egypt の夜 ~ロイ&マルヴィーナ
日本のナーヴァスな着信音よりもゆっくりと、「プルルー・・・、ふー、プルルー・・・ふー、」とため息をつくように、エルサレムの自宅の電話が鳴り響いた。その週の安息日がはじまろうとしていた九月終わりの夕暮れ。安息日間近のすべりこみセーフの電話は、大抵ろくなものじゃない。その例外にもれず、受話器を置いたあとで、くやしさと、一体どこに持っていけばよいのかよいかわからない怒りとで、涙が止まらなかった。一瞬にして消えてしまったいのち。友を、家族を失うこと。この国ではいつまでこんな悲しみが続くのだろう。
数年前にヨーロッパからこの国へと移り住んできた恋人のマルヴィーナと、ユダヤの新年休暇を利用して小旅行へ出かけたロイ。イスラエル最南の街エイラットからエジプトのシナイ半島へと。世界中のダイバーの憧れブルー・ホール。紺碧の紅海の背後にそびえ立つ赤い砂の山々。赤い砂の山々のあいだを駱駝に揺られ、ナツメヤシの木々を照らすオレンジ色の月。焦げるような砂漠の暑さとは対照的に、深い谷間の紅海は雪解け水のように冷たく澄み渡り、カラフルな熱帯魚がフリルをヒラヒラさせながら群れを成して泳いでゆく。
経済的にも政治的にも厳しい現実を離れ、このシナイ半島で水煙草でくつろぐのが、イスラエルの若者に人気のバカンスの過ごし方。あの夜も、ロイとマルヴィーナは紅海のビーチで、静かなひと時を過ごしていた。
「今回の休暇はシナイ半島は危ないからよせよ。なんだかエイラットあたりも危ないらしいぞ。ハマスの爆弾なんかに吹っ飛ばされたらどうするんだ・・・」
ロイの父は、息子たちが出発する前の晩に、心配して電話を入れた。イスラエル政府はその休暇の時期、テロの可能性があるイスラエルとエジプトの国境の町エイラットや、そこから南、エジプトのシナイ半島のリゾート地周辺には、できるだけ行かないようにと、国民に警告を出していた。しかし、そんな事態を心配する父の気持ちもよそに、ロイはそれを軽く笑い飛ばした。
「そんなの、いつものことだよ。それに僕は兵役も終えたし、いざって時には戦い方も知っているよ。憶えてるだろう、父さん?僕がレバノンに駐屯していた時のこと。激戦で何人もの戦友を失ったけど、僕は大丈夫だったじゃないか。それに今度は戦いに行くんじゃないよ、遊びに行くんだからさ。そんなに心配しなくてもなにも起こらないって。それにテロにあうのは交通事故にあうのと同じくらいの確立さ。しかもこれまで何度も行ってるシナイだよ。大丈夫だって!しかも僕たちが泊まるのは小さなバンガローだから、テロなんかに狙われないって。大丈夫、大丈夫。じゃ、数日で帰るからね。母さんによろしく!戻ったら電話するよ」
そして若いふたりは昼過ぎに車に乗り込むと、地中海の街からカラカラに乾いたユダの砂漠を渡り、赤い砂の山々に囲まれた紅海のバンガローへと。ロイの思ったとおり、そこはエイラットとは比べ物にならないほど宿泊客の姿も少なく、まるでテロなどとは程遠い、オアシスのバンガロー。迎えてくれたエジプト人のオーナーも気さくで、ユダヤだのムスリムだのなんだの、そんなことはまるで遠い世界でのできごとのよう。砂と塵にまみれたカラフルなカーペットが敷き詰められたビーチ・ハウス。日に焼けたヨーロッパからの若い旅人たちが、上半身裸のままで水煙草を楽しみ、レゲイ音楽にあわせてどこかから陽気にタブラの音が響いてくる。香ばしく炭で焼かれた獲れたての魚の、オリーブオイルとガーリックの香りが食欲をそそう。朝の紅海で魚と泳ぎ、午後には土産屋のオヤジも猫も旅人たちも、風に吹かれてシエスタ。
