Tuesday, August 23, 2005

夏休み




レモネード、レモネード、ひとつ、ひとつ、どうぞ。クッ。

はい、レモネード、レモネード、ひとつですね、どうぞ。クッ。

いま異邦人のオネエサンが1シェケルくれました、どうぞ。クッ。


水にレモンを絞ってお砂糖が入っただけのレモネード。
おいしかったよ、小さなスパイさん。

一人の友

ボーロパークに住んでいた時にイツホックのオフィス・Cで、なぜだったかこんなハシディックの話をしていたのを思い出しました。


ある町の裕福なユダヤの男はいつもたくさんの人に囲まれていて、とても友の多い自分をうれしく思っていました。

ラビはその男にこう言います。

「人は君に惹かれているのではなく、財産のある君に取り付きたいだけだよ。そして人とは、何も問題のない時には傍によって来るものだよ。でも君がトラブルに巻き込まれた時になって初めて誰が本当の友かを知るだろう。お金などの財産よりも千人の取り巻きよりも、一人の信頼できる友を持ちなさい。それが本当の君の財産となるでしょう」

男はラビに言いました。

「いえいえ、ラビよ。彼らはいつだって絶対に私を助けてくれるでしょう。私にはすでにこんなに人気者でたくさんの友人がいるのですよ。誰も裏切るわけがない。財産だってこれほど豊かなのですから足りないものなどありません」

ラビは男に言いました。

「それではこれから牛の血をあなたの手と衣服に塗り、
 助けてくれと言って友人の家々を回って見なさい。
 しかしほとんどの人はあなたを門前払いするでしょう」

男は笑いました。

「いいですとも、ラビ。やってみましょう。私は自身がありますからね」

男は牛の血で染まった衣服と手で町を歩き、笑顔で友人たちの家のドアを叩きました。しかし血の付いた男を見るなり友人たちは顔色を変えて、男を家に上げるどころか「見たこともない知らない人だ」と言ってドアを閉めました。また一軒、そしてまた一軒、男は門前払いを食らい、誰もが彼に背を向けました。

男はうなだれました。そして叩くドアはあと一軒だけが残っていました。男はいつもは相手にしない貧乏な家の男のドアを叩きました。

ドアが開いて、貧乏な男は血に塗れた男を見るなり辺りを見回すと、すぐにドアを閉めました。そう、男を家の中へと上げてから。

貧乏な男は居間の椅子に男を腰掛けさせると「友よ、どうしたのですか。どうしたらあなたを助けることが出来るのでしょうか」と心から男に問いかけました。

男は貧乏な男の手をとりました。

「私はなんと愚かだったのだろうか。助けを求める時に誰も彼も私を家に入れてくれるどころか冷たく門前払いだよ。ああ、ラビの仰るとおり、人というのはそんなものなのだったのか。千人の取り巻きや財産よりも、たった一人でも心から信頼できる友を持つことの価値を知ったよ」


今も昔も、本当に価値のあるものが迷わされてしまう。

Monday, August 22, 2005

50%に追い込まれて

ガザ撤退の様子が毎日テレビから流れて、その土地を追われる人も追う人も共に涙を流していた。追う追われる、どこかで読んだ「占領イスラエルにどこまで追い込まれたらパレスチナの人は自爆するという行為に出るのだろうか」という文をなぜか思い出した。

今日は午前中にバスで20分ほどの町にある税務局へ。空は藤色に乾いて、暑いと言えども日陰に入ればそよそよと涼しい風。汗をかかないうれしさ。日本はきっとまだ蒸し暑いのだろうかと遠くの祖国の夏を思ってみる。 6月に仕事を依頼された企業がやっとこさ、その報酬を払ってくれると先日電話がかかってきたことで、税務局の登場となった。

「もしその給料額に税金を払うとしたら、ナン%?」

そう電話越しに6月の企業に尋ねると税金は給料の額云々で変わってくるらしいとのこと。

「あなたの場合は50%ね」

50%!!!それって最高納税額じゃないですか、異邦人の私が手にするのはそんなに偉そうな金額でもあるまいに・・・。それにしてもなにゆえに自分の働いた半分を差し上げねばならぬのよ!その見返りは何ぞや?と、これまでもなんとかあの手この手で税金を納めずにやって来たのだから、今さら50%も取られてはなんだか余計に悔しいので、これはやはり税務局にLet’s go!

