Saturday, September 18, 2004

エルサレムに海を作ろう - ためいき



いろんなことがあって、
なんだか溜息の出る日々が続いて。

イスラエルに生きる。

いつもどこかに悲しみがひょいと顔を見せて、
私たちをあざ笑う。

そしてその悲しみが薄らいで、
また笑顔に戻るころ、
また新たな次の悲しみがやってくる。

それでも毎日は何も変らずに過ぎてゆく。
だからイスラエルは海に面しているのだろうか。

地中海の暖かな母なる海がなければ、
きっとこの国はカラカラに渇いてしまう。
渇いて渇いて人は水を求めて彷徨い
豊かな土地を、いのちを奪いあう。

海の中では政治も何も関係ない。
子供たちは無邪気に遊んで、
大人たちもあの頃のように魚と波と戯れて。

だからやっぱりこのエルサレムにも
海を持って来るべきだったよね。
そしたらみんなケンカなんかしないだろうにね。

豊かな水のある街は
そこに生きる人の心をも潤し、
いのちの大切さを受け継いでゆく。

Friday, September 17, 2004

monochromeな記憶 - 電車のホーム



Fラインの電車に乗ってしばらくすると
空中遊泳のような電車内の前方に
広い空とともにマンハッタンが見えてくる

もう少し遠くの高いビルたちを眺めていたいのに
電車はそんな気持ちを知ってか知らずか
すすすすっと地下へ潜ってイーストリバーを越えて
マンハッタンへと滑ってゆく

6番街の14丁目で電車を降りて
長い地下通路をひたすら歩いて乗り換えて
次の電車はアッパー・ウェストへと私を運んでゆく

ブルックリンとマンハッタンの電車の旅
顔 顔 顔 かぞえきれない偶然
駅 駅 駅 かぞえきれないストーリー

同じ駅のプラットホームで
毎日ギターを弾(はじ)いていた
痩せた長髪の歯の欠けた中年男

彼が全身で弾きだすディランは最高だった
ちょっとナザレのかの人に似ていた

ある昼下がりBoro Parkへの旅の途中
その日は立ち止まって聴いてみたかった

いつものように「ちょっと電車を待つ間」
なんてことじゃなくて「ちゃんと好きなだけ」 

ディランが打ちつけられる

彼とギターとがひとつになり
プラットホームの床にリズムを刻む
迷いsoulのまっすぐなpower
プラットホームの柱に寄りかかり
踏みしめる足のリズムの響きを感じていた


ポール

そんな名前だと言った


この駅で弾(ひ)きはじめたのはいつだったかなあ
もうずいぶん昔からいるんだな、昔さあ
子供の時にね、もらわれたんだ
実の両親も、ユダヤ人だったけどさ
育ての親はね、これまた立派なユダヤ人の医者でね
そこんちで大切に育ててくれたんだけどさ
感謝してるよ

だけどよ、俺はね、
ほら、歯も欠けちまってさ
ある時、ジーザスを見出したんだよ
それでさ、それからここにいるのさ


そしてまたその男
ポールはギターを弾(はじ)いた

4本目のFラインが滑りこんで来て
ざわめきがギターと私に割り込んだ

右へ左へと沢山の色の頭は無表情で早足で歩き出す
薄くなったポールの長い金色の髪が見え隠れして
「えいっ」と流れとともに電車に乗り込んだ

ドアが閉まりかけ頭たちが慌てて駆け込んでくる
途切れ途切れにプラットホームの床をディランが走る

「ガシャン」とドアが閉まり車内一杯に響く
ケタタマシイニューヨーク訛りのアナウンス

ポールとギターと踏みしめた足のリズムが
モノクロのモノトーンに
音のないテレビのように
何も誰も関係なく
電車の窓ガラスから勝手に流れ続ける

今も流れ続けるあの日の記憶

Wednesday, September 15, 2004

あれから・・・ sorekara



2003年。あの日から2年が過ぎ、マンハッタンとおなじく、この砂漠の街エルサレムにも9月11日が訪れて、テレビの画面では去年よりも大げさな感をぬぐえないアメリカの特集番組が、繰り返しセプテンバー・イレヴンを語っている。

あの年の9月11日の午後、私は自宅から5分ほどのエルサレムの中心街へと、背の高いくすんだ色の街路樹以外には陽射しをさえぎられないベツァレル通りの坂を、歩いていた。9月はじめの砂漠の街の太陽は厳しく、額がうっすらと汗ばみながら、ちょうど坂を上がりきったところで、右の肩から斜めにかけたベージュ色のアメリカ製バッグのポケットが踊った。ポケットの携帯電話のスキップするような、軽やかな呼び出し音が鳴った。

