Saturday, January 15, 2005

橋向こうの迷路(せかい)

ブルックリンの向こうから、キラキラと輝くマンハッタンを眺めるのがとても好きだった。色彩豊かな吐息と、イエローキャブの途切れることのないテールライト。騒音と排気ガス。とめどとなく散りばめた小さな無数の宝石のように、七色にも十色にも煌々と瞬きながら、どこかゾッと冷ややかな美しさと愚かさを放つ高層ビルの光り。

365日眠ることなく、札束と夢が交互しながらビル風に空を舞い、休日には緑豊かに造られたセントラル・パークで笑いあって語りあって、人間ゲームを楽しむ。でも、本当はだあれもなにも気にしちゃいないって知っていた。そう、自分たちのこと以外はね。希望と野望と夢と虚無が混ざりあった街。そんな、橋向こうの世界、マンハッタン。そんなあの街へと、ゆらりふらり、橋を越えようか。だって、誰も僕を知りはしないから。

鞄のひとつも持たず、ズボンのポケットのしわくちゃの10$札とコインとシュムエルが、ゆらりふらり、とFラインでマンハッタンからブルックリンの片隅のボーロ・パークへと、橋を越えてやって来る。30代半ばの彼はちょっと眠た気な優しい羊を思わせる、子供のように澄んだ心が温かいとても頭のよい人だった。フランスのとある街のオーソドックス・ユダヤ家庭の末弟として生まれたシュムエル。

記憶に残っていないほどまだ幼かったころにフランスで母を亡くし、その後、父に連れられて兄たちと海を越え、ニューヨークへと移り住むことになった。しかし、母を失ったばかりの子供たちのたったひとつのより所だったシュムエルの父は、彼らがニューヨークに着くか着かぬかのうちに、父であることを完全に放棄し、5人の子供たちをみな、離れ離れに親戚へと引き渡してしまった。大人の身勝手な選択で、栗色の短いペオスが揺れる幼いシュムエルは、理由もわからぬままに兄たちと引き離されると、ほんの少し身の回りの物の入った小さな黒い鞄をひとつ抱えて、ひとり、ボーロ・パークに住む痩せた気難しい父方の祖母の元に身を置くこととなった。それ以来、その痩せた祖母は、小さなシュムエルが兄たちと会うことを許さず、決して父の行方も教えることはなかった。

あの日、フランスのあの街で母が亡くなって以来、家族の温もりや人との心のつながりを知ることもなく、小さな心にぽっかりと大きな穴が開いたまま、ひとりぼっちのシュムエル。レンガ色のボーロ・パークの片隅で、そんなシュムエルの日々は静かにすぎていった。

ユダヤの成人式バル・ミツヴァも終えてから三度目の夏の終わり。バル・ミツヴァをとっくに済ませたといっても、まだまだ心は繊細なまま。大人になりきっていないうっすらとしたあご髭が気になりはじめた16歳のシュムエルと黒い鞄ひとつ。母が亡くなって以来、たった一人の身内であっても、冷たく、これっぽっちの愛情の欠片も感じられず、ただ惨めな気持ちにさせるだけだった祖母の元を逃れるようにして、シュムエルはボーロ・パークの隣町にあるオーソドックス・ユダヤのイェシヴァの寮へと、小さな黒い箱に皮の巻き紐のついた祈りの道具ティフリンと祈りの本と、白いシャツと黒いズボン何枚かを入れた黒い鞄で、ボーロ・パークの家を後にした。生まれ故郷のフランスでもボーロ・パークでもない見知らぬ空の下で、16歳、鞄をひとつ抱えて、天涯孤独の道を歩きはじめる。

その新しいユダヤの街は、それまでとなんら変らず、ボーロ・パークと似たような通りには、イディッシュ読みのヘブライ文字の看板にカシェル印のついた食堂や、ヘブライ文字の書物が並んだ本屋に黒い服の男たち。忙しそうに乳母車を押しているかつらをつけた女たちや、その手伝いをする小さな少女たち。わき見をしようにも、なにもかもが判を押したようなイェシヴァの宗教世界で、毎日机を並べるおなじ年頃の黒い服の男子生徒の中でも、シュムエルはその群を抜いてタルムードの理解に長け、若くしてラビの資格を得ることとなった。しかし、誰かに心からやさしく見守られたことも、また誰かの心に深く触れたこともないシュモエルには、いつまでたっても人と人との心のつながりを本当に心から感じることはなく、それは神と己の関係と人と己との関係、その垂直と平行のユダヤという宗教の基本が理解できないという致命的なものだった。

