かざみどり fiddler on the roof
「Sun rise, sun set...sun rise, sun set...日は昇りまた沈む・・・そして日は昇りまた沈む」
「Tradition!!.....But on the other hand...伝統を守れ!・・・でもまあ、ちょっと待てよ・・・」
エルサレムのシネマテックで行われている「Jewish Movie Festival」で上演された「屋根の上のバイオリン弾き」を、昨夜観に行って来た。予定ではこの映画監督と主演のイスラエル出身の俳優ハイム・トポル(Chaim Topol)氏が、舞台挨拶をするということだったので、往年の名優を一目みたいと少々ミーハー的な気持ちもあって、デジタル・カメラを片手にいそいそと出かけて行った。しかし、ああ、やっぱりここは中東の街エルサレム。
会場の入り口では、上演30分ほど前からすでに押すな押すなの大騒ぎ。それもこれも、今回の映画がシネマテック内の大きな劇場での上映なのにもかかわらず、座席指定がされていないこと。そして、ああ、やっぱりさすがはエルサレム人!「オラッチが一番だぎゃ」と、ロビーではもう他の人のことなどはお構いなしの押し合いへし合い。ようやく劇場の入り口のドアが開いたと思ったら、おりゃー、とオラッチたちは狭い入り口へ突進し、もう見苦しさいっぱいの座席取り合戦がはじまった。いやはや、他国民といえども、こんな大人の行動は見ていて恥ずかしい・・・、というよりも、これじゃあ、とっても大人じゃないか。
と、私もそんなに悠長にお利口さんぶっている場合ではない。会場の隅の席でデコボコしたアタマにスクリーンをさえぎられて、上映の3時間をムズムズしながら過ごすのはゴメンである。ガイジンサンだって、日本に住めば日本のマナーを身につけるご時世。昔から人は「When in Rome, do as the Roman do」そう、郷に入れば郷に従えというではないか。なにを隠そう、私ももちろん、オラッチよろしく潔くセキトリ合戦に参戦して、しかも、カヨワキ、ヤマトナデシコ、ちゃっかり劇場の中央を陣取ってみる。
ふぅー、もうすでに体力の半分ほどを費やしてしまった感じがするのは気のせいだろうか。そうしてやっと他の観客たちがそれぞれの席に着いても、いつまでたってもザワザワと相変わらずやかましい館内。これから3時間の長い映画、頼むから静かにしてちょうだいエルサレム人たちよ、などと思っていると、司会のオネエサンが舞台際でヘブライ語でなにか話しはじめた。それでもさすがはエルサレム人、ザワザワと静まらないおしゃべりに、「しーっ!しーっ!」と、あちこちでやりはじめたから、またまたそれがなんとも騒がしくてアタマが痛くなる。
「・・・監督さんは奥さまが二日前に亡くなられ、残念ながら急遽アメリカへ帰国なさいましたので、今夜はこちらへはいらっしゃいません。では皆さま、映画をお楽しみくださいませ」
とオネエサン。出だしから思いっきりの肩透かしを食らう。まあね、そんなものですよエルサレム。でもそれじゃあ、もう一人のゲスト、トポル氏はどうなさったのだ?と尋ねる暇もなく、お待ちかねの「Fiddler on the roof」の幕は開けた。
それにしてもこの映画、しょっぱなから最後まで強烈なくらいにユダヤ・ワールド全開なのである。一つ一つの会話の運び、ボケとツッコミ、爪の先からアタマのてっぺん、身体の動きから何から何まで、これ以上は描けまいというくらいにユダヤの世界が見事に描かれている。まさに「ユダヤ映画の傑作」といっても過言ではないほどの勢いで。
