Tataを探して。(真夜中過ぎの住人たち・真夜中過ぎの猫たち)
同居人はとうとうTataが心配になってきたようで、真夜中過ぎになると通りへこっそりと夜な夜なエルサレムの街をTataを探して歩き回ります。口笛を吹きながらTataの行きそうな路地裏や公園、ゴミ箱の下などをTataを探しています。ある夜のこと、車もなく静まり返った大通りをTataを探して歩いていると、同居人はシャンガシャンというロボットのような音を聴き、なんだろう?と立ち止まると、向こうのほうから歩行器を押しながらアインシュタインのような髪型をしたおじさんがやって来ます。
「コンバンワ」
同居人がそう声をかけると、アインシュタインおじさんはニッコリと笑ってガシャンガシャンと通り過ぎてゆきました。毎晩、真夜中過ぎになるとこのおじさんは、ガシャンガシャンという音と一緒にどこかへ出かけてゆくのです。
次に同居人は街角のハープ弾き、おかっぱアタマの太っちょおばさんのところへ行きました。このハープ弾きの太っちょおばさんは、雨が降ろうとも横に爆弾が落ちようともまったく関係ないわと、毎日同じ角でひとりハープを弾いています。同居人が太っちょおばさんのところに行くと、おばさんはちょうど帰り支度をしていました。
「コンバンワ、おばさん。今夜はもうおしまい?ねえ、Tataを見かけなかった?」
おばさんはいつものようにハープを弾いて答えます。
「♪~ん、♪♪♪♪っ♪♪♪~♪♪♪♪♪♪♪♪ぁ、♪♪♪♪♪♪ぉ♪♪♪・♪♪♪♪♪~」
「そう・・・、Tataは今日は一度もこちらに来なかったんだ。うん。どうもありがとう。おやすみなさい」
「♪♪♪っ~♪♪♪♪♪」
同居人はちょっぴりがっかりしてハープ弾きのおばさんの角を後にして、小学校前の家から引っ越しするもうひとつ昔に住んでいた階段通りの家へ行ってみようと思ったのです。もしかしてTataはそちらに行っているのかも知れません。オレンジ色の街灯の下、同居人が階段通りで口笛を吹くと、暗闇からどこか見覚えのある猫が一匹飛び出してきました。そして「にゃ~ん」と色っぽく同居人の足元にまとわりつきます。もちろん同居人はすぐにそれが誰だかわかりました。
「あらっ!誰かと思ったらやっぱりジョセフィーナさんじゃありませんか。お久しぶりですね、お元気でしたか。その後おかわりは?」
一年ぶりで再会したTataの前妻猫さんのジョセフィーナ。なんだかちょっぴり顔色が冴えません。
「それにしても顔色が良くないですね、ジョセフィーナさん。どこか具合でも悪いんですか?えっ?後ろにいるのが去年生まれた新しい娘さん?で、その後ろの子猫が孫猫?あらら、またまた家族が増えましたね、あなた」
ジョセフィーナの後から彼女似の、少し細身のべっぴんさんの若い娘猫と子猫がひょいと顔を出し、ジョセフィーナと同じように同居人の足元にまとわりつきます。
「ふんふん、そうだったんですか。じゃあ、あれからジョセフィーナさん、あなた、男猫運が悪いんですね。あのイケイケの白猫も結局どこかに行ってしまったんですか。はあ、それでお顔の色が優れないんですね。毛荒れもしてますよ。いけませんねえ。やっぱりちゃんと浮気心など起こさすにTataと連れ添っていれば、今頃は幸せだったのにね、でもそんなこと今さら言ってもしょうがないですね。それでなんですけども、ジョセフィーナさん。こんなこと聞いちゃ失礼かもしれませんが、この一週間にあなたの前夫猫のTataを見かけませんでしたか?」
ジョセフィーナはTataの名前を聞くと、ふんっと顔をあちらへ向けて、昔と変わらずにちょっとすねて見せます。