現実のシュムエルの父は家族を捨て行方をくらました父であり、ユダヤの「すべての父である唯一の神」という神の根本は、その実の父に見捨てられたシュムエルを苦しめるばかり。しかしその困惑からの出口をひとりで見つけるには、シュムエルはあまりにも若すぎ、まして長い髭の黒い服の大人たちからも納得できる答えは一度たりとも聞けずにいた。そして、現代的なマティリアルな生活とはまったく縁がなく、生まれながらの居場所である宗教世界で生きることになんの疑問を持とうともしない学友たちからは、誰とも心が結かない変わり者と嫌煙されていたシュムエルが25歳も過ぎたある日。オーソドックス・ユダヤの精神世界に留まらなければならない確かな理由が見つけられなかったシュムエルは、16歳でボーロパークを去りその街にやって来た時とおなじように、たったひとり、と、鞄ひとつ、で、それまで触れたこともない世俗の世界へと静かに旅立った。

誰も知る人のいない橋の向こうの、巨大な迷路のようなマンハッタンの街をひとり、イディッシュ語訛りの抜けない片言の英語で、ゆらりふらり。おなじニューヨークの片隅といえども、イディッシュ語でのオーソドックス・ユダヤのイェシヴァには英語の時間などはなく、マンハッタンの通りの看板に書かれた英語の言葉もよくわからず、街角のダイナーでウェイターになれるほど英語をうまく話すこともできなかった。それまで生きてきた世界とはまったくの異次元、マティリアルにうごめくマンハッタンの世界では、どう息をしたらよいのかさえもわからず戸惑うばかり。いくらタルムードの教えに長けていても、コンピュータケースに名刺の一枚すらないシュムエルなど、誰も見向きもせず。ビジネスのノウハウも知らなければ、なにか手に技術があるわけでもない。

なにもかもが慣れないその不思議な世界では、橋をたった一つ越えただけといえども、オーソドックス・ユダヤのラビ・シュムエルの落ち着ける所などそう簡単に見つかるはずはなく。ゆらりふらり、セントラルパークで寝泊りするシュムエルを、ボーロ・パークのイツホックは放ってはいられずに、不動産を扱う友人シムションに頼み込むと、アッパー・イーストのコロンビア大学に近いハドソン・リバー沿いのアパートの一室を都合した。そのアパートの別の部屋にはすでに若い世俗のユダヤ男が住んでいたが、橋を越えてから幾日すぎて、いつまでも公園のベンチに寝泊りするわけにも行かず、シュムエルは鞄ひとつ、その世俗ユダヤのアパートに転がり込んだ。

シュムエルがそのビルの三階のアパートの一番奥の部屋にノックして入ると、そこには髭もなければペオスもなく、ジーンズを履いたまるで異教徒のような姿の若い男が、乱雑なベッドの上に寝そべりながらテレビを見ているところだった。ジーンズにネクタイ、ミニのドレスを身につけた何人かの若い男と女たちが、アパートの一室のソファーに座り、肩をふれあわせて楽しそうに笑いあっているソープ・オペラの、生まれてはじめて身近で見る実際にテレビというものに映される画面、にシュムエルの目は一瞬大きく見開き、釘づけになった。しかしすぐにためらいとともに画面から男の方へと視線を戻すと「シャロム アレヘム」と、帽子の鍔を少し下げて、世俗世界ではまったく場違いなあいさつをした。

「ハイ!オレはアヴィ・・・今日から仲良くやろうぜ!」

「アヴィってことは、アブラハムか。とりあえず名前だけはユダヤなんだな・・・」、シュムエルはそう喉の奥で飲み込んでその世俗男の軽い口先だけの挨拶を背にすると、薄暗い廊下の洗面所脇の部屋のドアのノブを回した。ドアの横の電灯スイッチもONにせずに、薄暗い部屋の中をサッと見回すと、空き部屋特有の湿りを含んだムッとする匂いが黒い服と帽子に纏わりつき、シュムエルはまるで自分がその重く薄暗い空気に同化してしまうように感じた。その湿気た空気をふり切るようにして、鞄を無造作に部屋の中央に放り投げるように置くと、舞い上がった白い埃も気にせずに、シュムエルは六角形の中庭を見下ろせる窓の傍らに静かに佇んだ。すっかり汚れた窓ガラスと中庭の向こうには、電灯の灯りに浮かび上がったそれぞれのアパートの住人たちの夜の生活が、ちらりほらりとオムニバス映画の断片のように見え隠れしている。

