Friday, November 19, 2004

kafkaな一日 kafka fkafkaf ka

チクタクチクタク・・・

「アンタの書類を失くしたから、今はどこにあるかわからんからね。見つかったら連絡するから。私は知らない。はい、サイナラ。次の人!」

質問も答えも理由も、そこには一切存在しない。ただただ混乱した一方的な時間と空間。ギョウセイ、ぎょうせい、行政、bureaucracy、・・・ああ、アタマが痛い。異邦人の女はエルサレムでこれまでに、幾度こんなカフカ的体験をして来たのだろうか。先日、ヴィザの関係で、異邦人の女は朝からまたまたいつもの新市街の役所へと足を運ぶこととなった。


チクタクチクタク・・・


中東の太陽がすでに厳しく照りつけている朝8時、入国管理局ミスラダ・ハプニムのドアが神々しく開く。すでに2時間ほどもその前で、この瞬間を待ちわびていた老若男女にベビーカー。ロシア、ウクライナ、セルビアにボスニア、フランス、イタリア、ブルガリア、チリ、メキシコ、ブラジル、フィリピン、タイ、イランにイラク、エチオピアに南アフリカに、世界中の隅々からこの国へと生活を移してきた人々。ユダヤ教、ギリシャ正教、ロシア正教、エチオピア正教、カトリックにプロテスタント、仏教、イスラーム教。多国籍、多宗教、ナンビトでもござれと、トライアスロンのスタートよろしく、押しあいへしあいワンサカワンサカ揃って、開け放たれたミスラダ・ハプニムのドアの中へと吸い込まれてゆく。ニッポン代表、異邦人の女もそれに混ざって、飾り気もなにもないビルの中の細い廊下を形振りかまわずまずは短距離走。そしてレースは一挙に心臓破りの階段へと続く。階段をハー、ハー、と息を切らせながら3階まで一段抜かしで駆け上がり、ようやくたどり着いたオフィスへの狭い入り口のドア。またまた、ムギュッ、ムギュッ、と汗だくでオシクラまんじゅう。無理やりそこに身体をねじり込むと、やっとのことで受付カウンターのお姉さんに番号札と申請書を受け渡されて、レースはおしまい。しかし、新たなる勝負はここが正念場。油断は禁物。ここでの横入り、順番抜かしは当たり前。しっかりと自分の足場を固め、弱肉強食、誰にも先を越させてはならない。

ここでなんとか足元を固めた異邦人の女は、それから冷房のガンガン効いた待合室での長ーい我慢大会へと突入。日本の暦の上では秋といっても、こちらはまだまだ夏日の続くスカーンッとイスラエル・ブルーの青空のエルサレム。暑い外気とは対照的に、毛布の一枚でも担いで来るべき冷え切ったオフィスの寒さの中、早くて10時ごろ、いや、うっかりすると11時にならなければ異邦人の女の番号が呼び出されることはなく、時間を潰すための本を忘れるとこりゃ大変。これまでも冷房の寒気に振るえながら、カウンターの壁に自分の手元の番号が点滅し、やっと呼び出されてみれば、

「アンタの書類を失くしたから、今はどこにあるかわからんからね。見つかったら連絡するから。私は知らない。はい、サイナラ。次の人!」

と、有無を言わさずに押しつけられるか、

「足りない書類を次回一緒に持って、また出直し!」

と素っ気無く、こちらの口を開くまもなくいい渡されて、まるで耳の垂れ下がった見捨てられた路地裏の子犬のように、きゅーんと情けない気持ちになる。この間、たったの2分ぐらいだろうか。まるで日本の大病院の待合室のようにして、そしてすぐに「はい、さようなら」となすべくもなくお払い箱。しぶしぶまた改めて他の朝に「前回までは要らなかった」はずの書類を持参して、このトライアスロンを走りきらなければならなかった。

この毎日のあまりの混雑さに、やっとミスラダ・ハプニムがそれらしい解決策を出してくれたのは去年のことだった。今まで誰もが考えつかなかったこの「予約制」という前代未聞、ハイテクな21世紀を代表するかのような画期的ですばらしいアイデアのおかげで、もう二度と早朝から全速力で階段を駆け上がらなくても済むようになった。しかしこの予約制、果たしてよいのか悪いのか、予約が取れるまでほぼ一ヶ月待ちは当たり前、緊急の場合でさえも融通は利かずまったくなんの役に立たない。