バスにゆられて税務局に行くも、去年までの係りのおじさんは不在。クビにでもなったのだろうか、エチオピア移民のような中年のおばちゃんがそこにいた。あらら、困ったなあ英語は通じそうもない。カタコトのヘブライ語で何度も説明するも、向こうの思い込みとでこちら専門的な語彙の少なさから意思は通じず、埒が明かないのでまたまた出直すことになった。 50%ねえ・・・。このまま黙って引き下がるのはくやしいなあ。

何にしろこの国に来てからというもの、お役所仕事は何事も一回でスムーズに行った例がない。ヴィザ一つ更新するのにも何ヶ月も役所へ行ったり来たり、終いには担当者が書類を失くすなんてことには何の後ろめたさもなければ日常茶飯事的に起こって。ヴィザを出してもらわないと困るという弱みを握られたような異邦人は無駄に時間と気力を費やして、担当者の尻拭いかのようにあちこちをぐるぐる駆け巡らなければならず、あっかんべー!おまえの母ちゃんでべそ!でも食らそうか、そのストレスはかなりのものに。でもだからと言ってジバクしようとは思わないもので、でも税務局ならばこっそりとバクダンの一つくらいは落としてみようかなんてね。きっとこの国のみんながスカッ!とするだろうから。

無駄足の税務局からの帰りにマハネ・イェフダ市場でバスを降りて、空っぽの冷蔵庫君を満たすようにあちらこちらの店先へ。肉屋や八百屋など庶民の台所を預かる店の店員の多くはパレスチナまたはアラブの人たち、カウンターの中ではユダヤの人と同じように白いエプロンをして、彼らのアラブ訛りのヘブライ語を耳にしなければスファラディーやミズラヒと呼ばれるユダヤの人たちとそれほど顔の濃さは異ならない。店店の客もユダヤの人が多いけれど「お前は憎きシンリャクシャのユダヤだ!」「お前はアラブだパレスチナだ!ここから出て行け!」といざこざが起きるわけでもなく。目に見えそうで見えなさそうな境界線のこちら側とあちら側、東エルサレムに住みながらもこちらの街でもユダヤと共に暮らしている。旧市街で喫茶店を営むパレスチナ一家も不平等に対しての不満はかなりあるものの、それでも息子を大学へやり、それなりに暮らしている。

それでもやはりパレスチナ自治区の日常はイスラエルのアラブの人たちとはまた異なるかもしれないけれど、それでもヤッフォ通りのマーク氏のレストラン「あっぷする~と」へとチェックポイントの裏道を通り抜けてこっそりと働きに来ていたパレスチナ青年のハリル。若い彼は先の見えない自治区の生活に追い詰められていたけれど、今も向こう側で何とか元気、時折こっそりと裏道を通り抜けてはこちら側へやって来る。そんなハリルだって、一歩間違えばバクハツブツを抱えて抜け道を走り、マーク氏のレストランをドカンとするなぞ簡単なこと。

人は敵対する人に「追い込まれたら」どうなるかというよりも、その時に間違った愛国心を掲げた同胞に「洗脳されないよう」に、ではないのかなあと思いつつ、ピンクとブルーのビニール袋を両手に提げて帰って来た。

さて、税金50%と追い詰められても誰も私に「国民の敵、憎き税務局をバクハセヨ、すれば君は天国へゆき、ハーレムが待っている」 と甘くまじないの言葉をささやきかけてはくれないので、仕方なし。払うべきか、それともどこかに抜け道を探すべきか。

