Sunday, August 24, 2003

ねこまち



エルサレムにはたくさんの猫たちが住んでいる。住所不定・無職で名のないヤサクレ猫もいれば、中東の暑い日差しを避けて家猫となり、その上ちゃっかりと何軒ものお茶飲み仲間のいる猫君もいるらしい。猫君たちは国籍にかかわらず箱やクッションがお好きなようで、エルサレムの住所不定の猫君たちは、マハネ・イェフダ市場の横道に積み重なった空になった野菜のダンボールの中や、旧市街の裏路地に階段の下に、アパートの屋上に放置されてボロボロになっているマットレスの間に、子供が何人もが入れそうな、通りに無造作に置かれた大きなふた付きの緑色のゴミ箱の中に、庭に忘れられた古びたクッションの上に、誰に気兼ねするでもなし。そんなエルサレムの猫君たちと住人たちはケンカすることもなく、お互いのテリトリーを分けあって生きている。

いつの間にやら異邦人の女の自宅に同居しているエルサレム生まれのTata猫君。乾いた日中の厳しさとは対照的に、砂漠の空気がまだ夜露でしっとりと濡れている朝5時頃、彼のために異邦人の女がマハネ・イェフダ市場から担いできた茶色い籐編みのカゴからぴょんっと起きだして、「ニャッ!」と少しかすれた声で手短かにあいさつすると、まだ冷えた砂漠の薄暗い空の下をスキップするようにして小走りで出かけてゆく。まだ明けやらぬエルサレムの朝靄の中、彼の「ニャッ!」をほわんと夢心地に眠い目をこすり、ノソノソとベッドから這い出すようにして玄関の鍵を開けるのが異邦人の女の日課となりつつある。それにしても、Tata猫はいったい毎朝、そんなに早くどこへ行くのだろうか。

エルサレムの台所マハネ・イェフダ市場に近いTata猫の住むナハラオット界隈は、良くも悪くもとことん庶民クサく、車の通れない細いガタガタ小路に階段が多く、古い石造りの小さなエルサレム的町家が犇いて、大阪のどこかの下町の裏路地でワイワイと文化住宅のおばちゃんたちの「よけいな世話好き」な会話が響いてくるような開けっぴろげさ。世話焼きおばちゃんとおじちゃんの家の隣はシナゴーグ、そして角にもまたまた小さなシナゴーグ。夫婦喧嘩も赤ん坊の泣き声も、シナゴーグから聴こえてくる祈りへのバックグラウンド・ミュージック。聖と俗は別けられることなく、日常の中でともに存在している。そんなナハラオットは、一世紀ほども昔、まだなにもない砂漠だったこの町へとやって来た人々が住みはじめた古い町で、10年ほど前まではエルサレムきってのスラム街だった。通りには若いドラッグ常習者が徘徊し、隣接する古い小さなシナゴーグとシナゴーグの祈りの合間をこそ泥がスルスルと要領よく走り抜ける。しかし、ここ数年、京町家ならぬ古い小さなエルサレム町家も、薄桃色が美しい花崗岩、エルサレム・ストーンで化粧直しされ、New&Old、ツギハギ・パッチワークなのがなんともまた不思議ワールド。そこにエルサレムっ子はもとより、カリフォルニアあたりからのユダヤの留学生などもローカルなおばちゃんおじちゃんに混ざって住人となりはじめた。このかつてのスラム街を、レインボー・カラーのキパを頭に乗せたニューエイジな若い人やイマドキのヒッピーもどきが、この国へのアイデアリスティックな夢を胸にシナゴーグと町屋のあいだを、そして半世紀近くも前にルーマニアから住み移ってきたユダヤのアーティストが居座り続けている、反政府居座りライヴ・ハウスのアコースティックなギターやドラムの響きに誘われて、スルスルと抜けてゆく。そして猫君たちには、道路わきのプラスチックのタッパーの中、安息日明けのチキンの混ざった残飯や、賞味期限の切れたキャットフードをあやかりに、お決まりの食事場所へと、器用に秘密の抜け道をのんびりと歩いてゆく。

そんな猫にも人にもぶらぶら歩きにはもってこいの、ファンキーでごちゃ混ぜ文化のエルサレムの一角にある、銀製品を磨いている小さなアトリエ。銀の蝋燭立てや、銀のぶどう酒の杯、土曜の夜に去りゆく安息日の終わりに用いるハブダラの銀のスパイス入れ、そんな銀の小物たちはユダヤの家庭には欠かせない。そのアトリエに毎朝現れる東エルサレムに住むアラブの中年男。夏休みのいたずらっ子のように珈琲豆色にこんがりと日に焼けて、ぽってりと肥えた身体に、皺でよれよれのブルーの制服と白いラインの入った木綿の帽子。昔の物売りのように肩にかけた箒にダンボール箱をぶら下げて、ほっぺたをペカッとニカッと毎朝アトリエに歩いてやってくる。彼は清掃の仕事をする午前中、いつもアトリエの横の花壇のブロックに腰掛けて、どこかなぜだか、サウジあたりの石油王のごとくにとてつもなく優雅に小指を立てて、透明なガラスコップの底に粉の溜まった濃厚なアラブ・コーヒーを楽しんでいる。そのアトリエの上の階に住んでいた異邦人の女は、この男が掃除をしているところに果たしてお目にかかったことがない。だからといって誰かがそれを怒っているのもとんと見たことも、窓越しに聞こえてきたこともない。男はいつも花壇のそばでアラブ・コーヒーを飲みながら、行ったり来たり通りすがりの猫君たちと陽気にのんびり世間話をするのが本職のよう。

異邦人の女の隣のアパートの住人は、エルサレムの新市街のとてもアンダー・グラウンドなBarのオーナーで、セルビアのベオグラードから移住してきた小柄な金色の髪の若いオネエサン。この小柄なオネエサンのアパートの玄関は日夜鍵がかかったまま、しかし通路脇の窓がひとつ、ちょうど猫が一匹入れるほどに開いている。どうやら近所の猫君たちはちゃっかりとそのことを知っていて、いつも何やら忙しそうにバタバタとそこから出たり入ったりしているらしい。

ある日の午後のこと。異邦人の女は中東の熱い日差しの中、サンダル履きで買い物へ行こうとその窓の傍を通り過ぎた。

・・・バタバタバタ!

