アイデ、チャオチャオ
今日の朝のことだった。
寝室のドアがガガッと重たい音を立てて、少し開いた。
エルサレムの自宅の寝室のドアは建付けが悪く、開け閉めのたびにタイル張りの床にこすれて、車を塀にこすったようないやな音を立てる。
「ああ…、誰か入ってきた…」
ちょうどその少し前、隣の仕事部屋で電話が二度ほど鳴り、きっと留守電が苦手な実家の母だろう、と眠りと現実のあいだをうつらうつらしていた所だった。おかげでドアを押して寝室に入ってきたのはその母だと思った。しかし、それはどうやら彼女の母らしき眼鏡の老女で、寂しそうな表情でこちらを見ていた。
「ああ…、おばあちゃん? 何かあったのかも…」
ベッドから起きだして、いつものように歯を磨きながらコンピュータに向かう。起き抜けの回らない頭を活性化させようと、これまたいつもは磨き儀式の一環でYahoo.co.jpで今日の出来事をつらつら眺めながら、ああ、そうだ、留守電だ。しかし机の横の受話器からは「You have no messages」と録音された機械の声が流れる。あれ、おかしいなあ。まちがいだったかな。
それから午後遅くになって、クロアチアのザグレブに住むヴィオラ・レア小母さんが亡くなったと、彼女の50を過ぎた娘さんから連絡が入った。今朝寝室のドアを開けたのは、ああ、ヴィオラ・レア小母さんだったんだ…。
実はヴィオラ・レアはこの週のはじめの月曜に亡くなったという。しかしわたしがそのことを知ればわざわざお葬式に来るだろうから、葬式の前日までは黙っていなさい、と彼女の娘さんに伝えていたということだった。
ユダヤ人であるヴィオラ・レアの父は、セルビアの収容所で1944年のはじめに亡くなっていた。ナチによって、他のユダヤの人々と同じように無意味にそのいのちを奪われてしまったのだった。それが理由かはついに最後まで聞けなかったが、ヴィオラ・レアは組織された宗教を一切否定し、ユダヤ人でありながらユダヤの習慣や祭りなどを頑なに彼女の生活から排除して生きていた。「宗教なんて、フン、とんでもないよ!」彼女の口からユダヤという言葉も一度も聞いたことはなかった。
葬式はこれまでの彼女の人生通り、宗教も何も関係なく、そして土葬ではなく火葬してほしいとのことだった。当然、彼女が属するはずであるユダヤの教えでは火葬は禁じられている。
「600万人の仲間たちと同じように火葬にしておくれ」
ホロコーストで亡くなった600万人ものユダヤ人。アウシュヴィッツで、その他の絶滅収容所で、飢餓のために、または病気のために、またはそこに到着後自動的に死のかまどで灰になった人々。ヴィオラ・レアはあの時代を多感な思春期に体験していた。そしてあの仲間たちと同じように…、おそらくは彼女の父と同じように…、と病室のベッドの上で、何人でもなくユダヤ人としての最期を言付けた。
享年80歳。
娘とヴィオラ・レアの妹ビアンカ・ミリアムがその日の訪問を終えて帰宅後、病室のベッドの上でテレビを観ながらすーっと眠るように独りで永眠についた。
「わたしがこんなだから、あの子が今来てくれても、あの子の好きな野菜スープは作ってあげられないねえ」
この3週間の入院生活で、度々、そう娘さんに話していたそうだ。
2006年の夏に会ったときも「心臓がね」と辛そうな息でスープをこしらえて迎えてくれた。
ヴィオラ・レア、ザグレブのあの暖かな家であなたのスープを啜りながら、まだまだ聞きたい話がいっぱいあった。まだまだあなたの人生について知らないことばかりだった。
金曜日の午後。
エルサレムの乾いた空に、安息日を告げるサイレンが鳴り響く。
同じ時、ザグレブの青い空には一筋の煙が昇ってゆく。
どうか、安らかに。
そして、心からありがとう。
だから、いつもの別れの言葉で今を終えましょう。
またね、ヴィオラ・レア。
「アイデ、チャオチャオ、チカ」
「アイデ、チャオチャオ、ヴィオラ・レア」
また会える時まで。
(ヴィオラ・レアとビアンカ・ミリアム一家の話は、単行本になった「ロスト・ラゲッジ ~エルサレムのかたすみで~」でどうぞ。)