2005年のディアスポラ
2005年8月14日。数日前のこと、夏祭りの後の夜道のようにゴミやチラシの散らばるヤッフォ通りをマーク氏のレストランへと向かう。
ガザからの撤退で揺れるイスラエル。街の中では賛成を唱えるブルーと反対を唱えるオレンジのリボンがはヒラヒラと車のバックミラーに、学生の鞄に、手首にとはためいて。
何世代も渡りエルサレムに住む家系の友人シギーがガザ撤退に反対して嘆きの壁で行われる祈りに参加するというので、私も写真を撮りにカメラを持ってまだ明るい6時半過ぎに自宅を出て旧市街へといつものように歩いて向かう。なんらいつもの日常と変らない新市街を抜けてヤッフォ通りに出ると、あちらこちらからオレンジのTシャツを着た若者や中年、バックにつけたりボンのロングスカートの高校生などが目指すは一路、嘆きの壁。
もう少し早めに家を出るべきだったと思うも遅し、オレンジの人の波を縫ってタッタカターと旧市街へとヤッフォ門をくぐる。石畳の旧市街に入るとオーソドックス・ユダヤのハバッド派が「メシア」とヘブライ語で書かれた黄色い旗を振りながらにこやかにオレンジ色の人たちに混ざり歩いていた。嘆きの壁に向かう人たちの流れに押されながら細いアラブ市場の石畳を降りてゆくと、そこから壁へと続く道はすでにおしくら饅頭。乳母車を押しその反対の手で幼い子供の手を引く若い母親たちの姿が多く、子供は人ごみに揉まれるは退屈するはで、こんなところに連れてくるのは大人の身勝手かと思いつつも、ベビーシッターもそうなかなか雇えないのだろう。
壁へ向かう横道へ逸れてみるも、もうどこもオレンジの人でいっぱいで、壁には到底近づけない。オレンジのリボンを額に巻いた若いイェシヴァの生徒風の男がオレンジの紙を手に立っていた。「シャロンは辞任すべし!」そう書かれた紙を壁に向かう人々に手渡している。少し離れた花壇の上からその男の写真を撮っていると太っちょなおばちゃん、うれしそうににっこりと。
「Good! Take some more pictures! You speak English? 」
いかにも典型的なアメリカ移民の太っちょなおばちゃんはガザのグシュ・カティフ入植地がどれほどすばらしいかを英語で歌ったCDを自費出版したから買ってくれないかというのを「がんばってねー」と買わずにさよなら。ずっとずっと砂漠だったあの土地に緑を植えて開拓し町を作り、政治的にはどうであれそこを今去らねばならぬみなにはそれぞれ色々な思いがあることだろう。
日が西に傾いて、嘆きの壁の前からゆっくりと静かに祈りが響きはじめる。壁の前の広場、壁に向かう階段、通り、旧市街のユダヤの街は一体となってこれからのイスラエルとユダヤの人々の未来を祈る姿。大人の壁に挟まれてつまらなさそうに小さな子供がニット編みのキパを頭に乗せた若い父親に尋ねる。「偉いラビはどこにいるの?今日はどうしてみんなで祈るの?」
エルサレムの空に静かな祈りが揺れはじめると、人ごみの苦手な私は細い石畳をアラブ市場へ向かって歩き出す。アラブ市場の屋根の上の広場の上につくともうそこまでは祈りの声は届かない。そこからすぐそばの壁にあれほどたくさんの人たちが祈っていることすらまるで夢のようなエルサレムの夕暮れに吹きはじめる冷やりと心地よい風。昼間は風のないこの街も夜には夜には風の街へと異なった顔を見せるエルサレム。この屋根の上までも彼らの祈りが届かないのならば果たしてそれは一体どこまでならば届くのだろうか。風は祈りを遠くまで運んでくれるのだろうか。