向かいのアパートのキッチンの窓には、若いカップルがテイク・アウトしたチャイニーズ・フードを、2本の細長い棒のようなもので突きながら楽しそうに口に運んでいる姿が、暗い中庭にまるでテレビ画面のように浮かび上がる。その若い女のウェーヴのかかった赤い髪は燃えるように魅力的で、シュムエルの濃いグレーの瞳には下着としか映らない胸の大きくあいたベビー・ピンク色のキャミソールから伸びた白い肌、椅子の上で行儀悪く膝立をしている脹脛までのズボンの片方の足は、すらりと細くしなやかだった。

髪も覆わずにあんなに肌を露出させて男の服を着るなんて・・・
しかも素足を・・・ああ、タイツも履かないんだな・・・

七分丈のカーゴパンツの赤い女とテーブル越しの男は、まるでオーソドックス・ユダヤの若い結婚前の娘のようなポニーテールの長い栗色の髪に、それに似合わずしっかりとした力強そうなあご。濃い紫色のシャツの胸元は開き、頬杖をつきながら赤い女と笑いあっている。その男の形のよい鼻に引っかかっている黒く細いフレームの眼鏡だけが、これまでのシュムエルにとって見慣れた世界の名残のようだった。

おや、あれはなんだろう・・・
カタツムリに似ているようだけど・・・

シュムエルにはそれがシュリンプであることなどまったく知るすべはなく、スパゲッティーをさらに茶色く細くしたような麺も栗色の髪のように思えた。そのカタツムリのようなタンパク質を、2本の棒で少し不器用に摘んではうれしそうに口へ運んでいる若いふたり。橋向こうの世界でなら、とうに子供が数人もいるような家庭の男と女。この髪を隠していない若い赤い女が結婚しているともシュムエルには思えず、しかし、そんな未婚の若い男女が一つ屋根の下にたったふたりっきりでこのように時をすごしているなどとは、現実として受け止めるには、シュムエルの頭はただ混乱してしまうだけだった。

橋をひとつ越えただけで、こんな非現実的な世界が本当に存在したなんて・・・

シュムエルはただじっとその窓の向こうの世界を、まるで先ほどアヴィの部屋でちらりと見たテレビのソープ・オペラの続きのように、見るともなくぼんやりと見つめていた。橋向こうの世界の住人だった自分とはなんのかかわりのない、遠い遠い世界。それからどれくらいの時間がたったのだろうか。気がつくと向かいの窓灯りの下では、あの若いカップルが食べ散らかしたチャイニーズ・フードの入れ物を横に、食後のコーヒーをすすりながら、テーブルの上で互いの手を愛しそうに重ねあっている。シュムエルは不安げに窓から目をそらすと、湿った薄暗さにも慣れはじめた目で部屋の中をぐるりと見回した。薄暗いその部屋にはイェシヴァの寮と同じくらいに家具と呼べるそれらしいものはなにもなく、デスク用の古ぼけた小さな電灯スタンドがひとつとシュムエルの傍の窓際に、そして部屋の隅に一枚のマットレスが白く埃をかぶって放置されていた。

汚れた古いフローリングの床の上には、ひび割れた小さな手鏡とその横にいかにも硬く切れの悪そうなハサミがマットレスに寄り添うようにして忘れられている。シュムエルはゆっくりと気だるそうに床の鏡を拾い上げると、ふっ、と吹きかけた息は薄暗い部屋に白い粉となって飛び散って、思わず咽こみ、橋を渡ってから着たきりの黒い上着で顔を覆った。そして上着で鏡の表面の残りの埃をぬぐうと、窓のそばに腰掛けた。黒い帽子に蝋のように白い肌と虚ろな深いグレーの瞳、そしてどこか中東を思わせるような黒く濃い髭の男が、薄い暗闇に窓から入り込む灯りの鏡の中に浮かび上がった。「これが、橋向こうの僕というわけか・・・」

鏡の中と窓の向こう。そのあまりにも奇妙な現実に、思わず細身の体が窓にのめり込むように傾いた瞬間、視界に突然、パッと小さな光が現れた。灯った部屋の小さな灯りに、シュムエルの顔が窓に照らし出される。その左右に、斜め上に下に、無数の髭の男たちの顔が浮かび上がる。兄たちの顔、祖父の顔、歴代の偉大なるラビたちの顔、顔、顔、が、薄暗い灯りの中でシュムエルを取り囲む。静かに悲しげなヘブライ語の祈りがどこからか流れる。

パチンッ!