この映画の原作「Tevye's Daughters」では、テヴィエは日常の悲しみにおいて常に神と対話をしているが、映画では全身体的におもしろおかしく描かれ、トポル氏の迫力の歌を名演技で楽観的。しかし、映画後半から徐々に影を現す、幸せと悲しみがいつも紙一重で隣り合わせのユダヤの運命への苦悩。何世紀にも渡り、ヨーロッパでそしてロシアで繰り返されたユダヤのポグロムと流浪の歴史。「Tevye's Daughters」の著者で、ロシアのウクライナ出身のイディッシュ文学の文豪シャロム・アレイヘム(1859―1916)彼自身も、1905年のポグロムを経験し、この物語の主人公ユダヤの中年男テヴィエと同様に、住み慣れた家と土地と、街と、友と、家族と離れて、アメリカへと悲しい移住をしたという。
そして、この映画のテヴィエといえば、やはりこの台詞「Tradition!」なのだ。テヴィエの3人のトシゴロの娘たちは、ユダヤの伝統を重んじて生きてきた父とは別に、ユダヤの伝統的な結婚をせず、そんな時代の流れにテヴィエはアタマを抱え込む。しかし時代は変わりゆくもの。自分とは異なる世代を生きる娘たちを通して目の当たりにする世界の刻々たる変化と、これまで自分たちが生き残るために守ってきたユダヤの伝統としきたりの狭間で、テヴィエはこの先、なにが一番大切なのかを選択をしてゆかねばならない。テヴィエは娘たちの非伝統的な結婚に、怒りを込めて人差し指を立てた両手を空へ掲げる。
「Tradition!」
守らねばならぬのはユダヤの伝統だと、テヴィエは野太い声で叫ぶと、ふっと空を見あげて、いたずらっ子のような大きな眼をして、少し考えてみる。
「・・・いや、ちょっと待てよ。伝統も大切だが、今や時代は変りつつあるんだ。伝統と娘の幸せを天秤にかけるのならば、少しのことは大目に見て許してやろう。近所のヤツラにはなんとかうまく言っとくか。愛しい娘の幸せには変えられんよなぁ・・・よし!娘よ、わかったぞ、好きにするがいい!」
そう掲げた手を下ろし、妥協してゆくのだった。ユダヤのコミュニティーの中で生きていくには、曲げることなど許されない伝統。しかし、それだけではもうどうにもならない時代の流れに、守らねばならない伝統と妥協との狭間を行ったり来たりする父テヴィエ。娘たちの幸せを何よりもプライオリティーとし、人差し指を下ろす父としてのテヴィエをスクリーンに見ながら、なぜか日本にいる無口で頑固な父の姿を重ね合わせていたような気がしてならない。
Fiddler on the Roof。いつ落下するとも知れない危なっかしい屋根の上で、風が吹くたび、よろよろふらふらら。まるでクルクルまわる屋根の上の風見鶏のように。守るべき伝統と文化と、それらを必要としない文明と物質重視の二つの両極端のベクトル。そんな新たな時代の風に吹かれながら、伝統だけにガンジガラメになっていては、その他の本質的な大切なものを見失うこともある。しかし、そうかといって伝統をそっくり投げ出してしまっては、新しい風が吹くたびにあっちへ方向転換こっちへ方向転換と、軸が無くなってしまえばこれまたどうにもならない。
価値観の異なってしまった時代で、それまで受け継がれてきた伝統と、自己のアイデンティティを保つことの難しさ。そして伝統を持たない人々はアイデンティティを取り違え、軸もなくくるくるまわり方向を見失い、価値を見失う。しっかりと大地に足を下ろさなければ、バイオリンはうまくは弾けない。
日は昇り、そしてまた沈む。テヴィエの苦悩は、まさしく現代の苦悩。あっという間に時代は流れ、変化し、伝統なんぞは古めかしい時代遅れのガラクタよと、笑われる。ならば私もここいらでテヴィエのように、そして父のように「Tradition!」と、声高々に両手の人差し指を空へ掲げてみようか。それとも、彼らのようにウインクして、やっぱり片手ぐらいにしておこうか。そんなことを考えながら家路についた、澄んだ砂漠の星の夜だった。