅっ、きゅっ。なんだかヘンダゾ、ヘンダゾ。それから何日かが過ぎた日の午後、珍しく京都の父からメールが届いて、おやっ?なんだろう。

「元気ですか?」

戦前生まれの彼らのスター、高倉健さんよろしく感情をほとんど表現しない父のメールの用件名にしては、大変に珍しいことだった。少し躊躇しながら、恐る恐るメールを開いてみると、これまた珍しいことが。いつも元気な感情豊かなイタリア女のような母が、なんと重症の十二指腸潰瘍で数日前から入院したというのである。・・・あっ、わかった!先日の朝の私の腹痛はこれだったのだ。思ったことをなんでも瞬時に口にし、ストレスなどとは縁の無い人のように家族から思われている母。

しかし、そんな母でも、ハンガリー系ユダヤからすれば、まだまだ感情の抑えすぎということだろう。ここ数年の生活の変化諸々によって、いつの間にか溜まったストレスが痛みを引き起こし、それは時空を越えて、遠いこの中東まで知らせてきたのだ。そうだ、だったらこの際、しばらく母をボーロ・パークのブックスバウム家に預けて、リハビリさせてみるのもいいかも、なんて。

科学者や数学者は、目に見えることをデータで立証しようとする。どんどんと進んでゆくこの世の中で、人は取り分け目に見えないものには懐疑的になる。そして、それがどこかの神や仏あったり、宗教であったり、はたまたは魂と呼ばれるものであったりすれば、なおのことウサンクサイ。しかし、目には見えなくてもしっかりと存在していることもあるのではないだろうか。心と心のつながりは、決して数字に表れることもなく手で触れることもできない。しかし、それはしっかりと私たちのまわりで存在しているのだろう。

例えバカバカしいと思っていても、信じていれば誰かの手が何世紀を超えてどこかの壁にひょっこり現れるかもしれないし、遠く地球の裏側にいる人の痛みを感じさせることもあるのかもしれない。世の中には不思議なこと、ありえないはずのこと、もしかすると時間も空間も越えてあっちこっちで起こっているのかも知れない。ひょっとするとキッチンから天に延びた一本の炎だって、本当に彼らへとつながっているのかも知れない。