ラヴェンダーと赤い月と
「いま、なん時でしょうか?」
通りで男が、見知らぬ女に声をかける時。男の本心、時間など本当はどうだっていい。ただ誰かに話しかけるキッカケを探しているだけだから・・・。
熱い熱い焼けるような太陽がテル・アヴィヴの地中海西に傾いて、砂漠色のエルサレムの街はその日で最も美しく穏やかな時を迎えた。ほんの少し前まで風も雲ひとつなく、スカーンと乾いたイスラエル・ブルーの空が、ほんわりとやわらかな桃色に染まりはじめた途端に、露をふくんだ冷たい風が西から吹きはじめる。雑草のように道の脇に咲いているラベンダーを片手分だけ摘むと、若い異邦人の女はぐるりと壁に囲まれたエルサレムの旧市街へと、まるで旧約聖書の時代から変わらないノマッド風の革のサンダルで歩いてゆく。エルサレム・ストーンで囲まれた旧市街の城壁の向こうの谷で、へばりつくようにその谷底で荒い息をしているアラブの村も、その向こうヨルダンへと続く遠い砂漠の山々も、その桃色の西日に染まり、淡い幻想世界のようにどこまでも霞んでいる。いくどとなく見慣れたはずのこの景色。それでも、改めてここは中東の片隅なのだなあと、異邦人の女の肩からうれしくも、そしてどこか少し寂しげなため息が桃色の空の露のように漏れる。
旧市街の嘆きの壁を見おろす丘の公園で、その若い女は夕日色のエルサレム・ストーンの石段に腰掛けると、ゆっくりと鞄から一冊のノートとペンを取り出した。暑く白い午後を忘れさせてくれる冷えたエルサレムの夕暮れの風は、すーっと心地よく、異邦人の女はこの薄桃色の時間が一日の中でもとても好きだった。石段の上に座り、その日の思いなどをつらつらとノートに書きとめていると、異邦人の女はどこからか響いてくるか細い男の声にハッと顔を上げた。幻想的なオレンジ色の街灯の下には、意外な世界の住人がひとり。異邦人の女をじっと見つめながら直立している。ちょうど男の胸のあたりまで伸びたウェーブのかかったグレーの長い髭が、60代とも30代の若者とも見当のつけようのない、黒いスーツに黒い帽子のその男。そのいでたちはどこからどう見てもオーソドックス・ユダヤ(正統派ユダヤ)のそれだった。
なぜかしらオーソドックス・ユダヤの男たちは、不思議の国のうさぎのように、いつもどこでもまるで時間に追われるかのように早歩き。そんな彼らが通りで女とすれちがう時、男は黒いカウボーイ・ハットのようなユダヤの帽子をきゅっと鼻先まで引きよせ、さっとうつむき横を向くか、まるでお尻に火がついたような速さで、でも決して走らずに通りの向こう側へと急いで渡ってゆく。すれ違いざまに女の姿をじっと正面から見つめたり、ましてや少しでも肢体に触れるなどは、その世界ではハレンチこの上ないらしい。インターネットや街角で、安売りされているロマンスを手軽に得られるこのご時世でも、オーソドックス・ユダヤの世界では「男女4歳にして席をともにせず」、結婚適齢期の17歳あたりから見合いをするまでは、起こり得ない異性との出会い。異ならない宗教価値観の家庭の娘と息子は、一、二度、見合いの席でちらりとお互いの顔を覗き合うほどで結婚へと。そしてあたかも銭湯のような男と女別々の入り口と、これまた男と女に仕切りられたウェディング・ホールでの結婚の儀まで、互いの声さえも聞いたことすらなかったなどは決して珍しいことでもない。そして人の夫となった男は、それまでとはなんら変わりなく、通りでは黒い帽子をきゅっと引きよせ、あちら側に渡り続ける。
そんな奇妙な世界の住人の男が、そのか細い声でその異邦人の女に触れる。ちょっとこわばった笑顔で、でも少し不安げに痩せたそのグレーの髭の男。
「いま、なん時でしょうか?」
いつも時計を持ち歩かない私は、その声にペンを膝の上のノートの上におくと、「時計は持ってないけれど・・・ほらね」と軽く両手首を上げて見せた。髭の男はちょっと苦虫を潰したような困ったハニカミで、黒い帽子の鍔を引きよせるように少し躊躇い、一歩、異邦人の女に近づくと、膝の上に広げられたままのノートを神経質に細い人差し指で指し、珍しそうに目を細めた。
「・・・これはどこの国の言葉?君はどこの人なの?」
日本という、あなたの知らないアジアの隅の、日のいずる国の言葉。髭の男は、彼には絵に見えるらしいはじめて見る日本語の文字を、瞼をパチパチさせながら見つめた。しばらくの沈黙が流れて「さあ、もういいでしょう?」と男に気のないふりをする異邦人の私。しかしその意に反して、どうしたわけでかこのグレーの髭の男はさらに話しを続けた。
「私は・・・エフライムといいます。あの、少し話をしてもいいですか?そこのイェシヴァで時々個人的に何人かの生徒に教えているので・・・」
髭の男は公園の隣に建つイェシヴァと呼ばれるユダヤの宗教学校を自信なく指して、決して怪しい者ではないと告げたそうだった。仕方がないので「ああそう?」と私は軽く相槌を打つと、なぜか彼の心になにかが引っかかっているような気がして、ノートを膝の上に置いたまま、しばらく彼のぽつぽつ話に耳を傾けた。すると彼はオーソドックス・ユダヤの男らしく、長い髭を顎から下へすーっと引っぱるように撫でながら、少し口ごもり、そして次にはその口からまこと黒服のオーソドックス・ユダヤの男らしからぬ言葉が飛び出した。