再び訪れた薄暗い空間。シュムエルは窓ガラスに映ったそれら髭の顔に、すぐにその窓際の小さなスタンドのスイッチを叩くように切った。「・・・バカな、幻想だ、」と、軽く息を整えると、シュムエルは静かに橋向こうの世界そのものであるその黒いあご髭に触れると、橋を越えてから何日もシャワーも浴びずブラシもかけていないその黒い髭は、いつもよりもゴワゴワと、まるで手触りの悪い粗悪な織物のような心地悪さを残していた。

耳の横のペオスと同じく、髭を落としてはならないことは誰にいわれるまでもなく、橋向こうのオーソドックス・ユダヤのラビ・シュムエルは百も承知だった。彼らの世界では、父から息子へと、そのまた息子へと、3000年という彼らの歴史と伝統の中で、シュムエルの知っている男はみな髭を剃られるより死を選んでも守ってきたことだった。シュムエルは、たった今、彼の心を見透かすかのように窓ガラスに映し出された髭の男たちと、それらの無限の叡智を思い返すと、なにかを諦めるように、失望感にそっと大きく深い息をついた。窓ガラスに映った男たちと記憶の中の男たちのどこにも、幼くして別れた彼の父の姿を見つけることはできなかった。

カタン、パチンッ。

たった今切り落とされたばかりの細かな針のような髭が散乱した窓際に、その錆びついて切れの悪い鋏を置くと、シュムエルはもう一度、今度は自分の意志で部屋に光りを灯した。そして手元の手鏡をそっと左手に取ると、小さな光りの灯った鏡に映る髭の落とされたあごと頬は、不気味なほどに不健康に青白く、もう片方の手でシュムエルはその裸になったあごをそっと触れた。窓に映った向かいのキッチンを見つめながら、手さぐりで切り落とした短い残り髭がチクチクと突き刺さるような不快な感触に慣れず、しかし黒く濃い髭を蓄えていた時よりも格段と若く鏡に映るシュムエルがいた。

・・・僕にもちゃんとあごがあったんだな。ふん、思ったよりも遥かに小さな顔だ

髭が生えはじめてから、もう何年も知ることのなかったそのあごに右手で触れたその時、はじめてシュムエルはそれまで隠れていた自分の輪郭というものをはっきりと知ったように思えた。シュムエルは鏡を置くと、スタンドの弱々しい電球の光りの中で不機嫌そうに見捨てられた鞄を開けた。何枚もの白いYシャツに4足の黒いズボン、まったく同じ形の2枚の黒いジャケット。肌着とYシャツの間に着るそれぞれのコーナーに白い編み紐の下がったツィツィットが2枚、と白い靴下に白い肌着。それに紛れて「שומאל」とヘブライ文字で彼の名が白く刺繍された濃紺のビロードの道具袋がひとつ。

額と腕に巻く祈りの道具テフィリンと祈りの本が入っているその濃紺のビロードの袋を両手で取り出すと、イェシヴァで祝ってもらった13歳のバル・ミツヴァで「これからは一人前のユダヤの男だよ。ユダヤの法を守ってしっかり生きてゆきなさい」とラビにそれを手渡された時のことが脳裏に浮かんだ。ようやく成人として認められるバル・ミツバを迎える少年たちは、これで自分もひとりの大人の男として認められることへの喜びと責任にうれし恥ずかし、初めて各々のコミュニティーのシナゴーグで旧約聖書の朗読を披露する。そんな息子を誰よりも誇りに思う両親によって、息子の友人、親戚、コミュニティーの人々を招いてバル・ミツヴァの盛大な祝いの宴が催される。しかし、シュムエルにはそんな両親も、そして心の通った家族や親戚はひとりとしておらず、ボーロパークで身を寄せていた痩せた祖母は「そんなことはコミュニティーが面倒を見るべきだ」と、祝いの宴すら開いてくれる様子もなかった。

