Thursday, April 15, 2004

soupの記憶  -ずっと昔に・・・

春。

 今年の過ぎ越しの祭りは、爽やかな春のアドリア海の海風に吹かれてみよう。中東のエルサレムから、東西の文化クロス・ロードのイスタンブールの空を越えて、クロアチアの片隅へと旅をした。南クロアチア、古代ローマ皇帝ディオクレティアヌス(245~313年)の宮殿の壁に包まれた、世界遺産の街スプリット。エルサレムの旧市街に似た迷路のような石畳の街にも、いくつものユダヤのストーリーがある。

「ヤセノヴァッツ(Jasenovac)」

 その名をはじめて耳にしたのは、数年前にスプリットでヨシュアにはじめて会ったときだった。そのとき、少しはにかみながら、まだ彼が若かったころの遠い記憶を語ってくれたヨシュアには、安息日やユダヤの祭りになると欠かさずに訪れる場所がある。

 宮殿跡の街の、小さなセファラディー系ユダヤのコミュニティ。春も近いころ、過ぎ越しの祭りの準備がはじまり、食卓に上がるマツァが用意された。そこで私は、今年はひとつ嗜好を変えて、ユダヤ料理の中でも過ぎ越しの祭りらしく、マツァボール・スープをこしらえてはどうかと、行動的な世話役のナーデに持ちかけてみた。

 「いいじゃない! えっ、そうよねえ、毎年同じなんて芸がないわよね。マツァボール・スープねえ。えっ、おいしそうじゃない!」

 スプリットふうに「えっ」とところどころに交えると、気軽にOK サイン。「それじゃあ、そうしましょう」と、祭りの二日目の夜、このコミュニティに集うユダヤの大家族に、スープを振舞うこととなった。祭りの二日目の午後。港から宮殿跡の迷路のような石畳の道を、くねくねと右へ左へと曲がり、まるで秘密のアジトと云わんばかりのユダヤのコミュニティへと。入り口のドアのベルを鳴らす。

 リリリリリー、リリリリリー、ジーッ、ガチャッ。

 秘密アジトのドアのロックが解除される。するり、とドアへ体を滑らせれば、シャローム、シャローム!ヨーロッパの片隅で、ユダヤな風貌の笑顔がこぼれる。事務室のナーデとウインクを交わし、さあマツァボール・スープに取りかかろう。エルサレムから持参したカシェル印の秘密兵器、マツァの粉にユダヤのお袋の味。インスタントのチキンスープの素。

 ジーッ、ガチャッ。
 シャローム!

 ジーッ、ガチャッ。
 シャローム!シャローム!

 祭りの夕食の時間が近づいて、三十人ほどのユダヤ大家族が集まった。テーブルの中央には板状のクラッカーのようなマツァ。白髭のラビがワインとマツァを手にすると、みんな珍しそうにその祈りに耳を傾ける。祈りが終わり、いよいよマツァをパリン、バリン、むしゃむしゃ。そこで、この大家族のナーデママさん、「えっ、あんたはいいから座ってなさい!」と、ピチピチのジーンズに押し込めたグラマラスな体で、スープを運んできた。

 「うわー、これなに?」

 見慣れぬ団子スープに、ざわざわざわざわ、声のさざ波。

 「団子だよこれ! なに? マツァの団子だって?!」
 「えっ? スープの中にマツァの団子?!」

はじめて見る団子のスープに、なんだかんだと言いながらも、お代わりを求める声も。スープの鍋はあっという間に空っぽに。やはり日本人の魂には、何と言ってもだしの風味と味噌汁がすーっと沁みるように、ユダヤの遺伝子には、マツァボールとチキンスープが組み込まれているのだろうか。みながスープを食べ終えたころ、ぎょろ目の中年男ゴランはとても嬉しそう。

 「ぶっちゃけた話、おれはスープなんて嫌いだね。男の食いもんじゃあねーや。しっかし今夜のはあ、うまかったよ。えっ。お代わりもしたしね。初めて食べたよ、マツァボール・スープってのを。ふーん」
 「あら、ゴラン! 珍しいこともあるものねえ。スープなんて女の食べ物だ、肉じゃなきゃ食べ物じゃないってのが、あんたの口癖なのにねえ。えっ、だったら今度は、野菜サラダでも食べてみる?」

 ゴランと同じ世代のナーデが、いつものように彼をからかう。

 「サラダだあ? まったくその辺のロバじゃあるめえしよっ!やなこったねえ。えっ。そんなもん食ったって、血にも肉にもならねえや! やっぱりバルカンの男は肉だよ肉! えっ、それ以外は食いもんじゃあねえ。ナーデよ、スープの次は本格的に肉で食事といこうか!」

 あっはっはっは! 相変わらずだねえ、とみんなの笑顔がこぼれる中、ヨシュアと彼と同じ世代の黒いスーツの婦人は、静かにゆっくりとスープをすすっていた。若き日のこのご婦人は、ドイツとイタリアを相手に祖国ユーゴスラヴィアの解放へと戦う、勇敢なパルティザンの戦士だったのだそう。この古えの勇士にも、今はもうこのアジトのほかには家族はない。ヨシュアは少し涼しげに、青い目を細めてほほ笑む。

 「ねえ、おまえさん。僕が最後にこれを食べたのは、サラエヴォの家でだったなあ。そう、ずっとずっと昔、僕がまだほんの子供のころにね……」

 まだ世界が平和だった頃、故郷のサラエヴォで家族とともに過ごした子供時代。戦争の影もなく、幸せだったその時代の思い出。それから長い長い時を越えて、ふたたびその記憶にふれたヨシュア。

