Thursday, July 15, 2004

17歳の夏

17歳の夏、はじめて日本という島の外へ旅をした。
それはシルクロードの入り口のゴビ砂漠、オアシスの町、敦煌を目指して。

高校3年になってすぐのある晩のこと。夕飯が終わってから一服していた父は突然、「この夏に中国に行くけれども、お前は中国なんて興味ないよなあ。」と、冗談交じりに笑いながら私に向かって言った。それを聞いてなにを思ったのか私は、即座に、「行くっ!」と、ひとつ返事。「えっ?」と、ビックリしながらも、冗談にしろ誘った手前連れて行かねばならぬのか、と頭を掻く困ったようなうれしいような父の表情がなんだかおかしくて、こうして母も兄も抜きの、私と父とのあの夏の旅が一瞬にして決まってしまったのだった。

他のクラスメイトは受験勉強に追われていたあの夏休み、のんき坊主な私は受験勉強もそっちのけに父と大阪の伊丹空港を出発して、何日かかけて北京から蘭州へと北上した。紫禁城の壮大さにぶったまげ、楊貴妃の庭でちょっとその気になって遊び、はじめて見るコーヒー牛乳色した黄河で乗ったフェリーの舵を執らせてもらう。行けども行けども続く、雪をかぶった天山山脈の果てしない荒野。時折思い出したように現れる狼煙台。砂漠を満天の星の下、ガタガタとオンボロバスに揺られて、やっとたどり着いた敦煌の町。時計を見れば真夜中過ぎの午前二時。器をひっくり返したようにあたり一面180℃に、天の川がどこにあるのかさえわからないほどの無数の星たちが煌めいて、憧れのシルクロードの入り口までやっと到着した旅の疲れと感動で、もうそれだけで胸がいっぱいになり、夜空と星の他には何も見えなかった。 
 
次の日には朝早くに、まさに『月の砂漠』のイメージで、鳴砂山という砂山へ向けて駱駝に揺られトコトコトコトコと。初めて揺られた駱駝の背中は、想像していたよりも骨ばってゴツゴツとして、質の悪い絨毯の上に座っているような。駱駝が一歩踏み出すたびにけっこうおしりが痛くて、ポロシャツにタオルを首に巻きつけた父は、私の後の駱駝の上から「あいたたたぁ」。

朝日の光と影の織り成す線が、とても芸術的で美しい鳴砂山は、小さな三日月の形をした、鏡のように透き通った月牙泉という、砂漠にあっても一度たりとも枯れた事のない泉のそばに、砂丘のように静かに私たちを待っていた。父と二人、ゴツゴツした駱駝の背中から開放され、サラサラの砂の上を頂上に向かって歩き出すと、一歩一歩、きゅっ、きゅっ、と音がする。この音は砂が夜に間に降りてきた霜を含み、靴に踏まれてきゅっ、きゅっ、と鳴く様な音を出すので、鳴砂山と言うのだそうだ。やっと登りつめた鳴砂山の頂上で、父はおもむろにリュックの中からなにやら中国語のラベルのついたボトルと、旅の途中で手に入れた深緑色の薄い石で作られたグラスを二つ取り出し、紹興酒を注いで乾杯!私はこんな父に出逢うたびに、あの映画のインディアナ・ジョーンズを思い出し、なんだかおかしくなってしまう。
 
それからしばらくの敦煌の滞在では、仏教史博士の父の旅の目的地であった莫高窟(ばっこうくつ)の壁画へと足を運ぶのに忙しく、窟内で父は一生懸命にメモを取り、いろいろと壁に描かれている絵の意味や物語などを説明をしてくれたのだが、私はただその美しい天女のような姿が描かれた壁画に見とれるばかりで、その他の事は何がなんだかさっぱりわからずに、旅に出る前にもっとちゃんと勉強しておけばよかったと、少し後悔したのを憶えている。

そして敦煌での最後の夜は、どうしてもあの夜空をもう一度だけ心に留めたくて、翌日の旅の準備を終えてから、ひとり星降り注ぐ空の元へと。夏の砂漠の夜空の遠く向こう、星が途切れたところが地平線。両手を広げても、息を吸っても吐いても、前も後も右も左も、星、星、星。ひとり、星明りの下、地面にぺったりと座り込み、敦煌の夜風に月の砂漠を口ずさむ。     
 
それから帰国して月日が流れ、敦煌熱もすっかり冷めかけた、高校を卒業した頃にはもうかなりの近眼になってしまった私の目は、眼鏡をかけても、コンタクトレンズを入れたところでも、もうあの夏の夜空の星たちのひとつひとつをはっきりと認識できるほどの視力は持ち合わせなかった。あの17歳の夏に見た、敦煌のあの煌めく夜空がその最後となってしまった。