パン職人のけっこん the most beautiful moment
男と女。出会って別れて。いくつもの出会いと別れの中で、一体いつになれば夢にみたあの人に出会えるのだろう、なんて、ふと思う。そのたったひとりに出会うまで、いつまでも人は彷徨い続けるのだろうか。
バシェレット。運命、またはソウル・メイトというイディッシュ語の言葉。ユダヤの教えの中でも神秘主義と呼ばれているカバラでは、人がこの世に生まれて来る40日ほど前にそれぞれの「バシェレット」が決められるという。むかしむかし、エデンの園のアダムとイブがひとりの人だったように、この世界に生きるすべての人にはどこかにその欠片が存在し、そしてその欠片と出会い、共に生きることで二人は完全なひとりの人となるのだそう。
בראשית ברא א-להים את השמים ואת הארץ
はじめに神は天地を創り、そこにはまず闇があった
והארץ היתה תהו ובהו וחשך על פני תהום ורוח א-להים מרחפת על פני המים
ויאמר א-להים יהי אור ויהי אור
וירא א-להים את האור כי טוב ויבדל א-להים בין האור ובין החשך
ויקרא א-להים לאור יום ולחשך קרא לילה ויהי ערב ויהי בקר יום אחד
そして神は「光りあれ」というとその通りに光りが生まれた
神は光りを見て良しとされ、光りと闇を分けて
光りを昼、闇を夜と呼び、夕べがあり朝があった
こうして一日は創られた
はじめに神は天地を創り、そこにはまず闇があった
והארץ היתה תהו ובהו וחשך על פני תהום ורוח א-להים מרחפת על פני המים
ויאמר א-להים יהי אור ויהי אור
וירא א-להים את האור כי טוב ויבדל א-להים בין האור ובין החשך
ויקרא א-להים לאור יום ולחשך קרא לילה ויהי ערב ויהי בקר יום אחד
そして神は「光りあれ」というとその通りに光りが生まれた
神は光りを見て良しとされ、光りと闇を分けて
光りを昼、闇を夜と呼び、夕べがあり朝があった
こうして一日は創られた
ボーロ・パークの夕暮れ。新たな一日のはじまり。橋向こうの遠くに立ち並ぶ高層ビルの隙間に見え隠れしながら、マンハッタンの西に落ちてゆく陽の光りを、空に満ちる排気ガスのスモックが朧に包みこむ。コンクリート・ジャングルの上に柔らかく朱色に染まった空とともに、ユダヤの新しい一日がゆっくりとはじまろうとしている。
深いボルドー色の美しいビロードのフパ(家の象徴である天蓋)の下で、ハシディックの正装を身につけたメナシェが、それまでにたった一度だけ会った彼の新しい花嫁を待っていた。透き通るように青白い肌、ブルー・グレーの瞳のメナシェ。金色の髪の頭の上には茶色の光沢の毛並みが美しい毛皮のシュトライマレ帽がすっぽりと落ち着き、左右のこめかみからはクルクルと丁寧に巻きこまれたペオスが揺れている。膝下までの黒い絹のカフタンと呼ばれるロング・ローブ、コサックの衣装のようにすぼまった黒いズボンに細い飾りリボンが結わえられ、そこから白いタイツがすーっと伸びやかに細い足を包む。その気品はまるでずっと遠い昔のポーランドかどこかの貴族のように、静かに高貴さを含んでいる。フパの下に凛と立つメナシェの隣には、同じようないでたちの、しかし少々くたびれたような黒い服にシュトライマレ帽を被ったラビや結婚の証人の男たちが並び、花嫁が母親に連れられてホールの扉を開けフパへとやって来るのを、今か今かと、祈りの時のように静かに身体を前後に揺らし、リズムを取りながら待ちわびていた。
