Jerusalem 聖なる街えるされむ the holy city
―レイブレの場合―
レイブレは石の壁に囲まれた古い街の中を、ひとり、彷徨っていた。長く暑い乾いた夏と短い雨の濡れた冬、季節もなにも関係なく、一年のあいだいつも変わりなく身につけている少し裾が擦れて薄くなった綿の黒いズボンに、おそろいの黒いジャケットをくしゃくしゃと無造作に小脇にかかえながら、なんだかとても投げやりで、ちっとも楽しそうじゃない。石の壁の中の古い街で、中東の陽は皮膚から蒸発した水分が湯気となって発散されるのがまるで目に見えるかのように、レイブレの真上から焦げるようにカラカラと乾いた熱を発しながら照りつけている。
街の細く入りくねった道は茶色く埃っぽく、デコボコと不揃いな石畳の表面はたくさんの人の歩みで磨かれてツルツルと光り、滑りやすかった。この街を訪れるオーソドックス・ユダヤならば誰しもが行う嘆きの壁での祈りをレイブレはとっくにすませてしまい、かと言って午後のミンハの祈りの時間にはまだ幾分早すぎた。そうなると、19年間ユダヤの法の通りにレールに乗った人生を歩んできたレイブレには、次になにをすればいいのか自分ではまったく思いつかずに、ただ暇をもてあますしかなかった。ユダヤの法に基づいたイェシヴァでの教育のお陰で、レイブレには皆が同じように行動する意外になにをしていいのか、自分で自由に考えてみる能力を養う機会はなかった。
その日、その壁に囲まれているエルサレムの旧市街のユダヤの町は、どこかいつもとはちがっていたが、宛てもなくただウロウロと、サングラスも掛けずに何時間も旧市街の中を歩きまわっても、レイブレはそんなことには気がつかない。白く強烈な光りの反射に目が痛みだした。この中東の陽の下を、サングラスを掛けずに歩き回れば強い光りで目は焼けてしまうことくらい、この街で生まれ育ったレイブレにもわかっていたのに、なぜかその日の彼はそれ程にも投げやりだった。町の広場の一本の曲がりくねったオリーブの木陰のベンチへと、サッと視線をそらすと、砂埃で黒いズボンが白く汚れることすらまったく気にかける様子もなくレイブレは気を重たそうに腰を下ろした。オリーブの木陰には、いつもいるはずの猫たちの姿はなく、なにか気の抜けたような町の空気。
茶色いペンキが塗られた古い木製のベンチに腰掛けると、あたりの白光が嘘のように思えるほど、オリーブの木の下では風は涼しげにさわやかで乾いて、レイブレは落ち着きなく、細い片方の足を小刻みに揺すりながら、広場を通り過ぎる誰もが似たような風貌の黒い人々をぼんやりと心無く眺めていた。でも決して広場を通り過ぎる年頃の娘たちの姿は追わないように。旧市街の外の黒いベルベットのキパを頭に乗せたオーソドックス・ユダヤの街の裏路地に生まれ育ったレイブレには、通りすがりの若い娘の身体を見つめるなどとは、その世界のモラルに反することだった。それでもそんなユダヤのモラルも、若い男の本能にはどうしようもないこともあり、レイブレは広場を通り過ぎる清楚な濃紺のフレア・ロングスカートに長袖のシャツの同じ年頃の娘たちの姿を追いそうになる。
そして慌てて神経質にハシディックの黒い丸みを帯びたフェルト帽子を何度もかぶり直し、耳の手前にクルクルと巻かれているぺオスをひとさし指にからめては耳の後ろに引っ掛けてみたり、戸惑いを隠せない。そうしてベンチに腰かけながら時間をもてあましているうちに、建物のあいだの細い石畳の小道の向こうから見覚えのある青年が広場を横切って、レイブレの方へと歩いて来るのが視界に入った。その青年は何やら黒いビニール袋をさげている。レイブレは最近かけはじめた眼鏡越しにその青年を見つめた。
「よおっ!シャローム!ハイムじゃないか!びっくりだなあ。君がここにいるとは思わなかったよ」
ハイムはレイブレの前までやって来ると、オリーブの木陰のベンチに腰掛けているレイブレを、無感情に黙って見つめた。