シュムエルの孤独といつまでも決して埋まることのない心の穴。そのことを少なからず気にかけてくれたイェシヴァのラビは、シュムエルの名が刺繍されたビロードの道具袋にテフィリンと柔らかな黒い革の表紙が美しい祈りの本を用意し、いつものイェシバの食堂での夕食をささやかながらも祝いの場としてくれたのだった。その時にそのラビに手渡されたテフィリンもビロードの道具袋ももうすっかり古くなり、そののちに新しいものに取り替えてしまったが、それでもシュムエルにとってはどのテフィリンもあの時のテフィリンであり、濃紺のビロードの道具袋もまた同じ思いだった。シュムエルはマットレスの上の埃をふっと吹くと、祈りの本とそのビロードの道具袋をそっと置き、それから中庭に向いた硬い窓を一気に押し開けた。そこから一気に湿気た部屋へと吹き込んだ、まだ冷たいに春先のマンハッタンの夜風は、裸の頬とあごにいつもよりも冷たく、しかしどこか清らかにすら感じられた。

シュムエルはためらいもせずに黒い上着を脱ぐと、開けた窓から空中に身を乗り出すようにして、その生暖かい黒い上着を外へと投げ捨てた。黒い上着は、すーっ、と暗い中庭にどこかへ吸い込まれるようにして消えてゆく。それを見届けてから、シュムエルはすっかり汚れた白いシャツのボタンをひとつひとつ素早くはずすと、同じようにまた窓から中庭へと投げ捨てた。そして部屋の中央に忘れられたままの不機嫌な黒い鞄をつかむと、その残りの中身を中庭に向けて大きく逆さまに数回、揺さぶった。数枚の黒い服と白いシャツが、風にひらひらと黒と白の大きな花のように空中に舞いながら、まるでスローモーションのように、打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた味気ない六角形の夜の中庭へと舞ってゆく。

ひらひらひらひら、ひらり、ひら、り。

それまでのシュムエルの橋向こうの過去、彼の生きてきた記憶が、なんとも呆気なく空っぽになって消えてゆく。

「これで最後だ!」

頭の上に残った橋向こうの世界、その黒いフェルト帽子の鍔にかけた手に、突然、六角形の中庭のどこかの窓から、季節外れのジャニス・ジョップリンの「Summer time」が流れる。


Summer time
and the living is easy
Fish are a-jumpin’
and the cotton is high


・・・女の歌声じゃないか!

ジャニスの絞るようなハスキーな歌声にシュムエルの視線が泳ぎ、黒い帽子の鍔に掛かったままの手は、そのままどうしていいのかわからずに硬く静止している。

ああ、いや、そうだった。こちらの世界では女の歌声などまったく問題ないんだったな・・・

そう自分にいい聞かせながら、それでもシュムエルはいつも通りで女とすれちがう時のように、黒い帽子の鍔を鼻先へきゅっと引くと俯いた。そして埃と髭の積もっているのも気にかけず、窓の燦に腰を下ろすと胸の前で両腕を組むと、そっと静かに目を閉じてその歌声に耳を傾けた。


Your daddy’s rich
and your mama’s good-looking
So hush little baby
Don’t you cry…

Summer time…


なにを歌っているのか知らないけれど、なるほどたしかに艶めかしいな。
これじゃあラビたちが躍起になって、女の歌声を聴くのを禁止するはずだよ。

ふっ、と小さく皮肉るように微笑すると、シュムエルは黒いフェルト帽子にもう一度手を掛けた。帽子の鍔を引き、脱ぎ捨てるように手首をクルリと捻ると、

「ザイ・ゲズント!」

シュムエルの黒いフェルト帽子はクルクルと回転しながら窓の外、夜の色に同化し、六角形の中庭の暗闇に消えていった。シュムエルはそれを見届けると、マットレスの上のテフィリンと祈りの本の入ったビロードの袋に視線を落とした。それらも鞄の中の他のものと同じように夜と同化させれば、それですべては終わる。まださわり慣れないザラザラとした頬からあごをひと撫ですると、シュムエルはゆっくりと窓の燦から離れ、濃紺のビロードの道具袋を手にした。

そして壁のクローゼットの扉を開け、一番下の棚の奥にそっとそのビロードの袋を乗せると、白く埃のかぶったマットレスの上に泥のように重い体をくの字に抱え込んで横たえた。バル・ミツヴァを迎えたあの13歳の朝以来、毎朝の祈りに用いる旧約聖書の引用文の書かれたテフィリンと祈りの本を、そしてたった一度だけ与えられた温かい心の欠片を、この窓から夜の闇へと投げ捨ててしまうなど、とてもシュムエルにはできず、中庭に開いた窓から吹き込む冷たい夜風は、まるでそれを知っているかのようにして、左足のつま先に軽い痙攣を起こしながら深い眠りに落ちてゆくシュムエルのまわりを舞っていた。