Sunday, August 14, 2005

2005年のディアスポラ

2005年8月14日。数日前のこと、夏祭りの後の夜道のようにゴミやチラシの散らばるヤッフォ通りをマーク氏のレストランへと向かう。

ガザからの撤退で揺れるイスラエル。街の中では賛成を唱えるブルーと反対を唱えるオレンジのリボンがはヒラヒラと車のバックミラーに、学生の鞄に、手首にとはためいて。

何世代も渡りエルサレムに住む家系の友人シギーがガザ撤退に反対して嘆きの壁で行われる祈りに参加するというので、私も写真を撮りにカメラを持ってまだ明るい6時半過ぎに自宅を出て旧市街へといつものように歩いて向かう。なんらいつもの日常と変らない新市街を抜けてヤッフォ通りに出ると、あちらこちらからオレンジのTシャツを着た若者や中年、バックにつけたりボンのロングスカートの高校生などが目指すは一路、嘆きの壁。

もう少し早めに家を出るべきだったと思うも遅し、オレンジの人の波を縫ってタッタカターと旧市街へとヤッフォ門をくぐる。石畳の旧市街に入るとオーソドックス・ユダヤのハバッド派が「メシア」とヘブライ語で書かれた黄色い旗を振りながらにこやかにオレンジ色の人たちに混ざり歩いていた。嘆きの壁に向かう人たちの流れに押されながら細いアラブ市場の石畳を降りてゆくと、そこから壁へと続く道はすでにおしくら饅頭。乳母車を押しその反対の手で幼い子供の手を引く若い母親たちの姿が多く、子供は人ごみに揉まれるは退屈するはで、こんなところに連れてくるのは大人の身勝手かと思いつつも、ベビーシッターもそうなかなか雇えないのだろう。

壁へ向かう横道へ逸れてみるも、もうどこもオレンジの人でいっぱいで、壁には到底近づけない。オレンジのリボンを額に巻いた若いイェシヴァの生徒風の男がオレンジの紙を手に立っていた。「シャロンは辞任すべし!」そう書かれた紙を壁に向かう人々に手渡している。少し離れた花壇の上からその男の写真を撮っていると太っちょなおばちゃん、うれしそうににっこりと。

「Good! Take some more pictures! You speak English? 」

いかにも典型的なアメリカ移民の太っちょなおばちゃんはガザのグシュ・カティフ入植地がどれほどすばらしいかを英語で歌ったCDを自費出版したから買ってくれないかというのを「がんばってねー」と買わずにさよなら。ずっとずっと砂漠だったあの土地に緑を植えて開拓し町を作り、政治的にはどうであれそこを今去らねばならぬみなにはそれぞれ色々な思いがあることだろう。

日が西に傾いて、嘆きの壁の前からゆっくりと静かに祈りが響きはじめる。壁の前の広場、壁に向かう階段、通り、旧市街のユダヤの街は一体となってこれからのイスラエルとユダヤの人々の未来を祈る姿。大人の壁に挟まれてつまらなさそうに小さな子供がニット編みのキパを頭に乗せた若い父親に尋ねる。「偉いラビはどこにいるの?今日はどうしてみんなで祈るの?」

エルサレムの空に静かな祈りが揺れはじめると、人ごみの苦手な私は細い石畳をアラブ市場へ向かって歩き出す。アラブ市場の屋根の上の広場の上につくともうそこまでは祈りの声は届かない。そこからすぐそばの壁にあれほどたくさんの人たちが祈っていることすらまるで夢のようなエルサレムの夕暮れに吹きはじめる冷やりと心地よい風。昼間は風のないこの街も夜には夜には風の街へと異なった顔を見せるエルサレム。この屋根の上までも彼らの祈りが届かないのならば果たしてそれは一体どこまでならば届くのだろうか。風は祈りを遠くまで運んでくれるのだろうか。

屋根の上の広場では、桃色にそして青く染まった空に凧揚げをしている黒いキパのユダヤの少年がひとり。凧は鳥のように空高くすーっと風に乗って。政治も宗教も、そして祈りも関係なくエルサレムの風を受けて高く高く空を舞う。灰色の長細い猫が凧を見上げている私の前をひょんひょんと「人はおろかなものよ」とでも言いたげに知らん顔をして通り過ぎる。