天井の高い、ヨーロッパ調の広いホールの中央に建てられたフパ。それを囲むようにして、静かな黒い一塊。おしゃれとは程遠い古風なスタイルの黒い上着に、おなじように黒いスカートとシーム入りのタイツを穿いた女たち。頭部をかつらや雪帽子のようにまあるくスカーフで包んだ小さな黒い女たちが集まり、小声のイディッシュ語でなにやらヒソヒソと囁いている。黒い女たちの塊のあちら側には、彼女たちの髭の長い黒い服の夫たちが先ほどから身体を揺らしている。マンハッタンとおなじニューヨークでありながらも、オーソドックス・ユダヤのしきたりによって生きているボーロ・パークでは、女たちと男たちの姿と声が公で無防備に混ざり合うことはない。
静かに音もなくホールのドアが開いて、フパの下のメナシェはまわりの誰も気がつかないほど小さく息を飲むと、ほんの一瞬、ちらりと不安にその視線が左右に泳いだ。花嫁が母親らしき黒い服の小さな女と、もうひとり、おなじように黒い服で無口そうな中年の女に支えられながら、一歩一歩ゆっくりと踏みしめるようにメナシェの立つフパへと近づいて来る。世俗の華やかなウェディングではもう古めかしく、ブライダル・ブティックのショー・ウインドウにすら飾られることもないような、つま先から首まで肌を隠した古風で、清楚な光沢の絹が白く流れるAラインのロング・スリーブのウェディング・ドレス。
ちょうど花嫁の細い肩に触れるほどの長さの厚い絹のヴェールは、これまで見たハシディックの花嫁のどれよりも厚く、しっかりと首から上部を覆っている。その厚いヴェールに包まれた花嫁の思いは、一歩一歩、ゆっくりとフパに近づくほどに神秘性を増してゆく。フパのまわりを囲む黒い服の青白く小さな女たちは少しうつむき加減で、すでに囁きを止め言葉なく、じっと食い入るかのようにその顔のない花嫁を見つめていた。ヴェールに包まれた花嫁は、母親と付き人の女に導かれて、フパの下でどこか遠くをじっと見つめているような新郎のまわりを、伝統に従い7回ゆっくりと回り、そうして静かに厳かに、ユダヤの婚礼の儀ははじまった。
ボーロ・パークの片隅の、パン焼き職人のメナシェ。両耳の横に巻かれた金色のペオス。黒いヴェルベットのキパを頭に乗せ、口下手で、年の頃は30の少し手前だろうか。白いワイシャツに黒いベストと黒いズボン、昔の紳士のような典型的なハシディックないでたちに、エプロンを小麦で真っ白にしながらボーロ・パークの端の小さな工房でパンを焼く。メナシェは、まだ右も左もわからない若い頃に親が決めた、おない年の妻との折り合いがどうしてもうまくいかず、お互いに本当のバシェレットを見つけようと、一年ほど前に妻と夫としてではなく別々の人生を歩むことにした。それからというもの、妻の望みによって、メナシェは愛する二人の息子たちの前に姿を見せることは許されず。オーソドックス・ユダヤの世界では、離婚した後、それほど時間をおかずに次の結婚の相手を探すことが多く、まわりの世話焼きな黒い服の男たちは、メナシェとおなじような年頃でおなじように離婚したての女性との見合いを、当たり前のように彼に勧めた。メナシェもそのしきたりに従い、何度目かの見合いをしてから半年後、ふたたびフパの下に立つこととなった。
フパの下に立つ日が決まった頃、メナシェはその日のパン焼きの仕事を終えると、パン工房から幾ブロックか先の友人イツホックのオフィス・Cに度々顔を出すようになった。この次こそ本当のバシェレットと共に生きることとなり、再び人として一人前になる喜びに満ちているはずのメナシェなのに、少しも浮かれた様子など見あたらず、それどころかとても気が重そうで、ブルー・グレーの瞳は少し悲しげに潤んでいた。
「メナシェ、どうしたんだい?!結婚前の君がそんなに落ち込んでいるなんて、なにかあったのかい?」
イツホックは思わずそう尋ねずにはいられなかった。
