Tuesday, August 02, 2005

とってもすてきな国だから、ライフジャケット。

エルサレムから南へヘブロンの方向に車を走らせると、広がるユダ砂漠の中にアロン・シュヴットという小さな町が見えてくる。1970年に作られた人口4000人ほどの小さなアングロサクソン系のモダン・オーソドックス・ユダヤの町アロン・シュヴット。1948年にイスラエルが独立する前からのユダヤの土地。今は入植地と呼ばれている。

エルサレムからアロン・シュヴットへ向かう道の谷にあるトンネルと、そのトンネルを見下ろせる丘のベイトジャラというアラブの町。2001年あたりには、このトンネルを走り抜けるユダヤの車を狙撃するには格好の町として、ベイトジャラには顔を黒い布で覆った男たちが隠れ、この「魔のトンネル」の出口でユダヤの車が狙撃されたというニュースが頻繁に流れていた。

ある日の夕暮れのこと。南アフリカのケープタウン出身のエイドリアンと妻ギャビーはいつものようにエルサレムでの仕事を終えて、アロン・シュヴットの自宅へと防弾ガラス張りの車を走らせていると、丘の上のベイトジャラの町からトンネル出口に向けて狙撃がはじまったというニュースがカーラジオから流れた。エイドリアンとギャビーはエルサレム方面に引き返すに引き返せず、トンネル手前あたりでわき道にそれ、どこかの民家のそばで一時間ほど車のエンジンを切りじっと音も立てずに隠れていたという。

それからも頻繁に続いていたベイトジャラからの狙撃。イスラエル政府もようやくこのトンネルの出口付近1キロほどに、高速道路でよく見られる防音壁のような分厚い壁を建て、はじめはさほどでもないかと思われた壁の威力はベイトジャラからの狙撃を確実に減らす結果となった。しかしそれでもエイドリアンとギャビーに誘われ、彼らの防弾ガラスの車でアロン・シュヴットへとこの道を通るたびに、私のこころにはとても嫌な不安がよぎった。

アロン・シュヴットに住む別の友人スーザン。20年ほど前にニューヨークからイスラエルへと移住し、夫と19歳の長女を筆頭に6人の美しい子供たちがいる。パワーあふれるスーザンがエルサレムのハイテク・パークで経営していたソフトウェア会社は、2001年からのインティファーダの影響で起きた不況のおかげで3分の1に縮小、ついには他人の手に渡ってしまった。

ある年の夏、スーザンと子供たちからの誘いで久しぶりにアロン・シュヴットを訪ねた。エルサレムから車で30分ほど、カラカラのユダ砂漠の中を走るとちらほらとあちこちにアラブの村が点在しはじめ、やがて砂漠の中にアロンシュヴットの玄関、白いゲートが見えてくる。ゲートにはニット編みのキパをかぶったアロン・シュヴットのイェシヴァの生徒が門番として銃を担いでいた。

一歩アロン・シュヴットに入ると、エルサレムでは見られない大きなマイホームが建ち並び、砂漠の中とは思えぬような緑豊かなオアシス、アメリカ風の静かなベットタウンが広がっている。静かなゲート内のスーザンの家。久しぶりのスーザンは元気いっぱい、相変わらず6人の子供たちのよき母。子供たちはせっかくだから一緒に近くの泉へ行こうと私の袖を引っ張るので、散歩がてらにスーザンも一緒に泉に下りて行くことにした。

アロンシュヴットのゲートから徒歩で外へ出て、砂漠の谷に20分ほどガラガラと石と共に降りてゆくと、あら、こんなところに小さな泉があったのね。Vの字の谷底の泉から、ぐるりとまわりを見回せば、そこはイタリアかギリシャか、地中海沿岸のオリーブ色の風景が藤色の空の下になんとも穏やかに広がっている。あたりには他に人影もなく、秘密の泉で子供たちと小一時間ほどものどかに遊び、また谷を砂埃を上げながらアロンシュヴットへと登ってゆく。谷から砂漠の通りへ出ると、時々荷物を積んだ大型トラックが勢いよく通り過ぎてゆくだけ、そこを通る車はほとんどない。

オリーブ色の谷の風景とは異なった作られた緑の茂るアロン・シュヴットのゲートをくぐり、スーザンの家に戻りエアコンをつける。子供たちは濡れた服を着替えにスーザンの合図であっという間に2階へと駆けていった。