「アロー?」

「ヘイッ!チカ!大変だ!ニューヨークのツイン・タワーが攻撃された!!攻撃されたんだよ!」

早口のニューヨーク訛りの英語で、友人の興奮した声が、耳の奥へ刺すようにして飛び込んできた。ジャーナリストの卵で、エルサレムの新聞社に勤める彼の握る受話器の向こうから、緊張と混乱が伝わってきた。カラカラと太陽の照りつけるベツァレル通りの坂の上で、なにがなんだかわからず、「どこのツイン・タワー?・・・」と、ピント外れな私。それから一瞬の間をおいて、ツイン・タワーのそびえるウォール・ストリートあたりのマンハッタンが脳裏に浮かび上がった。

それとおなじ頃のエルサレムでは、街のあちこちで次から次へと、政治に利用されたパレスチナの人による自爆攻撃が起こっていた。テレビにたびたび映し出される無残な爆発現場。骨組みのあらわになった黒く焦げた車の残骸や、アスファルトの路上に転がる体の一部が欠けた、赤い液体に染められた人々を運ぶ救急隊員たち。ユダヤの墓地での葬儀に悲しみ泣き崩れる人々の涙と静かな叫び。それとは裏腹に、あちら側では自爆の成功に銃を掲げ喜び踊る人たちの姿と、そして無残にも自爆してしまった失った子への母の嘆き、またはジハードのために殉死者となった子への喜び。またはその双方への政治批判や支持のデモ。

できることならば目を背け耳をふさぎたいような現実のすべてがそこにあるようで、しかし、それでも不可解なことに、すべてはまるでまったく遠い別の世界での出来事のように、この砂漠の街の日々の生活は、淡々と暮れては明けるだけだった。そんな砂漠の街エルサレムの日々。肩から銃を提げ、空港で見かけるような細長い金属探知機を、若いカップルや買い物客の身体に当てるセキュリティー・ガードマンの姿が、街なかの流行のカフェやレストラン、さらにはスーパーの入り口に「必須アイテム」として見かけられるようになった。

「なにか武器は持っていますか?」

目を血走らせ、爆弾をお腹にくくり付けた人間魚雷のような狂気には、かなりマの抜けたようなこの質問。街のいたるところで見るようになったセキュリティ・ガードの多くは、この土地へ移り住んできた人のよさそうなコーヒー豆のような光沢の小柄なエチオピア男や、ここ何年かで急速にエルサレムの通りに溢れはじめたロシア語の金髪に青い目の若者たち。命との引き換えのシェケルは、ゼロからの出発をやむを得なくされた移民の人々を惹きつけるのだろうか。それとも、守るべき家族も職もあるエルサレム人は就くべき職ではないのだろうか。カフェの前で、レストランの前で、Barの前で、スーパーの前で、心なしか不安げに椅子に腰掛けた彼らセキュリティ・ガードの姿に、なんだかとてもやるせない思いが行ったり来たり。しかしセキュリティ・ガードがそこにいようがいまいが、よほどの用事がないかぎりは、私は街のカフェなどにうかうかと足を運ぶことはなかった。

「いつ爆破するかわからない」異常な緊迫した空気の中では、カップを持つ手が震えそうで、心臓に毛でも生えていなければとても甘ったるいミント・ティーやアラブ・コーヒーの味など楽しめるわけがない。おなじお茶をするのなら、武装していない紳士とロマンチックにデートで楽しいほうがいい。この砂漠の街でロマンチックなお茶といえば、あの当時、エルサレムの中心街のキング・ジョージ通りとヤッフォ通りとの交差点に、スバロというファースト・フードの店があったことを思い出す。アメリカ出資のそのイタリアン・ファースト・フードの店は、場所柄もよく、連日お昼時にはアメリカからの観光客やアメリカ・ナイズドされたい地元の買い物客、そしてデートやお見合いの最中だとすぐにわかる、ウレシハズカシな若い人たちの姿でいつも賑わっていた。しかし、安さとサービスとそこそこの味が売り物の、日本やアメリカのファースト・フードに慣れている私には、この街ではマクドナルドなどアメリカ系のファースト・フードはバカ高いだけでさほどおいしくもなく、何度か友人に誘われて足を向けてみたスバロもその例に漏れずだった。もしそれがロマンチックなデートだったら、不味いものでも芳香豊かで美しいバラ色の味なのだったのかもしれなけど、もう箸が転がってもぜんぜんおかしくもない齢の女同士じゃ、不味いものはどうしたって不味いからしょうがない。