それからの髭なしシュムエルは、橋向こうとボーロ・パークのどちらの世界にも居場所を見つけられない同じような髭なしの男たちと、ボーロ・パークのオフィス・Cとマンハッタンを行ったり来たり、あの橋を越える。ボーロ・パークのようなオーソドックス・ユダヤの街では、安息日と食品カシェルを守らない髭なしの彼らは神との契約を破棄した異端者でしかなく、そして小さなビジネス・カードがものをいう橋向こうの世界では、なんの肩書きもないシュムエルなど誰も見向きもしなかった。

シュムエルと同じく生まれながらのオーソドックス・ユダヤでありながらも、器用にニューヨークのビジネス世界をも泳いで来たオフィス・Cのイツホックは、ゆらりふらり、のシュムエルに、当面の生活のために、インターネットを通してコンピュータの個人販売の仕事をやってみてはどうかと持ちかけた。イツホックの手助けでなら、ひょっとしたらそれくらいならやれるかもしれないと、シュムエルはアッパーウェストのアパートの、六角形の中庭に面した家具のなにもないがらんとした部屋から、細々とコンピュータの販売をはじめてみることにした。

こんな僕にもなにかできることがあったとはね。
しかもポケットにお金が入ってくるなんて、本当にすごいじゃないか!

生まれてはじめてそう思えてから数年が過ぎ、眠っていたかのような深いグレーの瞳も子供のように光りを増して輝きはじめたシュムエル。あの日から髭の剃り方も覚え、青白く不健康だった頬とあごも陽の光りに健康的な色を取り戻した。ようやく英語らしい話し方も身について、マンハッタンの碁盤の目に走る通りの看板もすらすらと読めるようになり、自分に少し自信もついた頃のこと。いつの頃からかシュムエルのコンピュータ販売のパートナーとなったマンハッタン男が、事もあろうにシュムエルの売り上げ一切を持ち逃げどろん、その行方をくらませてしまった。精神世界から物質世界への橋を越えてからはじめて人に裏切られた失望と、数万ドルという売り上げが同時にどこかへと姿を消してしまい、シュムエルはアパートの部屋の電話線を抜くと、ひとり、また暗い穴の中に落ちてゆく。ゆらりふらり、誰も彼を知らないマンハッタンの雑踏の中に身をすっぽりと埋めることでその現実から逃れようと、橋を越えてオフィス・Cに足を向けることすらなくなっていった。

そうしてしばらくのち、シュムエルはアパートの世俗ユダヤの男に勧められるままに、セントラル・パークを望む通りの、上辺だけのやさしさが典型的なニューヨーク女のカウンセラーへ時折通いはじめた。そのマリーという名の50代後半の女カウンセラー。豊熟な体がどこか柔らかで優しそうで、ひょっとするとシュムエルは記憶の遠いところ、おぼろげな母の面影をマリーに重ねていたのかも知れない。しかしマンハッタンという街に生き、宗教の持つスピリチュアリティや自分のアイデンティティを探すことも、また見出したことのないマリーには、そこからこぼれ落ちたシュムエルの探しているものが一体なになのかは知りようもなかった。

「さすがにクリスマスとハヌカぐらいは知っているわね。だって、街中のダイナーやレストランの窓に“Happy Chanuka!& Marry Christmas!”って一緒くたに飾ってあるじゃない?あははははっ!」

そうオプテミスティックに笑い飛ばすマリーには、ユダヤの、しかも髭のシュムエルの生きてきたオーソドックス・ユダヤの精神世界については、当然のことながらまったく未知の世界でしかなかった。

「ねえ、マリー、僕は一体これからどうしたらよいのだろう?」

「そうね、あなたは、まず、ユダヤであることをすべて忘れたほうがよいわね。そう思わない?ずっとこれまであなたを苦しめるだけのオーソドックス・ユダヤの人たちとは、一切関わらずに生きてゆくことがいいのよ。そしてユダヤではない異教の女性と結婚してはどうかしら。キャリアがあって自立している子がいいわね。だって、気位だけは高いニューヨークのJAP(Jewish American Princes)なんて、あなたには到底重荷なだけよ」