「ハイム、君はいつボーロ・パークからここへ?ああ、そうか、そこの角のイェシヴァにいるんだな?ま、世界中どこにいたって僕らにはイェシヴァに行く以外に他になにもすることなんてないもんな。あれっ、なんだよその袋は?隣のムスリムの町の市場で買い物でもした?なんてね、あはははっ」
海を越えたニューヨークのオーソドックス・ユダヤの街、ボーロ・パークで育った生真面目なハイムが、この壁の町の異教の市場などへ買い物に行くはずもないとレイブレも当然知っていた。だから直のこと、たわいもなくからかってみたかっただけだった。しかしそんな子供っぽさの抜け切らないレイブレを、ハイムは彼のストレートな黒髪に似あう細い黒縁の眼鏡越しに悲しげに無言で見つめ返した。だらりとやる気なくぶら下がった細い左手の黒いビニール袋をぎゅっと握り締めて、ため息一つ。
「ザイ・ゲズント・・・」
イデュッシュ語でそう短く挨拶をすると、また熱い中東の陽の下を短い影と共に嘆きの壁の方へと消えていった。
「・・・ザイ・ゲズント」
レイブレは同じよう返事を返すと、ピッチリとアイロンのかかった白いYシャツに黒いズボンのハイムの後ろ姿を見つめながら、なぜだかハイムに出会う前よりもさらに孤独に陥り、ぷい、と視線をハイムの後姿からそらした。
「なんだよ、せっかくさぁ、久しぶりに会ったのに。ちょっと話し相手になってくれてもいいじゃないか。だいたいあいつは暗すぎるよなあ」
そう独り言をいいながら、ハイムの後姿が嘆きの壁へ向かう小道のむこうへと消えてゆくと、レイブレの視線は、ベンチの向かいのがらんと客の姿のないみやげ屋のショー・ウィンドウに止まった。そのショー・ウィンドウに飾られたカラフルな虹の上を羽ばたく鳩、「Jerusalem The Holy City」と書かれた白い綿のTシャツが、やけに空々しく映った。
「Jerusalem The Holy City・・・なにがホーリーなもんか。ここが地球のオヘソだって?ふん、ちっともおもしろくないよ、こんなカラカラに干からびて砂のように色褪せた街。ごみを漁る猫だってねずみだってまったく変わらないじゃないか!僕はもううんざりだ、エルサレムも黒い服も!なにも起こりはしないよ、こんなところにいたって・・・。思い切ってニューヨークにでも行こうか・・・。あそこに行けば・・・、ひょっとしてなにかが変わるかもしれない・・・」
―Tataの場合―
ねっ、ねっ、今からボクがこの前ちょっと小耳に挟んだ話を聞いてね。まあ、君にはしがない猫の話なんてつまんないかも知れないけどさ。ボクはね、このエルサレムの下町で生まれたんだけど、あっ、多分この近所だと思うよ。そりゃあ、ちゃんと「ここの軒下、何月何日生まれ」なんて憶えちゃないけどさ。この界隈はナハラオットっていうんだけど、この辺はね、えーっと、人が温かいっていうか、あっ、人情っての?そう、それがあるっていうかさ。道の脇の日陰に水飲み用のタッパーがそっと置かれてたり、安息日の残り物の食事をさりげなく町内用の大きなゴミ箱の傍に捨てて置いてくれるんだよね。
だからボクみたいな自由気ままな半家猫も、ワイルドな野良公たちにもそんなに悪かないよ。まあ、早い話は、猫にとっちゃぁ住みやすくて安全ってことね。でも本音を言えばさ、最近ちょっと鼻息の荒い野良公たちが多すぎるのが難だけど・・・。でもさ、聞いた話によれば、この地域だけじゃなくてエルサレムってどこでも猫が多いらしいんだけどね。
でね、この間さあ、聞いたんだ、ボク。旧市街の猫たちの噂話をね。あいつらがいうにはさ、あの石の壁に囲まれた古い街って、どうもこことはちがってボクたち猫には住みにくいんだって。だってね、スパイスの香りがして、大きなスピーカーからコーランっていう祈りが流れてくる町の人ってのは、家畜になる動物意外にはまったく興味がないし、ましてや猫なんて家の番にも一銭にもならないってボヤいては「ヤァッラァー!ヤァッラァー!」ってアラブ語っていったけかな、それでさ、大声でホウキでひっぱたくらしいんだ。おお、恐ろしい!
