Friday, December 31, 2004

ひかりほのかに (1940年の神戸で)

サンタに忘れられた、クリスマスの訪れない砂漠の街エルサレム。2005年の12月ももうそろそろおしまい。このエルサレムの街はイエス・キリストゆかりの地とあってクリスマスもさぞ賑やかで盛大なものかと思ってみれば、思いきり肩透かしを食らうかのように、いつもと変らぬ非日常的な日常がある。ましてや、この国の住人の大半を占めるユダヤの人々にとって師走は、毎年9月から10月にあるユダヤ暦の新年の前で、今日も5月の青空のようなすっきりと澄んだ中東の空の下。

しかし地球儀の北に位置する国々では、クリスマスと正月ムードで街も人も忙しくウキウキ。ふわふわ真っ白な雪ですら、中東にいれば遥か遠い国のできごと。クリスマス・プレゼントを求める人々で溢れるマンハッタンのMacy'sに、凍えそうな身体を芯まで温めてくれる甘く真っ赤なホット・ワインの、吐く息も白いベルリンのクリスマス・マーケット。大好きなあの人に、大切な家族にと、贈り物が見つからずに思わず溜息のひとつも漏れても、心は弾んで楽しいもの。

そして家中の大掃除に買出しに、成長した子供たちの帰りを今か今かと心待ちにしている父や母。ヌクヌクと炬燵でごろごろ、鍋をつついてのニッポンの家族団欒、目にも味覚にも色彩豊かなお重の御節料理。新年の行事。家族と文化、ノスタルジックに想いは遠いアジアの故郷の国へと。毎年この時季になると、あの頃の神戸を思う。

時はさかのぼって1940年のこと。神戸や横浜などではユダヤの人たちの姿が見られたという。いつどこかでかは忘れたけれど、安井仲治氏が1940年ごろの神戸で撮られたというユダヤの人々の写真。その写真には、流浪のユダヤの人々にあてがわれた神戸の家の窓から、帽子の下の頬がこけたひとりの男が窓の外を不安げに眺めてた。

その、名も知れぬユダヤの男の想い。国家の都合と利益、そのために家族と祖国とを失い、それまで聞いたこともないような名のアジアの小さな島国にヨーロッパの大陸から流れ着き、なにもかもが慣れない異国の街で、その先どうなるかもわからぬ不安な滞在の日々。現代の社会に住む私には、想像はできてもその現実はわかり得ない。

世界中で戦争がはじまって1年のち、ヨーロッパのユダヤの人々はすでにイタリアからの海路での脱出の手立てはなく、追われ追われてポーランドから小国リトアニアへ辿り着いた。その一行にはポーランドの有名なオーソドックス・ユダヤの学校、ミル・イェシヴァの生徒たちの姿もあった。しかしもう時すでに遅し、リトアニアから先は八方塞で、どの国もこのユダヤの人々を受け入れようとはせず。ロシアから大陸を渡るしか残された道はなく、途方に暮れるユダヤの人々の姿。そんな中、彼らに手を差し伸べたのは当時リトアニア日本領事代理の杉原千畝(ちうね)氏だったという。

リトアニアで途方に暮れていたユダヤの人々は、杉原氏の発行した日本通過ヴィザを片手に、この先どうなるとも知れない不安とかすかな希望を抱いてシベリヤを横断し、神戸、横浜へと旅をして。着の身着のまま、わずかな荷物と共に流れ流れて日本の土を踏んだ彼らは、数ヶ月から1年ほどの滞在の後には安住の地を求めて、上海などを経由してアメリカや当時パレスチナと呼ばれていた土地へと渡って行ったのだそうだ。

「神戸での1年間と上海の生活で、日本人のもっとも良い面と悪い面を見せてもらったよ。つまりはだ、日本はアメリカとの友好関係を保つには、ややこしくなりそうだったユダヤ問題は使いようだと考えたのだろう。河豚という魚は調理次第で猛毒にもなり、また最高の美味にもなるそうだ。そこで日本政府のユダヤ人対策はユダヤを河豚を見なして「河豚計画」と名づけられたと聞いたがね。

