夢見心地
寒い冬のエルサレムを抜けだそうったらこんな一日!
エルサレムから死海へと続くこの不思議で魅力的な道。ごちゃごちゃ文化のエルサレムを抜け出して、時計の短い針が10回も動けばグルグルグル。そこからエンエンと広がるのはシゼン。モコモコ豊かな森や深く物語る湖、心に潤いもたらしてくれるほっこりとした自然とはちがうもっとベーシックなシゼン。アッチモコッチモ見わたすかぎり乾いた赤茶けた裸岩の山々、雲ひとつないまーっ青な空、カーッと熱いオレンジ色の真赤な太陽、まったくと言っていいほど生きているモノの影もないのにとっても生命の力があふれている。イキをするのも苦しい熱い空気はエルサレムの乾いたカラッカラの空気とは別のイキもの。バスが海抜0地点に近づくにつれ、体内で柔らかに明るく温かく作用しているのがしっかり感じられる。
トントントンと壁のないトタン屋根の集落がバスの窓から見えてきた。ほんのりのりたま青海苔を振りかけたように草がクサクサッと生える砂漠の丘の上に遊牧民ベドウィンたちの住居テントが建っテント。遥か昔も近い今も国境なんて関係ないよ、あら国境ってったってあなた、どこにも線なんて引いてないよこの土地の。線が引いてないから土地から土地へとあっちトッチと移り住む砂漠の民の彼らも、トントントントンとテントもトント近代化の波に乗って途端にトタン小屋。いくつものトタン小屋のまわりの小さな丘には、羊の群れの番をするアラブの長いワンピース服を着た男に、数匹のらくだがのんびりとじーっと遥か遠くを見つめるように同じ姿勢でこりゃまたらくだ楽だね。そんな景色一式、声の無い無声映画のようにバスはどんどんと海抜マイナス150地点を過ぎて、地図のいらないベドウィンの姿もドロロンッと消えたらうさぎがもちつく月面の白い世界へと空気圧の変動でバスは飛行機、耳はぼーっぼーっと、イシキは現実から遠のいてゆくケシキ。
左手の岩肌に青いモザイク「Sea Level-300m(海抜マイナス300メートル)」の標識見たら、お風呂の洗面器をしゃっくりしてひっくり返して狼煙台になったよ、白いポコポコ不思議な地形。さらにバスは進み、一本道の左は蜃気楼の遠くに小さく地上でサイコーに低いセカイサイコのジェリコの町が浮かんでくる。海抜マイナス400メートルにある町ってどんな町なのだろう。ゆらゆらゆらゆら、町に一歩足を踏み入れると途端にそれは幻。
そして目の前にはついに霞がかかったようにミルク色に青く風もなく波もなく、ただじっと眠るように静かに広がっている死の海。そのほとりを南にゆくのは決して後悔はしない紅海の町、イスラエル最南端の常夏の町エイラットへと。灼熱の太陽に照らされた砂漠の一本道。一滴の水さえも生と死を分けるような、ああ無常!な慈悲も何も感じられない過酷さゆえの存在の中に、だったらこの赤茶けた荒れ地になんとしても、這ってでも生き抜いてみようじゃないか!とアンビバレントに最大のポジティヴ観を発見する。昔の旅の人のようにこんな乾き切った大地を自分の足で旅しなければならなかったならば、それはいかなる自分との戦いだったのだろう。この先の赤い山の砂漠で彷徨っていたモーセとユダヤの人々。自然と人、それを超えた存在との関係を改めて考えてみたりする。
そしてこのあたりの道から私の長年の心の友「旅の虫」君が騒ぎ出すのだ。ああ、このままあの常夏のエイラットまでバスに揺られて、体で感じる外気とは裏腹に氷のように冷たく感じる水に、ちょいちょいっとフラミンゴのように足をつけてから、ぱしゃぱしゃっと魚になって、すいーっと対岸のアカバの町まで行ってみようか。透き通る蒼い蒼い紅海と、アカバの後ろのヨルダンの赤い山々を水面に見つめながらおしゃれでカラフルな熱帯魚と友達になったら、珊瑚の間をかくれんぼに鬼ごっこ。すると熱帯魚はエイラットのイルカたちとも遊ぼうよと私を誘うと、こんなところにもイルカがイルカ?キィーキィーキキキキッ、あら本当だ、イルカいる!熱帯魚の後をすいーっとエイラットまでもう一路、珊瑚の迷路をうまく潜って、と思ったらあら?一体熱帯魚はどこへ行ったんだろう。イルカの声も届かない。迷子になった魚の私はまたぱしゃぱしゃっと水面に近づいてぴょーんっと陸に上がると、あらここはアフリカ大陸?かと思いきや、なんだエイラットの隣のタバの国境じゃないの。それじゃあ、せっかく陸に上がったのだから目指すはシナイ半島の小さな紅海の町か、はたまた甘いミントティーを飲みにカイロの裏路地へとか。それじゃあ鳥になって飛んでいこうか、それともこのまま国境沿いで旅人たちを待ちかまえているエジプト男の運転する乗り合いタクシーで行こうか。
「さあっ!」と私を手招きするとニヤッと不ぞろいの白い歯で笑う運転手ご自慢の、クーラーなしのぼろんちょタクシーは不機嫌にでも軽快にガタガタガタガタと走り出す。ぼろんちょ君は今にも空中分解ならず路上分解しそうな速さでびゅーんっと、エジプト男のアタマに巻いたチェック柄のケフィヤのすそはパタパタパタっと熱風の中にはためく。私は大きく開けたぼろんちょ君の窓から顔いっぱい風船のようにぱんぱんっと熱い風を浴びて瞬きすらもできず、広がる紅海の蒼さに弾むココロの乙女ゴコロ。
そんな旅をぼーっと夢に見ながら、気がつくと私の乗ったバスは死海のほとりで紀元73年のマサダの砦へとタイムスリップして、私は血気盛んなローマ軍の将校かそれとも砦に立てこもる憂いの目をした砂漠のユダヤの女か。ヘロデ王とローマ軍に抵抗した900人近いユダヤの人々が3年ものあいだ立てこもり、自決して最期をとげたネゲヴ砂漠の断崖絶壁にそびえる悲劇のマサダの砦の爪跡が目の前にせまり目を閉じた。
ローマ将校の私は砦を攻め落とそうともう3年も陣営している砦の西にあるテントから、今まさに勝利を得に行かんと身支度をする。すっかり轍が出来上がったガラガラの砂漠の道。暑さで幾度となく撤退するべきかとも迷ったがエルサレムの大将はここに留まれと言うばかりだ。
それー!突撃だ!ユダヤのヤツラはもう反撃もしてこないぞ!兵士たちよ、後に続け!砦へと登り詰めるんだ!