旧市街の空がすっかり紫色に変わって、少年は器用に凧の糸をクルクルと手繰ると吸い寄せられるように降りて来た凧を手に、どこかへ行ってしまった。

祈りを終えてヤッフォ門から旧市街の外へと向かう人たちを避けて私は閉められた商店の閑散とした人影の少ないアラブの町を通り抜けてダマスカス門へと出てみると、そこにはイスラエル兵士と警察の姿があり、パトカーも待機している。しばらくすると同じようにヤッフォ門を避けてこちらへ回ってきたユダヤの人たちの姿も途切れることなく数を増しはじめ、近道に東エルサレムの大通りへゆこうとする黒い服の男たちに迂回せよと兵士たちは行き先を規制する。誰であろうとユダヤの人は理由抜きに迂回せよという典型的な強引さの兵士と警官の態度にうんざりしたように黒い服の男が「腕を放せ!俺は行きたいところへ行く!」と叫ぶと、警官はさらに力強く男の腕を引っぱり背中を押す。

男と警官がもめている背後をアラブの住民は「我れ関せず」とダマスカス門から旧市街へといつものように門をくぐる。

「そうやってイスラエル政府が、同じユダヤでありながらこの国でのユダヤの行動を規制すればするほどこの国は自滅の道を行くんだ」

そう言った黒い服の男の言葉の意味を考えながら、私はヤッフォ通りのマーク氏のレストラン「あっぷする~と」へと夜祭の後のような夜道を歩いてゆくと、おやまあ、「あっぷする~と」には嘆きの壁からの帰路の途中の腹ごしらえと満席で、カウンターに列を着いて待っているほどに。とりあえず、この夜の祈りがポジティヴに働いた人がひとりでもいたことを知った瞬間。店の入り口からカウンター内のマーク氏に手を振る。

「シャロームシャローム、チカ!腹減ってる??ん?」

いやいやもちろんお腹はすいてますが、それよりもマーク氏よ、あなたのレジの中をいっぱいに膨らましてください。一歩足を踏み入れた「あっぷする~と」はうーん、荒れてますなあ。テーブルの上には前のお客さんの残したサラダやコーラの缶、ナプキンやらなんやら、床の上には赤紫の小ナスの漬物が落ちてますよ。あらあらとなぞのトルコ人ハッサンを探してみるも彼の姿は見えず、マーク氏はオーダーを取ってあげてレジを叩いてとテーブルどころではない。ひょいっとキッチンを覗いてみればムハンマッド君はのんびり~っと食事中でチキンを詰めたピタを頬張って。それではとにかく鞄を置こうと店の奥のマーク氏の部屋のドアを開ける。うわっ、びっくりした!黄色いひよこのように元ニューヨーカーのモシェが電気の消えている暗いマーク氏の部屋でベットにちょこんと座っているではないか。

「ハ、ハ、ハ・・・ハイ!モシェ!・・・・何やってんの? 」

「僕ちゃんの大好きなロシア番組見てんのさ。だって、今夜は客が多すぎてさ、落ち着いてテレビ見れないんだよね。まったく邪魔なんだよなあ」

「あは~・・・、エンジョイ!」

あ、あ、びっくりしたよ。でもここは、い、ち、お、う、レストランだからね、客が多いほうがマーク氏のためにはいいんですよ、モシェさん。気を取り直してハッサンのスプレー片手にシュッシュ、サッサッ。テーブルやカウンターの上を片付ける。

「おー、お嬢ちゃんよ、ポテトまだ?うちの子がさっきから待ってんだけど~」

ちょっとごめんよ、マーク氏よ、ポテトだって。え?そこら辺の小皿に適当に盛って持ってってくれって?はいはいはい。それにしてもお嬢ちゃんと呼ばれる年ではないぞ。まあ中東の人は老けてるからニッポンジンは若く見えるのだろうけど・・・。走行してマーク氏を手伝っているとさすがにキッチンのアラブ君も申し訳なさそうに思ったのか、私の後を金魚の糞となって片付けた後のテーブルをなんとなく拭いてみたりと。