 ホロコーストにおける、最も人の道に反した絶滅収容所のひとつ、ヤセノヴァッツ。クロアチアでも最大の絶滅収容所。十九歳でそのヤセノヴァッツに送られるまで、サラエヴォの床屋で働いていたヨシュアは、ユダヤだという理由だけで、それまで家族と住んでいたサラエヴォの街を追われた。強制送還させられたヤセノヴァッツでは、運よくサラエヴォ時代のように床屋の職を与えられ、絶滅収容所のまるで永遠かのように長い四年という時間を生きながらえたという。しかし収容所での生活では栄養も十分に取れず、体重は四十キロほど。背もとても低く、外見はまるで子供のようだった。

 ナチの親衛隊員たちは、他の収容所と同じようなゲームをヤセノヴァッツでも楽しんでいた。その日も、親衛隊員はいつものように、収容されている数人の番号を選び、その人たちを手元へと呼びました。その日、呼ばれた人の中には、小さな床屋のヨシュアの姿もありました。

 「そこに一列に並べ!」

 ひとり、またひとり、確認するように番号が呼ばれ、返事の後には銃声が響きました。そしてついに、ヨシュアの番号が呼ばれてしまいましたが、列のどこからも返事は聞こえてきません。そう、ヨシュアには子供の頃から、少しどもり癖があったのです。じっとしてうつむいたまま心臓が高鳴り、ああ、どうしよう! どうしよう! すると隣に立っていた男が、そっとヨシュアにささやきました。

 「……君の番号だろう?」

 その次の瞬間、ヤセノヴァッツの空を割るようにして銃声が響き、どさりと人が地面に崩れ落ちました。それは番号を呼ばれたヨシュアではなく、「……君の番号だろう?」とヨシュアにささやいた隣の男でした。その親衛隊員にとっては誰でもよかったのです。ただ、その日に摘み取るいのちと、リストに記された抹消数とがぴたりと合えば、番号などどうでもよかったのでした。ヨシュアはどもりおかげで、その時この世に留まることができましたが、代わりに一つのいのちがこの世から去ってゆきました。

 1945年の春。ヨーロッパでの終戦も間近な四月二十二日のこと。ナチはヤセノヴァッツ絶滅収容所を囚人ごと焼き払い、完全に消し去る準備に取りかかりっていました。その一方では、ヨシュアを含む収容者たちは、生きて収容所の門の外へ出られる最後のチャンスを、じっと息を潜めて待ち構えていました。そしてついにチャンスが訪れ、六百とも千二百人とも伝えられている人々は、ありとあらゆる物を、パイプを握り、ハンマーを振りかざし、ドアを蹴破り、柵の向こうを目掛けて走り出しました。この収容者たちの思わぬ反乱に、ひとりたりとも生きてそこから逃さぬよう、容赦なくナチの弾丸が飛びかいます。二十三歳のヨシュアは走って走って、走り抜きました。そして他の人々も同じように、いのちの限り走って走って、走り抜いて。

 弾を逃れ、走り抜いて自由の身となれたのは、最終的にはヨシュアを含むたったの八十人だったと伝えられています。それまでヤセノヴァッツでは、とても多くの人々がどこにも記されることなく、名もなく亡くなってゆきました。今ではもうその確かな数はわかりませんが、1941年の夏から1945年の春までに、たったの四年の間に三十万から七十万という、まだ乳飲み子をも含めたいのちが、道端の雑草のように踏みつけられ、摘み取られてしまいました。彼らが単にセルビアの人であったために、またユダヤの人であったために、そしてロマ(ジプシー)であったがためだけに。そして戦争は終わりを迎え、このヤセノヴァッツはまるで存在しなかったかのように、ずっとその名は闇に葬られてしまいました。今では、ホロコーストの記憶の中でこの名が語られることは、ほとんどありません。



 「どうして僕が助かったのかって?」

 ヨシュアはいたずらっぽくほほ笑んだ。

  「ん、本当にちびでよかったよ。ビュンビュンと、弾はすべて僕の頭上を飛んで行ったんだよねえ。あははははっ」

 二十三歳のヨシュアがヤセノヴァッツを走り抜けてから、すでに半世紀以上の時が流れ、今を生きる私たちには、その記憶の欠片をほんの少しだけ想像してみることしかできない。ヤセノヴァッツで失われた遠い幸せな時代の思い出、そしてユダヤの記憶。マツァボールのスープのお皿を手にしながら、私はちょっぴり不安になった。ヨシュアのあの幸せな思い出は、ひょっとすると、本当は人に知られることなくそっと鞄の奥底にしまっておきたい、辛い記憶なのかもしれない、と。

 過ぎ越しの祭りも終わり、しばらくして、ホロコースト追悼日にスプリットのユダヤ墓地で、またヨシュアに会った。この日も彼はいつもと変わらずにとても元気そうで、いつものように少しはにかんで、パルティザンの女戦士と肩を並べていた。この日墓地に集ったスプリットのユダヤの人々は、過去も現在も変わることなく、喜びも悲しみも分けあっているのだろう。ひとつの大きな家族のように。もはやヨシュアの家族は、遠い記憶の中のサラエヴォの家族だけではなく、今はこのスプリットのユダヤの人々なのかもしれない。そして彼らはこれからも世代が続く限り、みなで過ぎ越しの祭りを祝い、過去を噛みしめ、このアドリア海の美しい街で生きてゆくのだろう。しかし、若い次世代がほとんどいなくなったこの古いコミュニティーも、やがていつか、そう遠くない未来に、失われた記憶となってしまうのかもしれない。