そうしてイスラエルの日常から離れた紅海での楽しい時は過ぎ、何日目かの夜のこと。
「マルヴィーナ、今朝、オーナーに頼んでおいた新しい部屋の鍵を受け取りに、フロントに行って来るよ。部屋に荷物を移したら、すぐ戻ってくるから」
静かな夜の紅海の海風に、ゆったりとビーチウェアーでカーペットの上で横になっていたマルヴィーナにそう告げると、ロイはバンガローのフロントへと。それからほんの少しの時が流れて、マルヴィーナの背中に、静けさを破るようにして激しい爆発音が響いた。突如としてバンガロー一帯は停電し、きな臭い匂いが立ち込める。
「・・・・ロイ!」
夢中でバンガローのフロントへと、マルヴィーナは裸足で、昼間の熱がクールダウンしはじめた砂に足をとられながら、暗闇を走った。
「ロイ!ロイ!どこにいるの?!・・・ロイ!!」
暗闇のどこからもロイの声は聞こえてこない。
暗闇のどこにもロイの姿は見つからない。
それからどれくらいの時が過ぎたのだろう。テロを予期して、エイラットの町に待機していたイスラエルの救急車が、ようやくこの小さなバンガローに到着した。マルヴィーナは車内に運ばれるすでに心拍のない人の姿に見覚えがあったが、咄嗟にそれを否定した。混乱の一夜が明けて、政府が用意した飛行機。まるで昨晩は何もなかったかのようなテル・アヴィヴ。マルヴィーナはアパートへと急いだ。もしかしたら、ロイは先に戻っているのかも知れない……。しかしアパートの中は数日前に出かけた時のまま、がらんと静かで、そこにもロイの姿はなかった。
葬儀では、大勢の友人や親戚、そして家族がロイに別れを告げた。マルヴィーナは服用していた精神安定剤のために涙も出ず、ヨーロッパの母国から駆けつけた両親に支えられながら、ただ映画のように、すべてが非現実的にひとりでにぐるぐると回り、なぜかロイひとりだけが忽然と消えてしまった。葬儀も終わってしばらくのち、マルヴィーナは「ここにひとりいてどうするんだ、帰って来い」と懇願する両親への答えを出した。祖国をはたちで去ってからの四年間、これまで移民としてゼロからはじめ、がんばって生きて来たこのイスラエルという国。ロイとの思い出とともにこのもうひとつの祖国で、これからも生きていこうという、娘の意志を尊重し、後ろ髪を引かれながら帰国の途に着く両親を、ベン・グリオン空港からひとり見送った。
ロイ、享年二十八歳。眼鏡の似あう、やさしくおおらかな青年だった。ふたりはフパの下で結婚を誓い、妻と夫となる日を心待ちにしていた矢先の出来事だった。しかし人生はままならない。ロイはあの夜、シナイ半島の星空の下で「さよなら」も告げずに、それまでの彼の存在がまるで幻だったかのように、マルヴィーナとそして私たちの前から、闇夜に消えてしまった。
あれから一年という時が流れ、テル・アヴィヴの北、ヘルツェリアという街で、地中海の海辺のホテルで久しぶりに再会したマルヴィーナ。思いのほかにマルヴィーナは、まさにサナギから美しい蝶へと。あの夜のことはもう遠い思い出のようにさえ感じさせられた。
「あら、マルヴィーナ、ちょっと大人っぽくなったのね。背も少し伸びたかも?」
少し、からかってみた。
「あはは~!人生は山あり谷ありだからねえ!」
彼女のほうが一枚うわて、女は強い。ロイを失ってからのマルヴィーナ。これからも強く生き続けてゆくのだろう。きっと、もう大丈夫。彼女はイスラエルで見つけたのだろう、今までの、そしてこれからの自分自身を。さようなら、ロイ。心配しないで、そちらで安らかでいてください。あなたのマルヴィーナは、美しく強くこの土地で生きているから。