さてと、やっと客足も引いて、なんだか祇園祭の夜などを思い出しながらマーク氏の焼いてくれたチキンとピタを食べようかと、テーブルに腰を落とすと、嘆きの壁の前まで行くといっていた友人のシギーが「やっぱりここにいると思ったんだよね」と言いながら「あっぷする~と」に入ってきた。シギーは混雑を予想して早めに家を出たらしく壁の前まで行ったそうだが、とんでもなくたくさんの人で身動きができないほどだったらしい。

「あれ?だったら上から撮った写真に写ってるかもよ?」

どれどれ、とデジタルカメラをマーク氏の部屋の鞄から取り出して、モニターで見てみる。

「あー!!ここ、ここ!ここ、この場所に立ってたのよ私!」

豆粒ほどに小さく写る7万人近いアタマのいつくかを指すシギー。どれどれと覗いてみるもわかりませんなあ。

エルサレム人シギーの父君の家族は何代にも渡って旧市街に住んでいた。1948年にイスラエルが建国されると同時にガザはエジプトによって、そしてエルサレムの旧市街はヨルダンによってユダヤの人々はその土地を追い出されることになった。当時まだ幼い男の子だったシギーの父君とその家族は突然にやって来たヨルダンの兵士に銃を突きつけられて「これから5分のうちに荷物をまとめて出て行け」と着の身着のままでその家を追われたのだという。それまで旧市街ではムスリムもユダヤも隣り合わせに生きていたのに。ヨルダンはこうしてユダヤの人々を追い出すと、家を壊し、古くから建っていたシナゴーグを壊し、ユダヤの人々を嘆きの壁やイスラームが出来る以前から何千年とあるオリーブ山のユダヤの墓地を訪れることを一切認めずに。今ユダヤがガザを撤退することへの反対は、ユダヤの人々が住んでいる土地からまた追い出されることへの反対と、そんな個人的な背景だってあるのかもしれない。

Fiddler on the roof、屋根の上でまたしてもバイオリンが響く。ロシアで、そしてヨーロッパでと、何世紀にも渡り住み慣れた土地を追われたユダヤの人々。いくつかの小さな鞄にすべてを詰め込んで、または着の身着のままで新たなる土地へと流れ流れて、そしてやっとたどり着いた安住の地、祖国イスラエル。この祖国でまたディアスポラを経験するなどとは夢にも思わなかっただろう、いや、ひょっとしたら彼らは安住の地などないことをすでに知っているのかもしれない。シギーの家族のように、他所の中東の街からエルサレムへと流れ着き、何世代にも渡りこの街に生きてきたのちにまた流されて。そして今、また新たな風が吹いて屋根の上の風見鶏はクルクルと方向を変える。しかも今度はロシア政府でもドイツ政府でもなく、同じユダヤの人たちの政治によってその土地へ住んでみないかと歌われて、やがてまるで繰り返される歴史のようにそこから出てゆけと風は吹いて、またバイオリンと共に流れ流れて。

明日から48時間ののち、ガザのユダヤの町はすべて幻、虚しく悲しい夢の跡となってそこを追われた人たちのまた新たなる離散の人生がはじまる。15世紀にスペインを終われたユダヤの人々のように、幻となった町をそしてそこに建っていた家々の鍵を彼らもまた大切に保管しつつ、いつまでも思い続けるのだろうか。一体いつまで、どこまでこうして彼らは流れてゆくのだろうか。



                        2005年8月 エルサレムの自宅にて

Tuesday, August 02, 2005

とってもすてきな国だから、ライフジャケット。

エルサレムから南へヘブロンの方向に車を走らせると、広がるユダ砂漠の中にアロン・シュヴットという小さな町が見えてくる。1970年に作られた人口4000人ほどの小さなアングロサクソン系のモダン・オーソドックス・ユダヤの町アロン・シュヴット。1948年にイスラエルが独立する前からのユダヤの土地。今は入植地と呼ばれている。