屋根の上の広場では、桃色にそして青く染まった空に凧揚げをしている黒いキパのユダヤの少年がひとり。凧は鳥のように空高くすーっと風に乗って。政治も宗教も、そして祈りも関係なくエルサレムの風を受けて高く高く空を舞う。灰色の長細い猫が凧を見上げている私の前をひょんひょんと「人はおろかなものよ」とでも言いたげに知らん顔をして通り過ぎる。
旧市街の空がすっかり紫色に変わって、少年は器用に凧の糸をクルクルと手繰ると吸い寄せられるように降りて来た凧を手に、どこかへ行ってしまった。
祈りを終えてヤッフォ門から旧市街の外へと向かう人たちを避けて私は閉められた商店の閑散とした人影の少ないアラブの町を通り抜けてダマスカス門へと出てみると、そこにはイスラエル兵士と警察の姿があり、パトカーも待機している。しばらくすると同じようにヤッフォ門を避けてこちらへ回ってきたユダヤの人たちの姿も途切れることなく数を増しはじめ、近道に東エルサレムの大通りへゆこうとする黒い服の男たちに迂回せよと兵士たちは行き先を規制する。誰であろうとユダヤの人は理由抜きに迂回せよという典型的な強引さの兵士と警官の態度にうんざりしたように黒い服の男が「腕を放せ!俺は行きたいところへ行く!」と叫ぶと、警官はさらに力強く男の腕を引っぱり背中を押す。
男と警官がもめている背後をアラブの住民は「我れ関せず」とダマスカス門から旧市街へといつものように門をくぐる。
「そうやってイスラエル政府が、同じユダヤでありながらこの国でのユダヤの行動を規制すればするほどこの国は自滅の道を行くんだ」
そう言った黒い服の男の言葉の意味を考えながら、私はヤッフォ通りのマーク氏のレストラン「あっぷする~と」へと夜祭の後のような夜道を歩いてゆくと、おやまあ、「あっぷする~と」には嘆きの壁からの帰路の途中の腹ごしらえと満席で、カウンターに列を着いて待っているほどに。とりあえず、この夜の祈りがポジティヴに働いた人がひとりでもいたことを知った瞬間。店の入り口からカウンター内のマーク氏に手を振る。
「シャロームシャローム、チカ!腹減ってる??ん?」
いやいやもちろんお腹はすいてますが、それよりもマーク氏よ、あなたのレジの中をいっぱいに膨らましてください。一歩足を踏み入れた「あっぷする~と」はうーん、荒れてますなあ。テーブルの上には前のお客さんの残したサラダやコーラの缶、ナプキンやらなんやら、床の上には赤紫の小ナスの漬物が落ちてますよ。あらあらとなぞのトルコ人ハッサンを探してみるも彼の姿は見えず、マーク氏はオーダーを取ってあげてレジを叩いてとテーブルどころではない。ひょいっとキッチンを覗いてみればムハンマッド君はのんびり~っと食事中でチキンを詰めたピタを頬張って。それではとにかく鞄を置こうと店の奥のマーク氏の部屋のドアを開ける。うわっ、びっくりした!黄色いひよこのように元ニューヨーカーのモシェが電気の消えている暗いマーク氏の部屋でベットにちょこんと座っているではないか。
「ハ、ハ、ハ・・・ハイ!モシェ!・・・・何やってんの? 」
「僕ちゃんの大好きなロシア番組見てんのさ。だって、今夜は客が多すぎてさ、落ち着いてテレビ見れないんだよね。まったく邪魔なんだよなあ」
「あは~・・・、エンジョイ!」
あ、あ、びっくりしたよ。でもここは、い、ち、お、う、レストランだからね、客が多いほうがマーク氏のためにはいいんですよ、モシェさん。気を取り直してハッサンのスプレー片手にシュッシュ、サッサッ。テーブルやカウンターの上を片付ける。
「おー、お嬢ちゃんよ、ポテトまだ?うちの子がさっきから待ってんだけど~」