シュムエルのルーツのユダヤとは今後一切かかわらないようにと「世俗のすすめ」を説くマリー。しかし、ゆらりふらり、とマンハッタンの浮き草となったシュムエルでも、それらをまったく切り捨てた世俗世界への橋を、そう簡単にそして完全に越えられるものではなく、ユダヤの男としての象徴ともいえるテフィリンを捨てられずにいることの意味は、話したところでマリーにはわからない。

ボーロ・パークでの、ある安息日の夜のことだった。ブックスバウム家の長女リフカと私、テーブルに並べるだけ並んだ安息日の夕食をろうそくの光りの元に平らげたあと、腹ごなしの散歩がてらに走りすぎる車の一台も見当たらない元旦のように厳かに静かなボーロ・パークの目抜き通りをぶらぶらと歩いていた。いかにも東海岸らしいレンガ造りの建物にイディッシュ語の看板のかかった通りを行きかう、シュトライマレ帽に清楚に黒く着飾ったオーソドックス・ユダヤの人々の姿。サテンの黒いロング・ローブ、カフタンの下から覗く白いストッキング姿の紳士と、その隣をかつらの上にスカーフを掛け、慎みある黒いスーツとタイツで身を包んだ妻。

その両親の傍で、小さな妹や弟たちの手を引いている子供たちも、安息日用の一張羅のワンピースやまるで七五三のようなスーツにキパ姿で、親戚や友人たちを訪ね笑顔がこぼれている。彼らの口々からは歌うようなイディッシュ語が流れる。そんなボーロ・パークの安息日の夜の通りの向こうから、意外なことに、シュムエルともうひとりの髭なし男のジョニーが歩いてくる。

「シュムー!ジョニー!Ah Gut Shabbos!」

イディッシュ語で「よい安息日を」と、ふたりに声をかけると、ニヤッと顔を見あわせるジョニーとシュムエル。

「だめだよ、お嬢さん!キミもユダヤの勉強をしているのなら、ボーロ・パークの通りで、こんな落ちこぼれた異端者の男たちに話しかけるなんて。ほら、みんな怪訝な顔でこちらを見てるだろ?・・・Ah Gut Shabbos!Ah Gut Shabbos!あはははは!」

安息日が訪れる金曜の夕日沈むころになれば、髭なしでも今も自分がユダヤであることを思い出さずにはいられない。橋向こうの世界からFラインに乗って、ゆらりふらり、こちら側の世界へと。「じゃあね、」とボーロ・パークの安息日にはまるで似つかないトレーナーにベージュ色のチノパンとカジュアルな二人の髭なし男たちは、彼らがこの街では受け入れられないことを皮肉に笑い、どこかへと通りの向こうへ消えていった。そんな帰りたくても帰れないふたりのうしろ姿を見つめながら、噂話などすることのないリフカも「あの人たち、誰?」とさすがに声を少しひそめた。

「髭もペオスもなくて、あんな異教徒のような格好をして。彼らはもうこの世界に戻る気はないのでしょう?だったら、かかわらないほうが賢明ね」

リフカのその声は、ボーロ・パークの一般的な声かもしれない。それでもイツホックやオフィス・Cの男たちの中には、そんなシュムエルたち髭なし男たちの帰りを待っていてくれる人たちもいる。しかし、子供のころから一貫してイェシヴァで学び、哲学的にも深い髭なし男たち。なんらかの理由によって神をそして自分のアイデンティティを拒否し、ユダヤの精神世界からこぼれ落ちてしまったまま、それまでとはすべての価値観が異なる世俗世界で生きてゆく葛藤と混乱。そこに見つけられない出口は、ユダヤというルーツへ戻ることの他にはないと彼らも心の奥深くでは知ってはいるものの、橋のあちらとこちらを、ゆらりふらり、戻るに戻れず、その日の風に任せて彷徨い続ける。

売り上げを持ち逃げされる前に、数人の友人たちと彼と、そして私。一緒にテーブルを囲んだコロンビア大学の向かいのチャイニーズ・レストラン。白い陶器の皿の上でツルツルと滑る椎茸が珍しくて、シュムエルは子供のように好奇心いっぱいにその椎茸を見つめては、不器用に箸でつまみあげた。パクっと椎茸を口に放るように投げ込むと、その、つるん、とした味にうっとりと夢を見るように、やさしい羊のように目を閉じるシュムエル。