エルサレムからアロン・シュヴットへ向かう道の谷にあるトンネルと、そのトンネルを見下ろせる丘のベイトジャラというアラブの町。2001年あたりには、このトンネルを走り抜けるユダヤの車を狙撃するには格好の町として、ベイトジャラには顔を黒い布で覆った男たちが隠れ、この「魔のトンネル」の出口でユダヤの車が狙撃されたというニュースが頻繁に流れていた。

ある日の夕暮れのこと。南アフリカのケープタウン出身のエイドリアンと妻ギャビーはいつものようにエルサレムでの仕事を終えて、アロン・シュヴットの自宅へと防弾ガラス張りの車を走らせていると、丘の上のベイトジャラの町からトンネル出口に向けて狙撃がはじまったというニュースがカーラジオから流れた。エイドリアンとギャビーはエルサレム方面に引き返すに引き返せず、トンネル手前あたりでわき道にそれ、どこかの民家のそばで一時間ほど車のエンジンを切りじっと音も立てずに隠れていたという。

それからも頻繁に続いていたベイトジャラからの狙撃。イスラエル政府もようやくこのトンネルの出口付近1キロほどに、高速道路でよく見られる防音壁のような分厚い壁を建て、はじめはさほどでもないかと思われた壁の威力はベイトジャラからの狙撃を確実に減らす結果となった。しかしそれでもエイドリアンとギャビーに誘われ、彼らの防弾ガラスの車でアロン・シュヴットへとこの道を通るたびに、私のこころにはとても嫌な不安がよぎった。

アロン・シュヴットに住む別の友人スーザン。20年ほど前にニューヨークからイスラエルへと移住し、夫と19歳の長女を筆頭に6人の美しい子供たちがいる。パワーあふれるスーザンがエルサレムのハイテク・パークで経営していたソフトウェア会社は、2001年からのインティファーダの影響で起きた不況のおかげで3分の1に縮小、ついには他人の手に渡ってしまった。

ある年の夏、スーザンと子供たちからの誘いで久しぶりにアロン・シュヴットを訪ねた。エルサレムから車で30分ほど、カラカラのユダ砂漠の中を走るとちらほらとあちこちにアラブの村が点在しはじめ、やがて砂漠の中にアロンシュヴットの玄関、白いゲートが見えてくる。ゲートにはニット編みのキパをかぶったアロン・シュヴットのイェシヴァの生徒が門番として銃を担いでいた。

一歩アロン・シュヴットに入ると、エルサレムでは見られない大きなマイホームが建ち並び、砂漠の中とは思えぬような緑豊かなオアシス、アメリカ風の静かなベットタウンが広がっている。静かなゲート内のスーザンの家。久しぶりのスーザンは元気いっぱい、相変わらず6人の子供たちのよき母。子供たちはせっかくだから一緒に近くの泉へ行こうと私の袖を引っ張るので、散歩がてらにスーザンも一緒に泉に下りて行くことにした。

アロンシュヴットのゲートから徒歩で外へ出て、砂漠の谷に20分ほどガラガラと石と共に降りてゆくと、あら、こんなところに小さな泉があったのね。Vの字の谷底の泉から、ぐるりとまわりを見回せば、そこはイタリアかギリシャか、地中海沿岸のオリーブ色の風景が藤色の空の下になんとも穏やかに広がっている。あたりには他に人影もなく、秘密の泉で子供たちと小一時間ほどものどかに遊び、また谷を砂埃を上げながらアロンシュヴットへと登ってゆく。谷から砂漠の通りへ出ると、時々荷物を積んだ大型トラックが勢いよく通り過ぎてゆくだけ、そこを通る車はほとんどない。

オリーブ色の谷の風景とは異なった作られた緑の茂るアロン・シュヴットのゲートをくぐり、スーザンの家に戻りエアコンをつける。子供たちは濡れた服を着替えにスーザンの合図であっという間に2階へと駆けていった。