「ふんふん、そうですか。Tataはアレっきり顔を出してないんですか。そりゃ、あなた、あれからTataは傷心してましたからねえ。えっ?悪いのはあなたじゃないってんですか?まあ私にはどっちでもいいんですけどね。それじゃ、ジョセフィーナさん、お元気で。えっ?寂しいから行かないでくれって?いやあ、そう言われても私も困るんですよ。そうやってまた私を利用する気でしょう?あなたも本当にしょうがないヒトですねぇ。それじゃ、また明日の晩にでも手羽先でも煮て持ってきてあげますよ。あら、結局利用されましたね、また。じゃ、おやすみなさい」
さすがのジョセフィーナも、男猫疲れとやるせなさでかなり落ち込んでいる様子。同居人はじっと潮らしく寂しそうに同居人の後ろ姿を見送っているジョセフィーナを後にして、階段通りを下って行きます。階段通りの右手の真っ白なひげのフランス人の老人の、靴箱のように小さな古ぼけた家から相変わらず音楽が聴こえています。痩せた髭の老人は、夜遅くから霧が冷たく車のボンネットの上を濡らす朝方までステテコにシャツ姿でソファーに寝そべりながら、独り言をぶつぶつ、時には誰もいない壁に向かって大声で怒鳴りながらスピーカーいっぱいの音量でクラシックを聴いているのです。さすがに同居人もTataがここへ寄っていないことを知っていたので、老人のドアはノックしませんでした。
すると冷たいエルサレムの霧の向うから、どこから見つけてきたのか山のように荷物を積んで、両脇にたくさんのゴミ袋を吊るしたスーパーのカートがガタガタとアスファルトの路面をこちらに向かって来ます。男とも女ともつかないそれは何枚ものボロボロの布をまとい、ゆっくりと同居人のほうへ進んでいました。クラシック音楽を聴きながら独り言を繰り返す老人、霧の中のカート、同居人は真夜中過ぎのエルサレムでちょっぴり心細くなって階段通りを急いで駆け下り、引っ越し前に住んでいた小学校前の家へと走りました。同居人がそこへ着くと家のあたりは真っ暗でシーンと静まり返り、以前のように猫たちの姿は見当たりません。同居人は軽く口笛を吹いてTataを呼ぶと、暗がりの奥から眠たそうな目をこすりながらTataがノソノソと現れました。いつもの屋根の上で眠っていたようです。
「Tata!昨日の晩もその前の晩も、ここに来たらノラちゃんが一人でいたよ。でも君はいなかったね。どこへ行ってたの?ハープのおばさんのとこにも行ってなかったしさ。やっぱりこっちの家のほうがいいの?新しい家には帰ってこないの?向こうはいや?ご飯はどうしてるの?」
同居人は次から次へとTataに質問しますが、ジョセフィーナに会ったことはTataには内緒にしておきました。それでもTataは眠っていたところを起こされてかなんだかちょっとおもしろくありません。どうも家を出てからあっちこっち歩き回ったので、一緒に引っ越ししたことをすっかり忘れてしまったようでちょっと混乱しているのでしょう。同居人はTataに「一緒におうちに帰ろうよ」と言いますが、たくさんの道をあっちこっち歩き回ったTataはもう眠たくて仕方がないので、ここで今夜は寝たいんだけどなと思っているようです。それを感じた同居人はもうどうしていいのかわかりません。
「Tata、明日の晩に君のカバンを持って迎えに来るから、この時間にまたここにいてね。カバンに入ってなら新しいお家に連れて行ってあげられるからね。それとも、君、いま一緒に歩いてくる?」
Tataは眠たそうに首を横にふります。これから歩いて行くなんて・・・。でも悲しそうな顔をしている同居人がちょっぴりかわいそうになって、角の公園のところまでならお見送りしてあげるよと言いました。それで同居人は仕方なく角の公園まで一緒に歩いてから、もう一度Tataに一緒に帰ろうと誘ってみますが、Tataはやっぱりうなずきません。そこで同居人はとうとう、「じゃ、また明日ね。待っててね。」とTataにさようならを告げ、濃い霧の夜空の下、階段通りとは反対の坂道を登って一人で新しい家に帰りました。