そして2001年のあの日、世界中がまだ9月11日の驚愕から覚めやらないころ、いつものように昼食を摂る客たちで、溢れんばかりのスバロの午後2時過ぎ。通りから店内がよく見える大きなガラスの壁は、あっと飛び込んできた若い男と共に粉々に吹き飛ばされて、通行人を含む100人を超す死傷者が出た。当然、その若い男はお腹に巻きつけていたらしい爆発物で幾千の欠片となって飛び散り、スバロの入り口があった往来の激しい埃っぽいキング・ジョージ通りは、キラキラと粉々になったガラスの破片と、血に赤く染まりバタバタと倒れた人々で埋めつくされた。街路樹と雲ひとつないイスラエル・ブルーな空を割るように、救急車の赤いサイレンがけたたましく叫び、ついほんの一分前までは賑やかなで幸せの象徴のようなスバロは、もうその原形を微塵もとどめてはいなかった。

あの日、それとほぼおなじ時間に、爆破前のスバロから100メートルほどのバス停にいた私。午後の砂漠の強い日差しに喉が渇いて、近くのスバロに飛び込むと、カウンターで紙コップにイスラエル風のミルク入りの甘ったるいアイス・コーヒーを受け取り、またバス停へと戻ると、ちょうど知人のアロンが、私とはちがう行き先のバスを待っていた。

「今日も暑いね」

なんて、いつものようにたわいもない砂漠の街での会話。するとバス停を通りかかった車の窓から、別の友人が私を見つけて「おーい!乗ってくー?」と手を振った。目的方向のちがうアロンと「じゃあね」とそのまま別れて、私はほんの10分ほどの差であの大惨事に巻き込まれずに。夕方になって仕事を終え、帰路に着いた時には、まだスバロの惨事はまったく知らず、やけに渋滞した通りが物々しいなあ、どこかで交通事故でもあったのかな、なんて、帰宅後に留守電に入っていたニューヨークからの「生きてるかい?」のメッセージで、はじめてその惨事を知ったというノンキさ。爆発の恐ろしさとほんの10分ほどのミアミスにぞっとして、この街で生きることへの緊張感と脱力感の両方が体中に走った。それから私は急いで受話器を取ると、エルサレムに住む近しい友人たちの番号を押し、みな無事だったことにほっと胸を撫で下ろし、そしてはっとして、あの時刻にバス停で別れたアロンへ、電話番号を押す。・・・プルルルルー、・・・プルルルルー。

「・・・アロー?」

あ、繋がった!

私とバス停で別れた後、しばらくしてアロンは右の耳にすさまじい爆発音が響き、その次の瞬間には路上に突っ伏していたという。幸いなことに、さほど大した怪我もなく、しかし身体に重い痛みを感じながらも起き上がってみると、あたりは地獄のように赤く血に染まった人たちが倒れ、すでに息絶えたとわかる転がった人の身体もあった、とアロンの声は途切れ途切れに震えていた。それからしばらく彼は耳鳴りに悩まされ、カウンセリングへ通っていた。それから後日に、そのスバロの惨事に巻き込まれた人々の体験談が、新聞やニュースで伝えられ、あるニューヨークのユダヤの男性の話がとても印象に残った。

この男性は9月11日にマンハッタンで崩れ落ちたツイン・タワーで一命を取り留め、その恐るべき体験をきっかけに、命と家族への感謝をしっかりと痛感し、かけがえのない家族とともにユダヤの人々の心の故郷であるエルサレムに訪れていた。そしてその矢先、彼はエルサレムの街角でスバロの爆破に遭遇し、そして幸いなことにまたもや一命を取り留めたという。マンハッタンとエルサレムでそんな体験をするなんて、本当に人の命はどこでどうなるのかはわからない不思議なもの。

マンハッタンとエルサレムの悲劇からしばらくして、2001年10月の半ば。私は混沌から混沌へと、セプテンバー・イレヴンの爪跡もやっと少しばかり片付きはじめたばかりのマンハッタンにいた。