「そうそう、今ね、私、こういうの発行しててね、アメリカでも募金を集めに行ったりいろいろと忙しいのよ」

手渡されたのはアロン・シュヴットのタウン誌。パラパラとページをめくるとスーザンの末の子供、小学1年生のアヴィヤの写真が載っていた。

「そうなのよ、彼女にモデルになってもらってたの。かわいいでしょう?アロン・シュヴットにもっとライフジャケット(防弾チョッキ)の数を増やしたいから、募金集めのいい宣伝なのよ。やっぱり住人のみんなが着用できるようにね」

先ほど谷の泉で戯れていた小さなぽっちゃり天使アヴィヤは、タウン誌の中でライフジャケットを着用してほほ笑む。スーザンは車でアロン・シュヴットのゲートをくぐる時には、いつも必ずライフジャケットを身に付け、以前は大げさかと思えるヘルメットすらもかぶっていた。そして同乗する子供たちにもライフジャケットを着用するようにと指示している。いつどの道でアラブに狙撃されるかわからないからと。アロン・シュヴットの付近には特に危険はないけれど、それでもやはりゲートの外にはアラブの人たちが住んでいるのでそうそう油断はできないとスーザン。

「どうしてそこまでしてこの町に住みたいの?」

そうスーザンに尋ねたかったが、なぜか尋ねられなかったのはきっとその答えはわかっているからかもしれない。

いつだったかエイドリアンに、なぜアロン・シュヴットに住むのかと尋ねたことがある。ケープタウンからイスラエルへと移住したエイドリアンは、アロン・シュヴットのイェシヴァで学ぶうちにいつのまにかそこが自分の町となった。やがて彼はギャビーと結婚し、子供を育てていく環境としては広い家が安く購入できるアロン・シュヴットのような町がいいと。そしてこの町のゲート内の住人はみな同じレベルの宗教観を持っているのでイザコザがなく住みやすいのだという。アロン・シュヴットの住人の40%がイングリッシュ・スピーカーで、ここの住人として受け入れられるには同じ宗教レベルでなければ却下されてしまうので、当然ながら世俗のユダヤはひとりもおらず。そして、宗教右派のエイドリアンらしく、エルサレムや他の街では感じられない、遥か昔のユダヤの祖先の時代からの本当のユダヤの土地を感じたいと。

スーザンの発行しているタウン誌には世間では入植地と呼ばれるアロン・シュヴットが、そしてイスラエルに住むことのすばらしさが、英語圏からの移民の子供たちによって、アロン・シュヴットのラビによってしたためられていた。住んでいる国であっても祖国ではないアメリカから、南アフリカから、イェメンから、スウェーデンからと世界の国々から祖国イスラエルへ、そしていのちを守るためにライフジャケットを当たり前のように身につけなければいけない土地へと移り住む。心から祖国と呼べるイスラエルに住むということ、そこで少しでも住みやすい環境や宗教的な理想を求めそこに危険があろうとも住み続けるということ、そしてそれがすばらしいと言えること。仮にそれが自分や家族、子供たちのいのちを危険にさらすというリスクがあっても。ここから生まれるものは一体何なのだろうか。愛国心?敵対心?それともその両方か。

イスラエルという土地の中に、100%完璧に安全な土地というのはないのかもしれない。どこにいても、多かれ少なかれ、いのちのリスクがある。だけど、私はアロン・シュヴットのような孤立したゲートの中で同じ価値観の人たちだけとライフジャケットを着けて共に生きたいとは思えない。それは本当の意味でみなが共存するということではないと思うから。ましてや自分の子供にライフジャケットを着せなければならない土地に住みたいとは、自分の人生のこの時点では思わない。

イスラエルではない他の土地で、ユダヤの人々は共に生活して生きていた。しかし時代は変り、同じユダヤの人同士が右派だの左派だのオーソドックスだの世俗だのと言い合って一つの町すらに住めず、その結果同じ価値観の人たちだけで生きるということへの疑問。ライフジャケットも大切だけど、ユダヤの国とされるイスラエルですら同じユダヤの人々が共存できずにいては、この土地に和平など訪れないのではないのか。そんな気がした。

ガザ地区撤退に向けてまた一悶着ありそうなイスラエル。この国に住めば住むほど、異邦人の私にはまだまだわからないことばかりなのである。