その日の朝、時間に几帳面なニッポンジンらしく、予約の時間通りにミスラダ・ハプニムに向かう異邦人の女。そして前回紛失されたはずのファイルは、オフィスのファイルの密林のどこかからか運よくも発掘され、しかし案の定、お決まりの言葉が異邦人の女を待っていた。

「この書類が一枚足りない。これからすぐにKG通り22番地の役所でその書類を発行してもらって、もう一度お昼までに帰って来い!」

これまでにも何度もあれが足りないこれが足りない、といわれ続けて早や二年が過ぎた。ならばどうして申請時に「あなたの場合は書類AとBとCが必要だから、それらを揃えて提出しろ」といわないのだ!と、まるで普通の国で通用するような、真っ当な意見をいってみたところで、この中東の国では埒が明かず、時間とエネルギーの無駄となって余計な疲労感を肩にどかーんっと落とすことになる。そこでわかりきった無意味なことは避けて、新たなるトライアスロンのはじまりはじまり、ヨーイ、ドン!

チクタクチクタク、タッタッタッタッ。

それーっ、と異邦人の女は急いでミスラダ・ハプニムを飛び出して、KG通り22番地をめがけて緩やかな坂道をひたすら走ってゆく。日中のエルサレムの日差しはアジア人特有の濃い黒髪を照らし、お陰で頭上の温度はかなり高くなる。「目玉焼きができそうだなあ」と、走りながらもまだ異邦人の女は余裕があるらしかったが、中東のカラカラに乾いた陽の下でも、やはり走れば当たり前に汗も出るし、鼻の頭だって光ってくる。しかしファンデーションを下地から丁寧に塗ったこざっぱりとした女性などは、砂漠のエルサレム村ではほぼ見かけられない存在。日焼け止めさえも塗らずに、素肌にアイラインと口紅でさささっ、行って来まーす。そんなエルサレム村にローカライズしはじめている異邦人の女も、ポケットのハンカチでポンポンと鼻の汗を拭きながら、KG通りへと22番地を探し走った。

「おっ、ここにちがいない!」

入り口に立っているのは、ブルーの制服の半袖シャツ、無表情なサングラスのガードマン。

「シャローム!ここはKG通りの22番地ですか?」

無愛想にポツリと答えるガードマン。

「ここは22番地じゃなくて24番地だけど。22番地はあっち~」

「あれ?おかしいなあ。役所はこのビルの中にあるように記憶していたんだけどなあ。勘違いかしらん?」

首をかしげる異邦人の女。しかしここで悠長に考えている時間はない。チクタクチクタク、時間は待ってはくれない。「トダ!」お礼を述べると、異邦人の女はくるりと向きを変え、彼の指す方向へと。横断歩道の信号が青になるのを待たずに駆け足で通りを渡り、公園を横切って、今度こそ正真正銘22番地へと。息を切らせながら、ビルを見上げてみる・・・。しかし、どう見てもこんなスーパーのような外観のビルの中には役所はありえない。しかもこの22番地にはなぜか入り口が何ヵ所もあるらしい。

「ここっ、あのっ、ここは、・・・22番地っ?」

肩で息をしながら、異邦人の女はコーヒー豆のようなガードマンを見つめた。

「そうですよ。このビルのドチラへ?」

警備会社のマークの入ったグレーの制服、30歳に少し手前らしい、風でさえも倒れそうなほどに細身のエチオピアンのガードマンは、面倒くさそうにちらりとその視線を異邦人の女に投げかかる。

「書類を受け取りにヤクショへ」

「ここにはヤクショなんてのはないですよ」

「はいっ?でもココ、KG通り22番地デスよね?」

「はい、ソノトーリ、KG通り22番地です」

1990年あたりにエチオピアからの移住が盛んだったころに、このガードマンの彼もイスラエルへと移り住んだのだろうか。少しだけエチオピア訛りの残るような、おとなしいヘブライ語と、異邦人の女の日本語訛りの控えめなヘブライ語が言葉少なげに不安に交差する。


それにしても、おかしいなあ、変だなあ。ミスラダ・ハプニムではKG通り22番地だといわれたのになあ・・・。


「トダ・・・」

それならば、と異邦人の女は裏にあるもうひとつの入り口へとまわってみた。チクタクチクタク・・・時間はなにもお構いなしにすぎてゆく。すでに時計の細い針は正午まであと40分ほど。異邦人の女の頬に、冷めたい汗がすーっと流れ、切れる息の合間に言葉が飛び出す。