「そうそう、今ね、私、こういうの発行しててね、アメリカでも募金を集めに行ったりいろいろと忙しいのよ」

手渡されたのはアロン・シュヴットのタウン誌。パラパラとページをめくるとスーザンの末の子供、小学1年生のアヴィヤの写真が載っていた。

「そうなのよ、彼女にモデルになってもらってたの。かわいいでしょう?アロン・シュヴットにもっとライフジャケット(防弾チョッキ)の数を増やしたいから、募金集めのいい宣伝なのよ。やっぱり住人のみんなが着用できるようにね」

先ほど谷の泉で戯れていた小さなぽっちゃり天使アヴィヤは、タウン誌の中でライフジャケットを着用してほほ笑む。スーザンは車でアロン・シュヴットのゲートをくぐる時には、いつも必ずライフジャケットを身に付け、以前は大げさかと思えるヘルメットすらもかぶっていた。そして同乗する子供たちにもライフジャケットを着用するようにと指示している。いつどの道でアラブに狙撃されるかわからないからと。アロン・シュヴットの付近には特に危険はないけれど、それでもやはりゲートの外にはアラブの人たちが住んでいるのでそうそう油断はできないとスーザン。

「どうしてそこまでしてこの町に住みたいの?」

そうスーザンに尋ねたかったが、なぜか尋ねられなかったのはきっとその答えはわかっているからかもしれない。

いつだったかエイドリアンに、なぜアロン・シュヴットに住むのかと尋ねたことがある。ケープタウンからイスラエルへと移住したエイドリアンは、アロン・シュヴットのイェシヴァで学ぶうちにいつのまにかそこが自分の町となった。やがて彼はギャビーと結婚し、子供を育てていく環境としては広い家が安く購入できるアロン・シュヴットのような町がいいと。そしてこの町のゲート内の住人はみな同じレベルの宗教観を持っているのでイザコザがなく住みやすいのだという。アロン・シュヴットの住人の40%がイングリッシュ・スピーカーで、ここの住人として受け入れられるには同じ宗教レベルでなければ却下されてしまうので、当然ながら世俗のユダヤはひとりもおらず。そして、宗教右派のエイドリアンらしく、エルサレムや他の街では感じられない、遥か昔のユダヤの祖先の時代からの本当のユダヤの土地を感じたいと。

スーザンの発行しているタウン誌には世間では入植地と呼ばれるアロン・シュヴットが、そしてイスラエルに住むことのすばらしさが、英語圏からの移民の子供たちによって、アロン・シュヴットのラビによってしたためられていた。住んでいる国であっても祖国ではないアメリカから、南アフリカから、イェメンから、スウェーデンからと世界の国々から祖国イスラエルへ、そしていのちを守るためにライフジャケットを当たり前のように身につけなければいけない土地へと移り住む。心から祖国と呼べるイスラエルに住むということ、そこで少しでも住みやすい環境や宗教的な理想を求めそこに危険があろうとも住み続けるということ、そしてそれがすばらしいと言えること。仮にそれが自分や家族、子供たちのいのちを危険にさらすというリスクがあっても。ここから生まれるものは一体何なのだろうか。愛国心?敵対心?それともその両方か。

イスラエルという土地の中に、100%完璧に安全な土地というのはないのかもしれない。どこにいても、多かれ少なかれ、いのちのリスクがある。だけど、私はアロン・シュヴットのような孤立したゲートの中で同じ価値観の人たちだけとライフジャケットを着けて共に生きたいとは思えない。それは本当の意味でみなが共存するということではないと思うから。ましてや自分の子供にライフジャケットを着せなければならない土地に住みたいとは、自分の人生のこの時点では思わない。

イスラエルではない他の土地で、ユダヤの人々は共に生活して生きていた。しかし時代は変り、同じユダヤの人同士が右派だの左派だのオーソドックスだの世俗だのと言い合って一つの町すらに住めず、その結果同じ価値観の人たちだけで生きるということへの疑問。ライフジャケットも大切だけど、ユダヤの国とされるイスラエルですら同じユダヤの人々が共存できずにいては、この土地に和平など訪れないのではないのか。そんな気がした。

ガザ地区撤退に向けてまた一悶着ありそうなイスラエル。この国に住めば住むほど、異邦人の私にはまだまだわからないことばかりなのである。