「まさか君はモサドで働いてるのかい?エルサレムにマンハッタン、まったく君の行くところはテロに爆発ばかりだね!あははは」

イタリアのフランチェスコがそう冗談で笑うほど、好んで爆発の起きる街を渡りゆくわけではなく、いつもイスラエル出国時にベン・グリオン空港で不審がられるような、秘密結社のスパイでもなければ爆弾魔でもなく、「コーゾー・オカモト」とイスラエルのその世代には知られた名と関係があるわけでもない。ただ、今にもプチンッと音を立てて切れそうな、憎しみと悲しみと恐怖、ずる賢い政治の駆け引き、気の休まることのないエルサレムでの生活に疲れて、どこかで少し息をつきたくて。

しかし疲れきった私には、文化もなにもかもが異なる中東から数年ぶりで土を踏む日本では、日本を訪れるたびに例外なく対面する強烈なカルチャー・ショックに対応できる余裕があるかどうかさえもわからず、母国で実家に長居をすればついつい余計な里心も芽生えてしまう。そこで親に甘えるのが極端にヘタな私は、その時ローカリゼーションの仕事でかかわっていたテル・アヴィヴのオフィスの小さなマンハッタンの共同オフィスへと、1ヶ月ほどそちらに羽をやすめにゆくことにした。久しぶりにニューヨークの友人たちにも会えると思うと、それだけでも少し心がうれしく軽くなるように思えた。

3ヶ月のヴィザと鞄ひとつで降り立ったJFKから、何年かぶりのマンハッタンへと。馴染みのあるアッパー・ウェストのコロンビア大学近くにアパートを借りてみるものの、そのころのマンハッタンは、ツイン・タワー跡の近辺はまだ地下鉄も開通できず、地上では焼け跡からの灰色の煙が鼻の奥で気味が悪く哀れだった。そんなマンハッタンの住人たちはそれまでの「君は他人だ、僕には関係ないよ」といったマンハッタン気質を少し思い直して、どことなく少しだけ人らしくやさしくなったように感じられたが、それでもやはりマンハッタンはマンハッタンだった。そこで私ははじめに予定していたマンハッタンの、その見知らぬオフィスではなく、橋を越えたブルックリンのユダヤの街ボーロ・パークの友人イツホックを訪ねた。そして彼の好意で、彼が経営するオフィス・Cの片隅に机をひとつ貸りて、そこからテル・アヴィヴへと仕事を送ることになった。

つくづく持つべきものは星の数ほどの顔見知りではなく、一人でも真の友。そしてインターネットと鞄にコンピュータひとつ、世界中どこからでも可能な仕事に、誰にか知らないけれどとにかく感謝する。それからの毎日、お昼近くに、マンハッタンのアッパー・ウェストから地下鉄に乗ってブルックリンのボーロ・パークへと、そして深夜近くにブルックリンからまたマンハッタンへと、なぜだか私は群れる魚の中を一匹だけ逆流する奇妙な癖があるらしく、物価の安いブルックリンに住みながらマンハッタンの高層ビルのオフィスへ通う人の多いニューヨークで、ひとり、いつもその波を逆行していた。

そんなニューヨークでの新しい生活で、深夜おそくにオフィス・Cで仕事のを終えて、ボーロ・パークからマンハッタンへ帰る途中。毎夜のように眺めたマンハッタンの夜景は心に悲しく焼きついて、三百六十五夜、休むことなくキラキラと耀き続けるその光がとても寂しく、どこか止め処もなく空しくて。人の奢りと愚かさが凝縮されたようなその大きな街の灯りをいく夜もひとり、タクシーの窓から、またはがらんとした夜のFラインの電車の窓から、ただただ、非現実的で幻想的な夢の中のワンシーンのように放心したように眺めていた。あの文明のパワーと愚かさの両方を感じさせる心の冷え切った光景は、おそらくこれからもずっと心の片隅で忘れられないだろう。

そしてそれから1ヶ月近くが過ぎ、オフィス・Cでいつのもように、イツホックや他のオーソドックス・ユダヤな顔ぶれたちと無駄話をしていた時のこと。イツホックが少し怒ったように、不意に切り出した。

「以前からこのことを聞いてみようと思っていたんだけど、君はこのニューヨークに来る前に、あの状況のエルサレムにいたんだよね。そして今も、向こうではあちこちで毎日のように爆発が起きているんだろう。なのに僕がその話を持ち出しても、いつも君はそんな話にはまったく興味がないかのように振舞うのはどうしてなんだ?仮にも君はあの街に住んでいたのだろう?今もあちらにいる人たちにシンパシーは感じないの?少し君は冷たいんじゃないかと思うよ!」