「ヤ、ヤ・・・ヤクショは、ここでしょう?」

「ここはKG通り22番チーニャ」

金色の髪にピンク色の頬でにこやかに、強靭な白クマのような若い大きなロシア人のガードマン。

「そう、KG通り22番地でしょう?だ、か、ら、ハァー、ヤクショはここ、ここでしょう?あ、いや、私はロシア人じゃないからロシア語はわかりませんよ。え?じゃあカザフスタン人じゃないのかって?・・・ちがいますって・・・!」

「ソウナノニャ、あなた、ロシア人かカザフスタン系の人みたいニャ。ダ。エーっと、KG通り22番チ、ヤクーショ、ニャんてーの、ニャーよ。・・・ン?ダ。ダ。そのヤクーショニャーら、トニャリーの24番チーニャ。通りを渡ったあニャ公園のミュこうでーニャ。そうそう、ナホン、That’s rightニャ」

ロシア語に所々ヘブライ語が混入したかのような言葉で、彼はおよそこの中東には似つかない爽やかなグレーでブルー色の瞳で、ロシア人から見るとカザフスタン人らしい風貌の異邦人の女に、先ほどのビルを指差すのだった。

ああ、いわれたとおりにKG通り22番地に行けば、そこには役所はない。役所のあるはずのKG通り24番地へ行けばKG通り22番地はあっちだという。なんだかとてもワケがわからない。


「スパシーバ」

「ア、やっぱりロシアジーン、ダニャっ?!」

チクタクチクタク、時間を気にしながらまたまたKG通り24番地まで書類を抱えて、異邦人の女はパタパタと革のサンダルで走る。ちなみにこれまでの人生、エルサレムほど坂の多い街には住んだことがない、と異邦人の女。

「ハァー、ハァー、こ、こ、ここ、ハァー、は、KG通り、24番地ですか?」


これではまるで怪しすぎるが、走れば息が荒くなるのは仕方がないではないか。


「ケン、ナホン」

はい、そうですよ、と、先ほどとはちがう、鷲鼻の浅黒い肌のいかにも何代にも渡ってこの街に住んでいるような、中東男らしい小柄なガードマンの訛りの感じられないヘブライ語。


「ハァー、この、この書類のヤクショは、ハァー、ここですか?(お願い、そうだといって!)」 


鷲鼻はまるで「当たり前だ、おかしなやつだ」といわんばかりに、濃い黒色のサングラス越しにフンっと冷たく一言。

「ケン、ナホン。で、あんた、タイランディーか?フィリピーニか?」

「だから、ちがいますって!ニホンジーンですよ、ヤパニット!」

「あは~、ヤパニット!」

さまざまな国の訛りのヘブライ語と文化が雑多に混ざりあうイスラエルという国で、街なかにあふれるアジアの人々の姿は、料理店で働くタイの若い人たちや、路地を車椅子を押しながら老人介護にやって来たフィリピンの若い人たち。建設現場では、中国からの男たちが、日に焼けた細い体に重い角材を運ぶ。500人ほどもいるという日本の人の姿は、路上ではあまり見かけない。

やっとのことで異邦人の女は、ハァーハァーとよたつきながら目指す役所に到着すると、そこはなんとも素っ気無く、まるで社会主義国の名残りのような古臭さが漂っていた。エルサレム村の役所にしては珍しく5つもある窓口には、いかにもこの役所でしか働けないような個性的な人たち顔ぶれ。奥の部屋には書類の山、山、山。異邦人の女は案内係にいわれたように3番の窓口で待ちながら、ふと、なに気なく異邦人の女の視界に入ってきたのは、隣の2番窓口に座っている係りの男。その男の動作に、異邦人の女は異次元に落ちこんでゆく。その小さな男の、70年代にでも流行ったような大きなトンボ眼鏡の奥に細い目、薄くなりかけた脂ぎったアタマのパラパラと額に落ちてくるその薄い前髪を、くり返し、くり返し、直している神経質そうな指使い。そして薄茶色の、これまた何十年と着込んだかと思われるような、色の剥げてくたびれ切ったシャツ。そのすべてが、21世紀のハイテクな現実から遠くタイムスリップしていた。