ちょっとごめんよ、マーク氏よ、ポテトだって。え?そこら辺の小皿に適当に盛って持ってってくれって?はいはいはい。それにしてもお嬢ちゃんと呼ばれる年ではないぞ。まあ中東の人は老けてるからニッポンジンは若く見えるのだろうけど・・・。走行してマーク氏を手伝っているとさすがにキッチンのアラブ君も申し訳なさそうに思ったのか、私の後を金魚の糞となって片付けた後のテーブルをなんとなく拭いてみたりと。
さてと、やっと客足も引いて、なんだか祇園祭の夜などを思い出しながらマーク氏の焼いてくれたチキンとピタを食べようかと、テーブルに腰を落とすと、嘆きの壁の前まで行くといっていた友人のシギーが「やっぱりここにいると思ったんだよね」と言いながら「あっぷする~と」に入ってきた。シギーは混雑を予想して早めに家を出たらしく壁の前まで行ったそうだが、とんでもなくたくさんの人で身動きができないほどだったらしい。
「あれ?だったら上から撮った写真に写ってるかもよ?」
どれどれ、とデジタルカメラをマーク氏の部屋の鞄から取り出して、モニターで見てみる。
「あー!!ここ、ここ!ここ、この場所に立ってたのよ私!」
豆粒ほどに小さく写る7万人近いアタマのいつくかを指すシギー。どれどれと覗いてみるもわかりませんなあ。
エルサレム人シギーの父君の家族は何代にも渡って旧市街に住んでいた。1948年にイスラエルが建国されると同時にガザはエジプトによって、そしてエルサレムの旧市街はヨルダンによってユダヤの人々はその土地を追い出されることになった。当時まだ幼い男の子だったシギーの父君とその家族は突然にやって来たヨルダンの兵士に銃を突きつけられて「これから5分のうちに荷物をまとめて出て行け」と着の身着のままでその家を追われたのだという。それまで旧市街ではムスリムもユダヤも隣り合わせに生きていたのに。ヨルダンはこうしてユダヤの人々を追い出すと、家を壊し、古くから建っていたシナゴーグを壊し、ユダヤの人々を嘆きの壁やイスラームが出来る以前から何千年とあるオリーブ山のユダヤの墓地を訪れることを一切認めずに。今ユダヤがガザを撤退することへの反対は、ユダヤの人々が住んでいる土地からまた追い出されることへの反対と、そんな個人的な背景だってあるのかもしれない。
Fiddler on the roof、屋根の上でまたしてもバイオリンが響く。ロシアで、そしてヨーロッパでと、何世紀にも渡り住み慣れた土地を追われたユダヤの人々。いくつかの小さな鞄にすべてを詰め込んで、または着の身着のままで新たなる土地へと流れ流れて、そしてやっとたどり着いた安住の地、祖国イスラエル。この祖国でまたディアスポラを経験するなどとは夢にも思わなかっただろう、いや、ひょっとしたら彼らは安住の地などないことをすでに知っているのかもしれない。シギーの家族のように、他所の中東の街からエルサレムへと流れ着き、何世代にも渡りこの街に生きてきたのちにまた流されて。そして今、また新たな風が吹いて屋根の上の風見鶏はクルクルと方向を変える。しかも今度はロシア政府でもドイツ政府でもなく、同じユダヤの人たちの政治によってその土地へ住んでみないかと歌われて、やがてまるで繰り返される歴史のようにそこから出てゆけと風は吹いて、またバイオリンと共に流れ流れて。
明日から48時間ののち、ガザのユダヤの町はすべて幻、虚しく悲しい夢の跡となってそこを追われた人たちのまた新たなる離散の人生がはじまる。15世紀にスペインを終われたユダヤの人々のように、幻となった町をそしてそこに建っていた家々の鍵を彼らもまた大切に保管しつつ、いつまでも思い続けるのだろうか。一体いつまで、どこまでこうして彼らは流れてゆくのだろうか。
2005年8月 エルサレムの自宅にて