それからね、その隣の黒い服を着たユダヤの人の町なんだけど、あそこって旧市街の中でも新しい町だし、もともとあそこいた人たちはもうあまり住んでいなくてね。最近ではマンハッタンやフロリダっていう海の向こうの大きな街からやって来た、ちょっと浮ついてお高くとまってる人たちなんてのもいっぱい住んでるんだって。だからね、そこでも家なし猫なんて、どうも迷惑らしいんだけど、それでもなんとかみんな一緒に住んでるんだって。
それでね、ここからが今日の話なんだけどさ、いろいろ道草食って伝わってきたからいつの話なのかわかんないけどね。こんな話だよ。
ある時、海の向こうからやってきた一人の眼鏡クンがイェシヴァの寮に住んでいて、あ、イェシヴァってユダヤの宗教学校のことね。えーっと、彼はなんて街から来たんだっけなあ、アメリカのボ、ボ、ボーロ・・・あれ?忘れちゃったよ・・・まあいいや。それでね、その眼鏡クンは旧市街のユダヤの町で家なし猫たちと友達になってね、餌をあげるようになったんだって。彼がその日のイェシヴァの残り物の食べ物を黒い袋に入れて広場の近くの猫たちに持って行くと、ワーッとたくさんの家なし猫が寄ってくるんだけど、その中に一匹、足の悪い猫がいたんだってさ。でも、その足の悪い家なし猫は他のやつらみたいに速く歩けないから、いつもみんなが食べ終わったころにやっとその眼鏡クンの元にたどり着くんだ。それで眼鏡クンは思ったんだって。世の中ってほんと、不公平だなって。その弱い猫にこそ、ちゃんと食べさしてあげたいのにってね。うん、やさしい人だよね、この眼鏡クンってさ。
それでね、それからしばらくしてから、こんなことが起こったんだよ。旧市街のユダヤの町で家なし猫の一斉除去が行われたんだ。これ、どういう意味かわかるかなあ?そう、あの恐ろしい保健所ってのがやって来てね、道に猫の餌をばらまいたんだ。もちろんなにか良くないものを混ぜてね。でね、保健所の思惑通りにその餌を狙って家なし猫たちがやって来たんだ。そのあとのことは・・・・いわなくてもいいよね・・・。
それからしばらくして、その眼鏡クンがまたいつものように、暑い日の午後に黒いビニール袋の食事を持って行ったんだって。でもね、もうすべて遅かったんだ。誰もいつものように眼鏡くんの足元にやっては来なかった。そこで彼はその近所の人から猫たちは連れて行かれたよって聞かされたんだって。ああ、ボクこの話を聞いて、ホントにナハラオットに生まれてよかったって思ったよ。旧市街なんて死んでも行かないよ、あ、行ったら死んじゃうか・・・。それでね、眼鏡クンは本当に悲しかったんだ。打ちひしがれながら旧市街のユダヤの町を、その黒い袋を下げたまま暑い陽の中歩き回ったんだって。そして大きな壁のあるところに行ったらしいんだ。そこで、足の悪いあいつは逝っちゃったんだなあって、不幸な猫人生だったなあって、雲ひとつない真っ青な空を見上げて、ああ、どうしてですか。なぜ、あなたは弱い者に対してじっと黙っているのですかってね。大きな壁のそばで、一体誰に話しかけていたんだろうね、その眼鏡クン。
でもね、それからしばらくして、眼鏡クンはあいつに出会ったんだ。そう、足の悪いあいつに。・・・えっ?どういうことかって?もお、鈍いのね!だー、かー、らー、あいつ、足が悪いから、保健所のまいた餌に間にあわなかったの。みんなに先に食べられちゃってさ。それでね、眼鏡クンはじーんっと胸が熱くなったんだって。やっぱり弱い者は、それなりにちゃんと、どこかで助けられてるんだなあって。マイナスだと思ってることが本当は活かされてベストになることもあるんだなって。そしてネガティヴはポジティヴにも変りえるんだよね、本当にちゃんとすべてに理由があったんだって。それでこんなことが起こるエルサレムが、どうして聖なる街って呼ばれるのか、カミサマもやるじゃんって。
うーんっと、実はね、君だけには教えちゃうけど、ボクにはこの「聖なる街」とか「カミサマ」ってなんなのか全然わかんないんだけどさ。なんでも人間が勝手にそう呼んでるみたい。でもやっぱりさ、こういう話ってちょっといいなあって思っちゃったよ。なんてったっけ、この街のこと、えーっと、ああ、ミ、ラ、ク、ルってのが起こる街で、地球のオヘソなんだってさ。あ、ミラクルってなにかなんて、猫のボクに聞かないでよね。
さってと、今日のボクの話はここまでね。散歩にでも行ってこよっと。隣の白猫のサンチョでもからかってこようかな。えっ?旧市街には行くなって?ごみは漁るな?拾い食いには気をつけろって?んもー、わかってるよん。じゃ、またねー。