その70年代男は、異邦人の女が瞬きもせずにじっと見ていることにも気がつきもせず、無造作に山と積まれた少し黄ばんだような書類の間から紙を一枚その短い指で抜き取ると、さっ、と着古した薄茶色のシャツの胸ポケットからペンを取り出して、クルクルと丸いヘブライ文字を右からひとつ書き込んだ。じっと視線を動かさずに神経質そうに、いま書き込んだばかりのその一文字を見つめる。それから大きく頷いて文字の確認がすむと、握っていたペンに蓋をして、また着古したシャツの胸ポケットにしまい込む。そうかと思ったら、またすぐに薄茶色のシャツの胸ポケットからもう一度ペンを取り出して、一文字書いては頷き、ひたすらそれを何度でも、同じ手順で同じ姿勢で同じように、書いては眺めて頷いて、ペンをポケットにしまっては取り出して。それをぽかあんっと、まるで動物園の檻の中の珍しい動物をはじめて見た時のように、異邦人の女はひそかな驚きと興味で見入りながら、クラクラと気が遠くなるような感覚に襲われた。

そうしてしばらく異邦人の女は、列に並んだままその男を見つめていると、男はようやくのことで一枚目の書類を書き終えたらしく、この男のお茶の時間とあいなったのか、机の上の書類の合間で、注意深く透明のガラスのカップに一定のラインまでピッタリと、小棚の上にあるポットのお湯を注いで、引き出しからティーパックを取り出した。カチャカチャとスプーンで派手な音を立てながら、ティーパックをそのガラスのカップの中でかき混ぜて、それからティーパックの細い糸を小指を立ててペタペタと引き上げた。そしてそれまでペンを開けたり閉じたりしていた、さも不潔で神経質な、でも決して器用ではない短い指で、それをギューっとネチッコク絞ったのだ。そう、それを見ているこちらがじっとりと心地悪く汗ばむほどに・・・。茶色い汁がいかにも不味そうに、男のガラスのカップの中にポタッ、ポタッ、と数滴落ちる。男はそれを鼻の先までずり落ちた大きなトンボ眼鏡越しに、じっと、ピリピリと小さな卑屈な目で見つめる。そして一気に「ズズズズーッ!」、その茶色い液体を、まるで宇宙生物、エイリアンの如く口を尖らしてすすった。ああ・・・!真夏の怪談話のように背筋にぞっと寒気が走り、異邦人の女はその男から目を背けた。異邦人の女は、これほど悪寒のする紅茶を、生まれてから一度たりとも見たことがなかった。

すると、70年代男はおもむろにその茶色い汁の入ったカップを机の上に置いて、思いのほか素早くサッと立ち上がった。立ち上がった男のズボンは、ベルトもなくダラーンと腰の辺りまでずり下がり、だらしなく薄汚れた茶色のシャツがはみ出している。男はそのまま奥への続き部屋に入ってゆくと、書類を顎で押さえながら両手いっぱいに抱え込んで戻って来た。そして椅子に腰掛けると、また先ほどと同じように書類を一枚引き抜いては一文字書いて眺めて頷いて、ポケットからペンを入れては出してを繰り返す。そのうちにその男の周りはすっかり色を失って、その空間だけが茶色がかったモノトーンに、時間の流れさえも異質に、まるで気が遠くなるほど永遠に続いているかのように、異邦人の女はクラクラとそのぽっかりと開いた異次元の、薄茶色の穴に落ちて行きそうだった。

チクタクチクタク・・・


そこで突然番号を呼ばれて、異邦人の女は「はっ」と我に返り現実の世界に戻ると、急いで1番の窓口へと向かった。

「この書類がいるのですが」

役所には珍しく笑顔で太った男は「僕ではその証明書は発行できないから隣の部屋の窓口へ行っておくれ」と、自己防衛の中東では珍しくやさしい物腰だった。笑顔の太った男にいわれるように急いでドアのない隣の部屋へ行くと、そこには今度は髭の生えた痩せたねずみのような、オーソドックス・ユダヤの中年男が座っていた。イライラしながら早口のヘブライ語で、まるでなにか異邦人の女が悪い事をしたかのように、ねずみ男はまくし立てはじめた。

「わからないな、わからないな、どうしてここへやって来たんだ?どうしてだ?」

苛ただしく、やせっぽっちのねずみ男はおなじ言葉をくり返す。

「この書類が必要なだけなのです。発行して頂けませんか」

「わからないよ、わからないよ、なんだってんだ、なんだってんだ、まったく、」

「いえ、だから書類を一枚お願いしているだけなのですけど・・・」

「書類だって?書類だって?なんだよ、なんだよ、だからどうしてここなんだ!えっ?!」

「いえ、ここへ来るように1番窓口でいわれましたから・・・。とにかく私はこの書類がいるのですよ。そして発行するのはあなたなのでしょう?だったら発行していただけますか?」