「ああ、イツホック・・・。よく聞いてくれましたね。・・・実は今度の再婚のことなんだ・・・。正直な話、僕はまだ心が定まらずにいるんだ。現実的にはまだ結婚などできないと思うんだ。今でもふたりの息子たちのことを思っている。片時も忘れずにね、彼らはずっとずっと僕の心にいるんだよ。できることならば、どうにかして息子たちと一緒に生きてゆきたいんだ。・・・でも、わかっているさ、そんなことは別れた妻が許しはしないって。僕はしがないパン焼き職人で、だめな男の見本らしいからね。息子たちには悪い影響なんだそうだ・・・」
「なにをいっているんだい、メナシェ。君がダメな男であるはずがないじゃないか。・・・すると君は離婚以来、子供たちにまったく会わせてもらえないのかい?」
「そうなんだよ・・・。すでに前の妻には新しい家庭があるし、幼い息子たちには新しい父がいる。妻の今の夫と僕の宗教観が微妙に異なるからさ、息子たちが神への理解を混乱するといけないってね。息子たちの本当の父親は僕なのに、息子たちには会わせてもらえないんだよ。この苦しさを一体どうしたらいいのか、毎日、胸が痛むんだ。まだとても両手を上げて次の結婚を喜ぶなんてできない気がするんだ」
「ああ、そうだったのか・・・。いくらこの街じゃあ珍しくもない話だといえども、それじゃあ君はつらいだろう。ということは、メナシェ、ひょっとして君はこの結婚をやめるのかい?!」
背もたれにもたれて椅子を前後に揺らしながら、イツホックは、悲しそうに背中を丸めたような姿勢のメナシェに尋ねた。
「いや、イツホック、そんなことをしたら、それこそ僕は変わり者扱いさ。そうなったらとてもじゃないけど、もうこの街には住めないよ。息子たちとも永遠にお別れだ。ここはボーロ・パークだからね。離婚したらまたすぐに見合いで相手を見つけて結婚だろう?まわりは僕にとって良かれと思って、見合いだの結婚だのバシェレットだのというけどね、そんなことは今の僕には自信がないんだよ」
見合いと結婚、離婚と子供との別離、そしてまた結婚。出会いと別れというトランジション。まだ一度たりとも結婚をしたことのないイツホックですらも、現実がすべて甘い綿菓子でできていないことはわかっているつもりだった。メナシェは続けた。
「離婚してからまだ一年にも満たなくて、心の整理ができていないんだ・・・。人の心はそんなに簡単なものじゃない。いくらすべては神の手にゆだねるべきこと、すべては成るようになっているといっても・・・。それに、わかってはいるけどね、新しく僕の妻になる女性には僕と同じようにすでに子供がふたりいるんだよ・・・。僕の子供たちには他の父がいて、僕は他の子供たちの父となる。どうしてこうなったのか、どうしても今は理解できないんだ。家族ってこんなものかい?結婚って、バシェレットって?神は・・・一体・・・ああ、ハス・ヴェ・ハリラ!僕はとんでもないことを口にしようとしている。忘れてくれ、イツホック・・・」
メナシェは丸めた肩で大きな溜息をつくと、耳の横の金色のペオスを人差し指でクルリと不安げに巻き直し、ブルー・グレーの瞳を伏せた。オフィス・Cの常連で家庭を持つ男たちは、そんなメナシェの思いなどナイーヴな戯言と軽く聞き流す。
「なあに、メナシェ、再婚すればあっという間に気も晴れるさ!また子供が何人もできればそれでいいじゃないか。しばらくもすればまた家族になれるし、くよくよ考えている暇なんてなくなるさ!時計はチクタク、人生は短く、時は待ってはくれない。君はそんなことに悩んでいる暇があったら、もう少しトーラーの勉強をした方がよくないか?」
やけに白々しい男たちの声は、メナシェの気持ちをさらに不安にさせるだけだった。イツホックはいつも話を聞く時にするように、少ししかめっ面をして、長く伸びた顎髭を何度も上から下へと静かに撫でていた。ボーロ・パークの片隅で、もうすぐ彼は30代を終えようとしているのに、いまだにバシェレットに出会ってはいない。イツホックのバシェレット、神の計画は誰にもわからない。イツホックは椅子の背もたれを前後に動かしながら、メナシェを見つめた。
