Wednesday, May 19, 2004

それぞれのleft luggage- time warp to antwerp

イザベラ・ロッセリーニとハシディズム、とアントワープ。

ベルギーで二番目の大きな街、歴史ある古い動物園、喉を潤おすヴベルギービール。船はどこへと旅立つのだろうか、ヨーロッパでも有数の大きな港。そして世界的なダイヤモンド街もあり、思いのほかユダヤの人々とアントワープの歴史は長い。

13世紀にはすでに中央ヨーロッパのユダヤの人々がアントワープに移住し、15世紀にはマラノ・ジューと呼ばれるポルトガルやスペインから迫害され流浪して来たユダヤの人々がこの街の住人となった。そして、ロシア遠征で冬将軍に破れたナポレオン皇帝の19世紀に入ると、この街のユダヤの家庭はなんとたったの38家となった。そしてポグロム(ユダヤの人に対する弾圧と虐殺)と後のヒトラーによるユダヤ迫害と、いわゆるヨーロッパでのユダヤの迫害と離散の歴史を繰り返しながら、こんにちのアントワープには2万人ほどのユダヤの人々が腰を下ろし、欧州でも有数のハシディックの街となった。

映画の舞台は1970年代のアントワープ。頑なな伝統的なハシディックの一家と、もはや宗教など滑稽とも古ぼけたとも思われる世俗のアントワープに生きる若いユダヤ人の娘、ハヤ。イザベラ・ロッセリーニの演じるアントワープのハシディック一家、カルマン家の保守的な妻は、髪は夫以外には見せず常にスカーフにくるみ隠し、肌も人目にさらさぬようにと季節を問わずロングスカートに長袖のシャツにタイツを着、服の色も黒やグレーと人目を引くものは避けて口数も少ない。もちろん話す言葉はユダヤの言葉、イディッシュ語だ。夫は黒い服に黒い帽子、そしてひげの口は妻以外の女性には開きはしない。安息日には、安息日のために清楚に正装した妻が祈りを捧げてロウソクを灯し、忙しい日常のしがらみを解き放ち神と向き合いながら時を過ごす。字も書かなければ電気のスイッチさえもふれずに、その日の料理はきちんとすべて準備されて調っている。そしてそんな世界とは何かの偶然ですら出会うことのない、アントワープの世俗のユダヤ家庭に生まれ育ったいまどきの娘ハヤ。繁々と美容院に通い髪を整えケーキを焼くことだけに生きがいを感じている母と、戦時中にどこかの町角に埋めたらしい古ぼけた二つの鞄捜しに没頭している父をハヤは理解できず、彼女には滑稽にすら映る両親の持つユダヤというアイディンティティを受け入れることができなかった。

そんなハヤはひょんなことからカルマン家の子供たちのベビーシッターをすることになる。ハヤ自身がユダヤでありながらも、足を踏み入れたこともないアントワープのハシディック世界。そこにはハヤの知らない、なにか少し影のある世界が広がっていた。

オーソドックス・ユダヤの世界ではロングスカートにタイツをはいていない女性はとてつもなくハレンチだった。ハヤは何も知らずにいつもの服装、そう、ズボン姿でカルマン家のドアをノックすると、カルマン家の妻はよそよそしく「世俗」のハヤを迎え入れた。初めてオーソドックス・ユダヤの家庭を知るハヤ。家の主人は、ユダヤの戒律を厳しく子供たちに教え、彼は4歳になってもまだ話すことのできない末息子のシムハにいらだちを隠せずに、優しい言葉の一つも掛けることはなく、家の中には絶えず緊張した空気が流れていた。そんな冷血な父としてのカルマンをハヤは理解できずにいたが、当然妻でもない女性とは口を利かないカルマン氏にハヤは成すすべもなかった。しかしある日、ハヤはカルマン氏の悲しい過去を知る。カルマン氏の書斎にそっとおかれた一枚の写真。シムハにそっくりの小さな男の子と少年だった頃のカルマン氏。それは幼くしてホロコーストで亡くなった、シムハに生き写しのカルマン氏の大切な小さな弟だった。そして終戦後、ホロコーストを一人生きのびたカルマン氏は、神と共にかたくななに生きることが小さな弟の死を意味づける道と、世俗の世界とはかかわりを持たずにこのハシディックの街で生きてきたのだ。しかしそれでも助けられなかったことを悔やんでも悔やみきれない弟に生き写しの末息子のシムハ。彼への想いは複雑だった。

しかし徐々にシムハはハヤと心を通わせ、ついに言葉を話しはじめた。世俗のハヤをユダヤの異端児のように見ていたカルマン夫人もやがて彼女を受け入れ、ハヤを交えてようやく幸せな笑顔がこぼれ出したカルマン家。ハヤはカルマン家とのふれあいによって、それまで知らなかったユダヤの生きかたに少しずつユダヤとしての自身を見つけてゆく。しかしユダヤの幸せと不幸は紙一重。不慮の事故がおきる。ハヤを慕い、ハヤに愛することへ目を開かせたシムハの突然の死。幸せの兆しが見えはじめたカルマン家はふたたび悲しみのどん底へと突き落とされ、ハヤは愛というものは喜びだけではなくこれほどまでの悲しみにも変るのだと、はじめて両親の過去を知り、そしてユダヤというアイディンティティをしっかりと受けとめる。

ハヤの両親は、多くのユダヤの人々と同じように、死の収容所から生還したのち、ハヤの母は何もなかったかのようにマティリアルな世界に住むことで、愛する人たちとの絶えがたい死と別離の過去を忘れようとして生きてきた。そして父は彼の一家がナチに追われたときに、持てるだけのすべてをその二つの鞄にぎゅっと詰め込んだ。しかし右往左往と逃げまどううちに、いのちと引きかえにその鞄はどこかの街角に埋めなければならなかったのだ。そして何もかもを失って送りこまれた収容所での光りの見えない日々。仲間の死、家族の死。人としてのアイデンティティーと尊厳の剥奪。そしてそこからの解放。それ以来ハヤの父は、あのとき失ってしまった古ぼけた鞄を気が狂ったように探し続ける。ハヤの父が決してあきらめることのできないあの鞄。あの鞄の中には彼があのとき失ってしまった過去と、そして何よりもあのとき失った彼自身が入っているのだから。

半世紀も前に戦争が終わり、不自由のあまり感じられない豊かな現代になっても、あの時生き延びたユダヤの人々にとってホロコーストはいまだ終わらず、誰かがどこかで今でも失ったその鞄を探し続けている。