「君は日本の人なんだね?・・・あの、よかったら、その、私とトモダチになってほしいのだけど・・・」
私は一瞬驚いて、じっとその髭の男を見つめた。束の間の沈黙。オレンジ色の街灯は少し艶かしくあたりを包む。私は少し現実的に、確認の意味を込めてその髭の男に尋ねた。
「トモダチってどんな友達なのでしょう?話をするだけの友達?それとも・・・?」
オレンジ色の街灯はもはや尋問されているグレーの髭の男をくっきりと映し出し、髭の男は瞼をドギマギ、パチパチ。
「えっ・・・?イヤ・・・その、ときどき会って・・・その、まあ、あの、そういうトモダチ、なんだけど・・・」
やっぱり男なんてそんなもんです、とそれならば、オーソドックス・ユダヤの世界の住人である彼が受け入れやすい、謙虚でオーソドックスな大嘘をついてみた。
「あら、ごめんなさい。私、ずっと前から結婚していて、子供ももう“タクサン”いるから」
すると彼は、先ほど距離を一歩縮め寄った私の膝から、残念そうにまた一歩後ろへ遠のいて。しかしそれでもまだそこから去ろうとはせずに、さらにこう早口で一気に切り出した。
「すみませんでした。実は私は妻に離婚されたばかりで、6人の子供たちにも会わせてもらえなくて、それでその、ひとりぽっちで、えっと・・・、」
オレンジ色の怪しげな街灯の下。はじめは気づかなかった。その切羽詰った彼の孤独な思いを映した瞳は、実はとても真面目なもので、でも真面目な分だけきっと愛情にとても不器用な人なのだなと、どこか迷子の子犬のような困ったような寂しさが切なくて。そうしてグレーの髭の中に埋もれた彼の口からは、洪水のようにそれまでの思いがあふれ出し、私は彼のバケツになった。遠く家族の住む町を離れてからというもの、おなじ屋根の下で語りあう人のいない心寒さは私自身も身に沁みて、そんな髭の男の孤独をつき放せない自分がそこにいたから・・・。
「そう、つらいよね。暗い誰もいない家で一人眠る夜は・・・」
髭の彼は眉毛をきゅっと八の字に寄せ、幼子のように今にも泣き出しそうに、黒いオーソドックス・ユダヤの服の肩が細かく揺れた。
陽の明るい間はいいけれど、語りあう人のいない夜は永遠のように長く寂しくて。引っ越した町には知りあいもまだ少なく、語りあえる人もなく。唐突に子供を連れて出て行ってしまった妻だけど、それでも青年時代から長い年月を共にした妻をまだ忘れられずに恋しく思い、いつもまとわりついていた子供たちのうれしそうな笑い声が今も耳に残る。ならば、せめて一人ぼっちの寂しさをごまかしたくても、この砂漠のオーソドックス・ユダヤの街角に、手ごろなロマンスは売られてはいない。こんなほんのひと時の出会いですらも、彼の世界には落ちていない。そこで、このぼんやりとオレンジ色に包まれた旧市街の公園で、偶然に見かけた異邦人の女に声をかけてきたのだろう。嘆きの壁へゆく人の絶えない夜の旧市街のユダヤの町で、現実と夢の間を彷徨いながら。
私は着ていたコットンのシャツの胸ポケットから、先ほど摘んだ香りの強いラベンダーの一本を、長いまつげを伏せてじっとたたずむグレーの髭の彼にそっと差しだした。すると彼の目が一瞬きらりと輝き、少年ようにちょっと眩しそうに、そしてオーソドックス・ユダヤの男らしく、異性である私の指に決してふれないようにと、そっとラベンダーを軽くつまんだ。
「これは・・・なに?」
「ラベンダーよ。きっと、眠れるから・・・」
深くため息をついて、彼。
「ラベンダー?・・・眠れる?これで?知らなかったよ・・・」
そうして髭の彼はラヴェンダーの香りを鼻先に持ってゆくと、ラヴェンダーへのユダヤの祈りを唱える。
「そう、カミサマはこんな香りも創られたのね。きっと今夜あなたがゆっくりと眠れるようにと・・・」
まじないのような、どこか悲しげなヘブライ語の祈り。そして私はそっと囁いて、彼はゆっくりとラヴェンダーを吸い込むと目を硬く閉じた。
混ざり合った香辛料と、どこか甘ったるいアラブ・コーヒーの香りが漂う、迷路のように細く入りくんだ隣りのムスリムの町と、谷底の村のあちこちから高く突きだしたスピーカーから、コーランの太い祈りが静かな冷たい風に乗り、薄桃色から青紫色へとグラデーションしたエルサレムの夜空を割るように響きわたる。目の前には、その響きにも動じずに、静かにたたずむかつてのユダヤの神殿の西壁の名残り、嘆きの壁。身体を前に後に揺らしてリズムを刻みながら、その壁の前で一心に祈りを捧げる黒い服に包まれた男や女たち。ラベンダーをぎゅっと握り、今にもポロポロと泣き出しそうな迷い子の髭の彼。それをしばらく前から少し離れた木の蔭で、じっと静かに息をひそめ、瞬きもせずに見つめている金色の髪の若い男。そして、気がつけばなんの故郷のカケラも見あたらない遠い砂漠色の街に住む、異邦人の私。数え切れないほどのLost Souls。と、何千年もの祈りを秘めた壁の彼方の夜空に浮かんだ中東の、赤い月。