当時、日本はアメリカとの関係を考慮して、あの時の私たちのように難民となったヨーロッパのユダヤや、アメリカのユダヤに好意的ではあった。事実、私の滞在していた神戸でも、人々は私たちユダヤにひどい仕打ちなどはしなかった。勿論、当時のヨーロッパの状況に比べれば私たちはどこでも耐えられたのかもしれないがね。でもそんな生活もアメリカとの戦争がはじまるまでだったが・・・。

日本とアメリカは戦争をはじめ、上海は日本の占領下になり、その頃上海にいた私や他のユダヤの人々はもう外交に使えない邪魔なお荷物となったのだよ。詳しい数などは知らないが、ここでも他の外国人と同じように収容所に入れられたユダヤもいた。私はうまくアメリカへ渡り、長い月日を経てからイスラエルへとまた移り住んだ。ここではもう誰も私たちを追い出したり、収容所に入れたりはしないと思ったからさ。

しかしパレスチナとの問題で、この地でも多くの人々が亡くなってゆく。この地ですら、私たちにとっては安住の地とは言い難いかもしれないのだよ。この世界中どこへ行っても、ユダヤはいのちある「人」とは思われないのかね?」

エルサレムに住む、オーソドックス・ユダヤの友人アヴィーの父君の言葉。アヴィーの父君は、ポーランドのミル・イェシヴァの生徒の1人として、あの杉原ヴィザを片手に大陸を越え神戸へ渡りのちに上海へ、ごった返す上海からアメリカのニューヨークへと渡って行ったのだそう。アヴィーの父君は当時のことはあまり語らず、現在はエルサレムのヘブライ大学の近くで静かに老後を過ごしている。

クリスマスが近づく頃、ユダヤ暦のキスレヴの月の25日。ユダヤの世界ではハヌカの祭りがやって来る。BC165年のキスレヴの月の25日のこと、マカビーと呼ばれる小数のユダヤの司祭たちは、エルサレムを治めユダヤの神殿を奪ったギリシャ軍へ戦いを挑み、勝利を収めた。そしてユダヤの司祭たちは、取り戻したユダヤの神殿に火を灯そうとしたが、一日分のオリーブ油しか残っていなかった。しかし、その1日分のオリーブ油は、次のオリーブ油が神殿に届けられるまで奇跡的に8日間も燃え続けたのだそう。

それからは、毎年、キスレヴの月の25日からの8日の間、奇跡を起こした神の存在を忘れないようにと、ユダヤの家庭では日没と共に、ハヌキヤと呼ばれる蝋燭立てのようなものにオリーブ油に芯を入れ火を灯してゆく。その火の光りを通り行く人々が見られるようにと、通りに面した窓や玄関先にハヌキヤが置かれる。

エルサレムの街の夕暮れ時、家路を急ぐ男たちの姿。夫の帰宅を待つ妻は窓際でハヌキヤにオリーブ油を入れながら、その傍で子供たちは母の手作りの揚げたての穴のない美味しいドーナツ、スフガニヤを頬張る。楽しそうなハヌカの歌があちこちの窓から響きはじめ、今年もエルサレムにまた、ハヌカの火が灯りはじめる。

あの年、神戸や横浜でハヌカの光は灯ったのだろうか。もしも、あの年の神戸や横浜の街角でハヌカの光が灯ったのならば、もはや失われた遠くの故郷を、そして別れ別れになった行方の知れぬ家族や友人を想い、みなでそっと静かに寄り添って、神はどこにいるのか、また奇跡を起こしてくれるのだろうかと、そして生きて行く上での大切な何かを思いながら、その光を静かに見つめていたのではないだろうか。

そんなことを思いながら
よい年越しを