すると大慌てわれ先にと、何匹もの猫君たちがびっくり箱のように狭い窓の隙間から飛び出して来た。どうやら異邦人の女の靴音を、オネエサンのご帰宅と勘違いしたらしい。「ふうん、いったい何があるのかなあ?」と、異邦人の女は猫の額の分だけ開いた窓からオネエサンのアパートをちょいと覗いてみる。薄暗いがらんとしたリビングと大きく開かれたフレンチ・ドアの奥にはベッド・ルームで、窓のテーブルの上には何本ものグリーンと茶色の空っぽのビール瓶が縦に横に転がり、リビングの中央には大きなちょっと古ぼけた、それでも目がチカチカしそうなショッキング・ピンクのソファーがひとつ。その他には家具らしきものはなにも見あたらず、毎日ここで誰かが生活を営んでいるような家庭的な雰囲気は微塵もない。

「あれっ?」

部屋の中央のソファーの上にもう一度、ゆっくりと異邦人の女の視線が戻ってゆく。

「はて、目の錯覚でしょうか砂漠の街の蜃気楼でしょうか。なんだか暗がりの中に見なれた顔が・・・。非常に見なれた猫君がひとり。あれれれっ?・・・アナタさまは、Tata?!」

Tata猫はオネエサンの部屋のそのショッキング・ピンクのソファーの上で、しかも堂々とその中央にデンっとあたかもエジプトの王家の猫のように優美に寝そべっている。そうか、ここのところしばらく昼間に見かけないと思っていたら。Tata、君はここにいたのか!

「Tata!」

ショッキング・ピンク色のソファーの上の王様猫は、「下女なぞには用はない、下がっておれ」といわんばかりに、ちらり、横目で異邦人の女の顔をじっと見つめた。異邦人の女は、猫の額分だけ開いた窓の、その狭い隙間にむぎゅーっと顔を押し込むと、もう一度、今度はちょっとムキになった。

「Ta!Ta!」

「・・・うるさいにゃ~・・・」

ヤレヤレ、ノソノソ、面倒くさそうに王様Tata猫はソファーから起き上がると、軽くため息をついて窓の隙間に向かってゆっくりと近寄り、ピョンっと猫らしく柔らかい身体のバネを利かせて窓の燦に飛び上がった。「ようやく他の連中が出て行ってひとりきっりになれたところなのに・・・」とでもいいたそうにして。

それからしばらくいつもの日々が過ぎて、オレンジ色のタンクトップとジーンズにサングラスとラフな姿のオネエサンに玄関先で異邦人の女はばったりと出くわした。マハネ・イェフダの市場にでも行って来た帰りなのか、両手にぶら下げた水色とオレンジのビニール袋からは、重そうなキャット・フードの袋が見える。

「あら?猫でも飼いはじめたの?」

「そうなの。・・・サンチョ!」

オネエサンが肩までの金色の髪を耳にかけながら、猫の額の窓を指してそう呼ぶと真っ白のふわふわドレスを着たようななんとも乙女チックな子猫が一匹、そそそっと少し慎重におっかなびっくり顔を出した。

「1ヵ月ほど前からこのサンチョと同居中なの。私が留守中も、いつでも彼が散歩に出られるようにって窓を少し開けてあるのよ」

なるほど、だからオネエサンの留守中、ここはすっかり秘密の猫クラブになっていたのかと異邦人の女。

「あはははっ、知ってるわよ。このあたりの猫が毎日うちで集ってるのは。サンチョのごはんが目当てなのかしらね?ま、家の中を荒らさないなら別にいいんじゃないの?」

そんなことは何でもないわと、小柄なオネエサンはケラケラと笑い飛ばす。わかりました。どおりで外出から帰るTataのおなかはいつも満腹なわけが。彼はここでサンチョの食事をかっぱらっているのだな。他の猫君たちも同じようにここで食事をしているってことね?異邦人の女は足元に甘えて額をこすりつけているTata猫をニヤッと見つめた。Tata猫は「ボク、何のことか知らないよ~」と白を切ってか、異邦人の女の両足の間をSの字に身体を寄せながら行ったり来たり。それにしてもオネエサン、一言よいでしょうか。「サンチョ」のイメージは乙女チックなふわふわドレスではなくて、南米あたりのイカツイ男かドン・キホーテの物語かと思うのだけど・・・。

異邦人の女は熱い中東の太陽の下を階段を皮のサンダルをパタパタさせながら駆け足で下りてゆく。花壇の傍のコンクリートの塀にはアラブ男の透明のガラスのコップが、いつものように少し傾いて置かれている。明日も男はコーヒーを飲みながらのんびりと猫と世間話をしにやって来るのかな。

異邦人の女はTata猫が毎朝5時にどこへ出掛けていくのかはまだ知らない。だけどこの界隈では、きっと猫君たちのこんな秘密のアジトがあちこちにあるにちがいないってことはわかったらしい異邦人の女。なんだかエルサレムって、猫にとってはなかなか住みよさそうな街ではないか。