いきなりの問いに、戸惑いを感じた私。そして少し、考えた。

「・・・それは・・・話したくないのじゃなくて、話せないだけ。そのことを客観的に話すには、まだつらすぎるから・・・」

まるで自分自身に語りかけるようにうつむくと、その時、つまり、「エルサレムに帰れない」自分がいるということに気がついた。エルサレムを離れてから、ボーロ・パークのオフィス・Cでイツホックに尋ねられ、はじめていかにエルサレムの現実の歯車が狂い出していたかを、実感として掴みはじめることができ、ふたたびその奇妙な現実の中に身を置くことを拒んでいる自分を、ようやく少しだけアナライズできるようになっていた。帰りたくもあり、帰りたくない。そんな宙ぶらりんの「エルサレムへ帰れない私」は、すっかりベッドで眠るためだけになっていたマンハッタンのアパートを引き上げることにした。

悲しいマンハッタンよりも、エルサレムに帰れない心に傷を負った私に声をかけてくれたボーロ・パークのハシディックの友人、ブックスバウム家でしばらくお世話になることにした。ブックスバウム夫妻と9人のティーンズの子供たちとのオーソドックス・ユダヤの家庭での生活は、まるで女子高の寮のようなにぎやかさで、家庭という温かい懐に包まれたボーロ・パークでの日々がすぎていった。そして3ヶ月のヴィザも切れかけたころ、イツホックと私、そしてもう一人の友人と車でモントリオールとへ、結婚式に出かけることになった。

冬のニューヨーク州を北上しモントリオールでの一泊の短い旅を終えて、カナダからアメリカへふたたび入国しようとしたアメリカ側の国境で、意外にも背の高い入管のオニイサンは、私のテル・アヴィヴの日本大使館発行のパスポートに不振を感じたらしかった。しかしそれ以上に、筋金入りのオーソドックス・ユダヤの風貌の黒い服の男二人と、日本人の若い娘、というコンビネーションが、どうにも納得行かなさそうな怪訝な眉間のしわ。入管のオニイサンは私のアメリカへの再入国を認めず、思わぬ足止めを食らうことになりそうな険悪さにさて困ったなと、顔を見合すアヤシゲなボーロ・パーク三人組。

「なぜあなたは現在の居住国であるイスラエル、または母国の日本に帰らないのですか?アメリカへの再入国の理由は何ですか?」

そう早口に神経質な眉間で睨まれて、顔が熱くなるのを感じながら口ごもる。イスラエルに戻らない理由を、この見知らぬ眉間のしわの若い男性に順序だてて話すことは難しく思われた。

「それじゃあ、カナダに戻ってもらいましょう。アメリカへの入国は認めません」

「・・・そんな!カナダに戻れだなんて!今私が滞在しているのはニューヨークなんですよ。カナダに戻っても・・・」

「それは僕の関与することではありません」

ごもっともな言い分ですが、どうしたらいいのだろう・・・・。思わぬ事態に困惑し顔を赤くしてイツホックの顔を覗き込むと、彼はあご髭をすっと撫でた。

「入管係りさん、あなたはセプテンバー・イレヴンを覚えていますか?ほら、あのツイン・タワーが崩れ落ちた日のことを」

「もちろん!私はアメリカ国民だ!どうやったらあの惨事を忘れることができるのですか!たくさんの人が亡くなって、悲しい悲しいことだった。今でもみんな悲しんでいるさ!」

そう興奮したように、オニイサンは肩を持ち上げるジェスチャーをした。

「そうですね。あのような惨事を忘れることはできない。しばらくアメリカ国民はあの日の痛みを忘れることもできないでしょう。あなたもそうおっしゃるように。だったらこんなことはどうでしょう。もしあなたがあのマンハッタンに住んでいて、あんなに恐ろしいことを経験したら?またすぐにマンハッタンに戻って、何事もなかったように生活できますか?私にはできないかもしれない。私の住んでいるブルックリンから、歯の抜けたようなマンハッタンを見るとつらくてね・・・心が痛むよ。この私の友人も、あのテロの起こっているエルサレムに戻るにはもう少し心のリセットが必要なように思えるんですよ・・・」