通りでサヨナラと抱き寄せてくれた肩がふわりと温かくて、大好きなジャズを聴けばそのすべての細かな音をも聴き分けてしまうほど情熱的なシュムエル。「元気かい?」と橋を越えたマンハッタンを訪ねた時に電話を入れる私に、「ああ!君は今夜、泊まるところがないのかい?心配するな、僕の部屋の隅を貸してあげるよ。毛布でも引いて寝ればいいさ」と、いつも少しピントはずれに優しいシュムエル。しかしその心の奥深くには、誰にも触れることのできない穴がいまだに塞がらずにいる。

そうしてまた夏と冬が過ぎ、今年の春のこと。シュムエルはあれからまた少しずつコンピュータの販売をはじめた。相変わらずマンハッタンの雑踏に埋もれながら、ゆらりふらり、橋を越え、ゆらりふらり、オフィス・Cへと。そして先日のこと。春の暖かい風吹くエルサレムへと、シュムエルから一通のメールが届いた。

「異邦人の君、エルサレムで元気でやっているかい?

君がボーロ・パークを去って、みんなしょんぼりしているよ。特に君を気に入っていたイツホックはいつもつまらなそうだよ。シムションも決して口には出さないけれど、とても君に会いたがっている。それは僕だっておなじさ。

・・・以前、君とも話したように、僕は本当に家族も愛というものも知らない。たくさんいたはずの兄たちの関係すらどういうものかは知らないし、母の愛も、そして父の愛も感じたことはなくここまで来てしまったよ。家族というものを一度も経験したことがないから、それが一体どんなものなのか僕にはわからないんだ。家族がほしいと思っても、本当に何を求めているのかが僕にはわからない。それにずっと黒い服の世界で生きてきたから誰かに恋をしたことだってなかったし、こちら側へと橋を渡ってからも、まだ一度も誰かを求めたことがないんだ。僕にはそこまでたどり着く以前の問題なんだ。愛する、愛される、って一体どんなことなんだろうね。僕にはまださっぱりわからないよ。きっと僕は誰かを想うことも、そして誰かに想われるということも、本当は怖いのかもしれない。これはきっと、僕と神との関係も同じことかもね。

でもそれよりも、果たして神は存在するのだろうか。やはりこの問題の答えは一生かかってもわからないかもしれない。漠然といるといいなあって思うけどね。でも、もし神が存在するのなら、なぜ神は父に僕を捨てさせたのだろうか。父は神とユダヤの宗教を頑なに信じていたのにもかかわらず。父は僕を捨て、僕はすべての父であるらしい神を見出すことができないままさ。そしてそんな神の存在が、どう僕の人生に関係があるのか、オーソドックス・ユダヤのラビにまでなったけれど、それでもやっぱり僕にはわからない。そのことが僕には理解できずにいて、考えても考えてもまたこの場所に逆戻りさ。いや、知れば知るほど僕は迷路に入り込んでしまったんだ。その答えが本に記されたり白黒と単純ならば、僕はきっとあの橋を渡らなかっただろう。髭があった頃の僕、髭のない今の僕、どう異なるのだろうか。

でもね、チカ。ほんのすこうしだけど、そう、少しなんだけどね。どこか向こうのほうから小さな光りが射しているのが見えるんだ。真っ暗闇ではないんだよ。そう、きっといつかその先に出口は見つかると思っている。僕はいつか見つけるよ、きっと。きっといつかすべての答えが見つかると思うんだ。だけどそれがいつかは、まだ僕にはわからない。

君がまた空を越えてニューヨークへ来る時は、いつでも連絡しておくれよ。ご存知の通り、とても家庭的な雰囲気の部屋なんていえないけど、とりあえずは屋根と六角の中庭に面した窓、マットレスだけはある。それに実をいうと、君が花なんかを抱えて訪ねてくると、この僕の部屋が家庭的な色に染まって、とても不思議な感覚がするのがまたおもしろいからね。たまにの「家庭ごっこ」は僕も大歓迎さ。ところで以前僕が君に売った、あのIBMが今もちゃんと作動していることを祈っているよ。

                          君の友、シュムエルより」


シュムエルが精神世界から橋を越えて、人生の迷路を、ゆらりふらり、と彷徨いはじめてから10年近い日々が過ぎようとしている。彼はいつか、その小さな光りの向こうに、新しい橋へと続く道を見つけるのだろうか。