砦のうえで何が行われようとしているかなど私はまるで想像もつかず、捕まえたユダヤたちをローマに連れて帰れば私もようやく一息つけるだろうか、そんなことが脳裏をかすめると、私は兵士たちと共にガラガラと崩れ落ちてきそうな岩山を登りはじめた。
「さあ、ここに集まったユダヤの者よ、われわれはやれるだけをやったのだ。今登り来るローマ軍に降伏して捕虜になるよりも、ユダヤとしてこのいのちを終えようじゃないか!この砦は3年という尊い時間をわれわれにくれたのだ。水を溜め、祈りのためのシナゴーグを作り、食料粉も倉庫も風呂も作った。新しいいのちも育った。この3年間、われわれはユダヤとして生きるために異教徒のローマなどには降伏はしなかった。しかし神は今、われわれをユダヤとして神の元へと呼ばれた。さあこれからくじを引くぞ。いいか、子供たちよ、またすぐにお前たちの父や母が後を追う、心配するのではないよ。男たちよ、愛するものたちを痛みなくこの世から旅立たせるのだぞ」
気が遠くなるような熱気の中を私は夢中で砦まで登りつめる。熱い太陽が地上よりもさらに近く、はるか下のほうに私のテントとわだちの跡が小さく見える。若い兵士はみな動物のように興奮しながらユダヤを探し出そうと砦の中を駆け巡る。その光景を見ながら私は陽の光りと喉の渇きで目眩がして、どうにもこうにもその場で剣をつっかえ棒のように乾いた土の上に刺すと、左手で目頭をぎゅっと押さえた。
ウオー!ウオー!
叫び声が風に乗って草の一本も生えないこの砂漠を駆け巡る。ああ、なぜ今この時になってこんなにも頭が痛むのだろう。私は背後からやって来る兵士たちに押されて前へつんのめると、目頭を押さえたままで剣を抜き取りゆっくりと目を開けると、陽の光りが白くあたり一面に鋭く反射している。まるで輝く真っ白な雲の中を彷徨うかのように、私は聞こえて来る野獣のような叫び声へとゆっくりと歩き出した。
砦の奥で私が見たものは、その後にエルサレムへ引き返してもずっと脳裏から離れることはなかった。数々の戦を勝ち抜いた私はあのマサダで、事もあろうにユダヤに負けてしまったのだ。ユダヤは最後までローマ軍には堕ちなかったのだ。私はローマ人として彼らのように凛とした最後を迎える勇気はあるだろうか。それほどまで頑なに彼らが降伏しなかった訳は一体何だったのだ!砦の奥で重なり合う満ち足りたような魂の抜け殻。エルサレムよ、頭痛はあの砦の日以来こうやって私につきまとう・・・。
どれほどうたた寝をしたのか、目が覚めるとバスは死海のオアシス、エイン・ゲディを通りすぎ世界の大手ホテルの建ち並ぶ死海のリゾート地エイン・ボケックへ。ここで私はバスにサヨナラバイバイ、チューリップ印のホテルの前を静かに横たわる死海のほとりへと。むら~んむら~ん、濃い塩分、ミルクブルー色の巨大ゼリーの中に足を突っ込んだら不思議と浮くんだなぁ、これが。すぃぃぃぃーっと滑るように滑らかな水面をあっちこっち、アメンボウになって見上げた空はきっと何千年という時もナンノソノ変わりなく、雲ひとつなく真っ青で。すっかーんっと何も知らん振りを決め込んでいる。豆粒ほどの小さなアメンボウはアー、アー、アー、と大きな青い空に向かって叫んでみると、小さなプロペラ飛行機プロペロペロペロッと飛んできて、マフラーをなびかせたトンボ眼鏡の飛行士がこっちを向いて「ィヤッホゥー!」と大きく愉快に手を振ったよ。そしてこのままアー、アー、アー、対岸のヨルダンの町まで空を見てたらアメンボウ、流されちゃってました、あはははっ!なんて、またまたノンキに死海で夢を見て。また来た砂漠の道を星にテカテカ照らされながらバスにゆらゆら揺られて、白い三日月のエルサレムまで帰って来た。こんな何千年の夢の旅の一日もまた楽しかな。