入管のオニイサンは、黙って私のパスポートに新しい3ヶ月のヴィザを押した。

そうして無事に戻ったボーロ・パークでの生活の中で、心に少し健康を取り戻しはじめた春の日。ユダヤの暦では過ぎ越しの祭りも近い3月の終わり。ボーロ・パークの温かさに甘えていつまでも心の整理をしないわけには行かず、かつてユダヤの民がエジプトを出発しイスラエルを目指したように、過ぎ越しの祭りの前までにエルサレムへ戻ろうと決心した私は、ニューヨークに降り立ったときよりもひとつ増えた鞄とともに、まだ少し不安な心情ながらも、JFK空港の搭乗口をテル・アヴィヴへとくぐった。

数ヶ月ものあいだ、なんの見返りも望まずに迷い子の私を居候させてくれたブックスバウム一家とイツホック、そのほかの何人かの友人たちに、本当に有り難いと心から感謝しながらふたたび帰ってきたエルサレムの街は、想像をはるかに超えて、マンハッタンへ旅立った半年前よりにも増してひどいものだった。どこもかしこもザラザラと粗く埃っぽい砂色で、街の中はどこもかしこもゴースト・タウンのような、死んだ風が吹きぬけて舞う埃と塵と砂に、潤いをとり戻しつつあった私の心は、途端にまた砂漠色に乾いてゆくようだった。新市街の目抜き通りのヤッフォ通りで偶然にすれちがった友人Aは、「ここはまるで戦場だよ!」と一言、吐き捨てるように嘆き、目の下の大きな隈のやつれた表情で首を左右に振った。

その言葉のとおり、カフェやレストラン、服屋の並ぶヤッフォ通りのビルの屋上には、オリーブ・グリーン色の軍服を身にまとったイスラエル軍の若い兵士が自動小銃を構え、通りの不審者に目を光らせて、それはまるで道行く人々を狙っているようにさえ感じられた。以前あふれかえっていた若いアメリカからの移民や学生たちは、すでにそんな悲しい色のエルサレムの街を去り、それは職を失ったり、あるいは不意にいのちが終わらされたことによって、またそれを避けるために、だった。恐れと悲しみだけがグルグルとこの街を粗く取り囲んで、キリスト教の巡礼者や、旅人、街角で白い布をまとい十字架を掲げ、凡人の私にはまったく理解できないことを一人で熱演していた典型的なエルサレム・シンドロームの、あの白髪の混ざった長い髪の男すらもその姿を隠し、旅人目あてのみやげ屋やレストランのショーウインドーは、長いあいだきれいに拭かれた様子もなく汚れて曇っていた。

窓やドアには「閉店」と貼られた紙がポッカリとカラッポの砂漠の街エルサレム。それでもこの街に残るしか術のないエルサレムの人々は、なんとか希望を持って生きようとしていた。希望、それなしでは途端に呆気なく崩れてしまうような、そんな張り詰めたもろい細い糸のような空気が、エルサレムには流れていたから。絶望の中でも希望を持って生きるということ、ここではただそれしかほかに生きのびる道はないように思われた。

それから何度目か9月が過ぎて。キング・ジョージとヤッフォ通りの交差点で、たくさんの人の夢と希望と未来とともに、数え切れないほどの細かな欠片となって飛び散ったスバロは、同じヤッフォ通りの旧市街に近い場所に移転して、新しいスタートを切った。ゆっくりであっても、ふたたびロマンチックな若い人たちの笑い声が、この砂漠の街に新しい未来の夢を運ぶ。レストランやカフェの入り口に腰掛けていたセキュリティ・ガードの姿は、少しずつその姿を消しはじめ、歩行者天国のベン・イェフダ通りには、また以前のように賑やかに夏祭りの夜店の電灯が揺れはじめた。人々はもうあの重苦しい日々を忘れたかのように、目先のことに気をとらわれ、日常は流れてゆく。

あの時、ブルックリンから眺めたマンハッタンの煌々たる夜景は今も空しく存在してるのだろうか。それともそんな空しさなどは幻想でしかなく、いつもと変わらずにキラキラと輝いているのだろうか。テレビでは今年もセプテンバー・イレヴンがまるで現代を象徴するなにかのように語られる。あの日、たくさんの命と未来がまったく無意味に失われてしまった。そして今でもこの国でもたくさんの命が失われ続けている。あの日の灰色の空と涙と叫び声に、あれから世界はどう変わったのだろう。世界はどこへ行くのだろうか。そして私はあれからなにか変ったのだろうか。