「まったく、なんだって、書類だって、書類だって?どうしてここでその書類なんだ?わからないな、わからないな、俺じゃないんだよ、書類はダメだ、ダメだってんだ、手紙だよ、手紙、手紙を書け、書類だろ?ダメだよ、手紙なんだ、手紙を書くんだ、わかったか、わかったか、」

ポリポリと痩せた指で髭の顎を掻くねずみ男が妙に惨めったらしく、異邦人の女はなんだか知らないが無性にアタマの中をイライラさせられた。このねずみ男は一体なにを喚いているのだろうか。


チクタクチクタク・・・


「なんですか、手紙って?なぜ私が、一体誰に手紙を書くのです?だからね、この書類がほしいだけなんですってば。あなたが発行する書類なのでしょう?それを坂の下のミスラダ・ハプニムに持って行かなくっちゃ。お昼までに行かなくっちゃならないのですよ。ほら、もう時間がないんですよ」

「だから手紙なんだよ、手紙なんだよ、わからないのかい、わからないのかい!手紙を書いて持って来いといっているんだ、こんな書類は出せないね、出せないね!さあ手紙だよ!」

「ん、もう!だから誰に宛てた手紙になんと書くんですか?!ヘブライ語ですか?!」


「なんだと、なんだと!なんがわからないんだっていうんだい、さっきから何度もいってるじゃないか、手紙だよ、手紙、手紙がいるんだよ、いいな、いいな、ロシアだってアフリカだって、ここではみんなヘブライ語に決まってるだろう、いいな、いいな、そうさ、ヘブライ語さ!」

ねずみ男はさらにヒステリックに、甲高い声でくり返すだけ。チクタクチクタク・・・


「よくありませんよ。ワケがわからないじゃないですか。ちゃんとわかるように説明してくださいよ。そうじゃないと手紙を書くにも書けないでしょう!」

「なんだと!なにがわからないんだ!だから手紙だと何度もいってるじゃないか、まったく、なんてこった、手紙だよ、ほら、書類は出せないよ、出せないんだってさっきからいってるだろう、まったくまったく、なんだってんだ、なんだってんだ、書類だと、書類だと・・・」

「・・・・はぁ、とにかくなんでもいいから誰かに手紙を一枚、ヘブライ語で書くんですね?そしたらすぐに書類は出してくれるのですね?さっきからいっているように、お昼までにミスラダ・ハプニムに持って行かなくちゃいけないのですよ」

「なんだって?なんだって?今からすぐに出せるかだって?すぐにか・・・だって?知らないよ、知らないよ、なんで俺にそれがわかるんだい、いつになるかなんて誰も知らないよ、ミスラダ・ハムニム?ミスラダ・ハプニム?はっ!関係ないね、関係ないね俺には!ほら、とっとと手紙を書きな、手紙だってば、俺は時間がないんだ、ないんだってば、俺は知らないんだよ、いつかなんて、いつかだなんて・・・・、」

異邦人の女の顔も見ずに、まるで独り言のようにねずみ男はブツブツとまくし立てると、イライラしながら髭のもだかった顎をポリポリと掻き、またおなじことを口ごもりながら埃っぽい書類の山の奥へと消えて行ったしまった。書類を一枚取りに来ただけの異邦人の女は窓口に一人、なぜだかポツンと取り残されて・・・。またまた異邦人の女のまわりの色が失せてゆく。

チクタクチクタク・・・


壁の大きな時計はすでに12時を過ぎていた。ドアのない部屋からは、2番の窓口のあの指の短い薄茶色の70年代男が見える。男は相変わらず一文字書いては眺めて頷き、シャツのポケットにペンをしまっては取り出し、それでも壁の丸い大きな時計はただ知らん顔をしてチクタクチクタク・・・。時計はすべてがいつもとおなじかのようになにも関係なく、勝手にいつまでもチクタクチクタク、グルグルとまわり続ける。ああ、ギョウセイ、ぎょうせい、行政、bureaucracy。そこには意味もなく理由もなく、ただただアタマが痛い。チクタクチクタク・・・チクタクチクタク・・・チクタクチクタク。