そして、次の夜。いつものように真夜中が過ぎて、新しい家のリビングにTataのソファーもおそろいのグリーンのクッションも用意してから、同居人はTataを入れる黒い小さな旅行カバンとタッパーに詰めたTataの大好きな鶏の手羽先のお弁当を持って小学校前の家へ行ってみました。昨晩と同じように口笛を吹きながらTataを呼びました。でも、返事はありません。もう一度呼んで見ます。でもやっぱり返事はなく、濃いグレーに縞の入ったノラちゃんがひとり、塀の上で香箱を組んで同居人を眺めています。
「ノラちゃん、Tataを見かけなかった?昨日、この時間にここで待っててねって言っておいたんだけどな・・・」
ノラちゃんはいつもそうするように、同居人の顔をじっと、なんだか眩しそうに瞳をパチパチさせて見つめます。同居人はいつもノラちゃんのこの表情を見るたびに、ヨーロッパのどこかで見かけたおなかをすかせたジプシーの子供のようだと思うのでした。ノラちゃんと話しながら同居人はしばらく塀のそばでTataを待ってみることにしました。そうして、真夜中過ぎの時間がしばらく過ぎて、カシオペア座がぐっと頭の上に近くになった頃、階段通りからの角で塀の上にピョンっと乗った猫影が同居人の目に留まりました。
そう、Tataがやって来たのです。同居人は急いでお弁当をカバンから取り出し「Tata!」と呼ぶと、Tataはタッタッタッとまるでアフリカの草原を駈け抜けるライオンのように軽快に走ってやってきました。同居人はお弁当のフタを開けるとうれしそうにTataに差し出します。Tataもすっかりおなかがすいていたのでしょう。ほんの一瞬でそれを平らげてしまいました。そして、ちょっとTataのおなかもほんのり幸せになったところ、同居人は辺りをすばやく見回すと、母親猫が子猫を持ち上げるのと同じようにTataの首ねっこをヒョイっとつかんで、黒いカバンの中にTataをポンっと入れてジッパーを閉め、「バイバイ、ノラちゃん!残りは食べていいよ。またね!」と急いで真夜中過ぎのエルサレムの坂をびゅーんっと駆け上がりました。今夜の猫泥棒の唯一の目撃者のノラちゃんは相変わらず塀の上から不思議そうにパチパチと瞬きをしてそれを眺め、思い出したようにTataのお弁当の手羽先をくわえるとどこかへ行ってしまいました。
Tataがやっと開けてもらったカバンから顔を出してみると、「あら、ここはどこ?」と一瞬と惑ったようでしたが、すぐに引っ越しした新しい家だと思い出しました。
「Tata、ごめんね。いきなり君をカバンになんか入れちゃって。でもね、君はすっかりこの家にたどりつく道のりを忘れちゃったみたいだから。これからほんのしばらくはお家から出ちゃだめだけどね。だって、また忘れちゃうでしょ、この家のこと」
Tataはそうだね、同居人の言うとおりだね、と相槌を打つと、すぐに冷蔵庫の前にきちんと前足をそろえて座り、いたずらっ子っぽく緑の瞳を輝かせて同居人に言いました。
「じゃ、これからしばらくはずっと手羽先作ってくれる?そしたら僕うれしいな。今夜カバン誘拐されたことだって忘れちゃうよ」
同居人は冷蔵庫から冷たく冷やした手羽先と、そのまわりに固まったゼラチンを取り出してTataのお皿に乗せました。
「Tata、はい、これ。ちゃんと作っといたんだから。ほら、全部食べていいよ。でもそのかわりにちゃんと一週間のエルサレムの冒険の話しを聞かせてね」
それからTataと同居人はいつものようにベッドに一緒に寝転んで、うふふふふっと笑って、Tataの長い一週間の冒険話が終わったのはすっかり夜の霧が晴れてエルサレムの東の空が明るく染まりはじめた頃でした。それから二人は朝鳥の声を聞きながら、桃色の空の下、毛布に包まってそっと眠りに落ちてゆきました。