「なあ、メナシェ、憶えているかい?ラビ・ヤコブ・ウェインバーグの言葉を。ラビ・ウェインバーグは、“人生で起こったことの10%が事実で、残りの90%は自分の受け取り方である”と、仰った。君が離婚したことも、子供に会えないことも、そしてこれから再婚することも、それはすべて事実だろう。しかし、これからもそうやって否定的に受け留めてゆくのか、それともそこから何かポジティヴなことを見つけてプラスにしてゆくのか、それは君次第なのじゃないだろうか。コップに半分入っている水、これを半分しかないと嘆くのか、または、まだ半分も入っていると感謝するのか。それはその人の選択だ。コップに水が半分入っているということだけは、誰にも同じ事実だよ。私はできることならば、水はまだ半分も入っていると思いたいんだ」
新郎のまわりを花嫁はゆっくりと左回りに7回まわって、静かにふたりは隣に並んで立った。フパの下のバシェレット。その時、花嫁の心情はその言葉どおりに厚いヴェールに包まれて、その神秘は神と顔のない花嫁のものとなる。ユダヤの婚礼の儀は厳かに運ばれてゆく。結婚の契約書が読まれ、2000年も変らぬ祈りの声が響く。
אם אשכחך ירושלים
תשכח ימיני
תדבק לשוני לחכי
אם לא אזכרכי
אם לא אעלה את ירושלים
על ראש שמחתי
エルサレムよ
もしあなたを忘れなければならないのならば
私の右手を動かぬようにし
私の舌を口蓋につけましょう
至福の時において
エルサレムは私の心にあるのだから
תשכח ימיני
תדבק לשוני לחכי
אם לא אזכרכי
אם לא אעלה את ירושלים
על ראש שמחתי
エルサレムよ
もしあなたを忘れなければならないのならば
私の右手を動かぬようにし
私の舌を口蓋につけましょう
至福の時において
エルサレムは私の心にあるのだから
「バン!」
メナシェはエルサレムのユダヤの神殿の破壊とディアスポラの悲しみの記憶をその胸に、力を込めてガラスのワイン・グラスを強く踏みつけた。その音がホールに低く響き、一瞬の沈黙の後、フパのまわりの黒い服にシュトライマレ帽の男たちが両手を大きく広げ肩を抱き合う。
「マザル・トーヴ!マザル・トーヴ!」
互いの背中を摩るように、喜びをこめて「マザル・トーヴ(おめでとう)!」と大きな声で繰り返す。ユダヤの人々は、幸せの中にでも、決してエルサレムとユダヤの悲しみを忘れはしない。メナシェは黒い男たちに囲まれながら、まだ顔を覚えきれぬ花嫁を探す。ヴェールを脱ぎ、既婚の印にかつらで頭部を覆った花嫁はすでにフパの外。ホールの向こうから、静かにフパを見つめていた黒い服の囁き女たち連れ出され、女たちは互いにそっとほほにキスをしあい、少し憂いを含んだ小さな声でまるでその意味を噛みしめるように、確かめあう。
「マザル・トーヴ・・・、マザル・トーヴ・・・」
悲しみも喜びもすべては神の計画、なるようになる。黒い女たちは、コップに半分の水を否定も喜びもせずに、そのまま事実だけを受け入れるかのように囁きあう。
パン屋のメナシェの結婚。フパの下ではまるでポーランドの貴族ように気高く美しく。どこか悲しみの色のブルー・グレーの瞳には、至福の時でも悲しみを忘れないユダヤの知と美と歴史が、そしてメナシェの過去と未来、喜びと悲しみのすべてが映る。イツホックはフパのそばで「マザル・トーヴ!きっとこの次は君の婚礼だ!」と黒い服の男たちに背中を叩かれ、「マザル・トーヴ!」と不安な思いを悟られないように大げさにすら言い返す。髭を下に引っぱるようにして撫でながら、新たな人生の一歩を踏み出したメナシェの姿を追った。